コイビトカッコカリ 1






 制服の衣替えがあったばかりで、そろそろ梅雨に入るのではないかと天気予報のお姉さんが言っていた。
 確かに蒸し暑い日々は続き、少しだけまだ慣れない暑さに参っていた。
 放課後の部活動を終えて帰宅したマンションのエントランスで視界に入った閉まりかけたーのドアを目にして反射的に走り出す。
「ちょっと待って!」
 誰も乗っていないかもしれないその箱のドアは静かに閉まっていく。間に合わなかったかと諦めかけたところににゅっと箱から手が生えてきて再びドアが開いた。
 そのまま少しだけもつれそうになる足をなだめながら箱に入ると同じ年のはずの少年から見下ろされる。
 小学校では同じクラスにもなったことがある。けれど、中学は通う学校が違った。彼は私立、私は地元の公立。
 中学に入ったばかりだというのに、彼の背はにょきにょき伸びて、数か月前まで小学生だったとは思えない成長と遂げていた。
、すげー汗」
 彼は笑いながらそう言った。
 自分の名前を憶えているとは思っていなくて彼をじっと見上げていると「あ、ごめん」と今度は謝罪を口にする。
「あ、ううん。こちらこそごめん。まさか、私のことを覚えてるなんて思ってなかったから、ちょっとびっくりしただけ」
 返した言葉に彼は首を傾げて、「クラスメイトだったじゃん」とまた笑う。私は目立つ方ではなく、どちらかと言えば地味だ。中学生となった今でもそれは変わらない。
 対して彼は最近モデルになったと聞いた。中学に入って間もなくのモデルだが、この長身とすらりとした手足に涼やかな目元は同年代の人気を得るには充分だったのだろう。元々得意なものが多かった彼はおそらくモデルという仕事も卒なくこなしているに違いないとその頃の私は何の疑問も抱くことなく勝手に彼の明るい未来を想像していた。
 エレベーターは私が降りるべき階に止まると早く出て行けと言わんばかりに口を開ける。
「じゃあ、また」と思わず口にすると彼も笑って「またな」と『開』と書かれたボタンを押しながら返した。
 しかし、彼と会ったのはあの箱の中が最後で、そのあとすぐに引っ越した私は彼との接点を失った。ただ、時折雑誌の表紙で見かけたり、部活動で名前を耳にするなど、遠い存在として、昔クラスメイトになったことある誼を思い出しては彼の活躍を期待していた。

 どうして今頃、もう十年以上も前のことを思い出して懐かしんでいるかと言えば、現在、その彼が目の前にいるからとしか言いようがない。
 周囲の女性は色めき、男性は眉を顰めるなどというフィクションで見たそれが目の前にあった。
「黄瀬涼太です。芸能界は引退したので、一般人になりました。どうぞよろしくお願いします」と自己紹介した彼は、どうしてかグローバル企業と呼ばれるような大きな会社ではなく、国内ではそれなりに耳にしたことがある人も多いかもしれないという中堅のこの会社を選んで中途採用社員となり、SEという職種でこの部署に配属された。
 社内では彼の噂が瞬く間に広がり、社内を案内した同性の同僚はこれまた眉を顰めていた。
 勤務時間にも拘らず、多くの社員が我が部署を訪れてきた。目的は、元芸能人の姿を自身の携帯電話やスマートフォンに収めることのようだった。
 昼休憩に入り、私は最上階の食堂に向かった。
 本日の定食を購入して窓際のカウンター席に座る。
 基本的に昼食は社員食堂を使っている。時折外食をするが、昼休憩が重なるオフィス街でゆっくりと食事を摂るのは難しいため、あまり好まない。メニューに変わり映えがない代わりにゆっくり食事をとれる社員食堂の方が性に合っていた。
 黄瀬くんが芸能界を引退していたというのは正直初耳で、だからこの休憩時間にスマートフォンでちょっとだけ検索してみることにした。
 どうやら彼は二年近く前に芸能界を離れたようだ。理由など書かれている記事はなく、ほとんどが大げさに書かれていたり、推測で面白おかしく書かれていた。
「隣、良いですか?」
 ふと、手元が陰ったと思ったら声を掛けられた。
 彼の手元のトレーには、味噌ラーメンが乗っていた。
 どうしてこんなところに、と思ったけれど、彼の背中越しに見えた光景に納得した。
「ちょっと待ってください」と返して自分のトレーを隣の席にずらして使用していた箇所は近くに置いてあった布巾で軽く拭いてきれいにする。
「どうぞ」とひとつ隣の席にずれて今まで私が座っていた壁際の椅子を譲った。
 彼は少し驚いたように眉を上げて、そして微笑む。
「ありがとう」と言って椅子に腰を下ろした彼の視線の先は、私が検索して表示していたそれだった。
「あ……、ごめんなさい」
「いいよ、気になるのはわかるし。それより、さっきはありがとう」
 どうしてかお礼を言われたのだけれど、全く身に覚えがなくて「何を?」と聞き返してしまった。
「注意してくれたじゃん」
『注意』という単語で思い浮かんだのは、先程態々うちの部署までやってきて彼に無断で写真を撮っていた人たちに「本人の了解を得てからにしたらどうですか?」と声をかけたことしか浮かばない。
 もちろん、私のこの言葉で態度を改める人なんてほとんどなく、大きなひとりごとで「ウザい」とか、私に聴こえるように言う陰口ではない陰口を叩かれたりもした。幾人かの良識のある人は構えていた自身の携帯電話やスマートフォンを降ろして恥ずかし気に去っていったりもした。
 元々、芸能人に対して『有名税』などと言って失礼を働くことに対して疑問というか異議があったから思わず口から出たというのが正しくて、それを感謝されるのは少し居心地が悪い。
 それはそうと、今も彼は同意のない被写体となっているようで、私は彼女たちの携帯電話やスマートフォンの中でトリミングされて記録から消去されていることだろう。
「黄瀬さんは」と話を振ろうとすると「いや、『黄瀬さん』って」と彼が笑う。
でしょ? 。小学校一緒だったじゃん」と指摘されて驚いた。
「覚えてたの?」
「覚えてるって。クラスメイトだったじゃん。けど、本当に久々だな」
「そうだね。中学以来だから十年以上経つよ」
「そういや、中学に上がって少しして見なくなったけど、引っ越した?」
「うん、親の都合で。お父さんが隣の県に転勤になったの。隣の県だから頑張って通うか単身赴任かするようにってお母さんが言ったんだけど、お父さんが熱心にプレゼンしてその熱意により一家揃っての引っ越しになっちゃった」
「おばちゃん、仕事してなかった? たしか、看護系?」
「うん、だから仕事は引っ越しの時にやめて、新居での生活に慣れたら「じゃあ、働くわ」って働きだした。資格があるって強いなって思ったよ」
「おばちゃん、バイタリティあったよね。中学からは学校が違うし、高校は俺も東京を出たから顔を合せなかっただけかと思ったけど」
「海常高校バスケ部のエース」
「知ってんの?」
「知ってる。私も高校はバスケ部だったもん。地区予選で男女同じ会場だったりもしたでしょ? 帰りの電車で隣の車両に青いジャージを着た大きな人たちがいたこともあったよ」
「マジで?! 声掛けてくれればよかったのに」
「そもそも黄瀬くんの記憶に私があるとは思っていないよ」
「えー、高校時代のにも会ってみたかったなー」
「高校デビューとかなかったから、見ても面白くなかったと思うよ」
 それから、どうやって黄瀬くんがSEになったのかという話やこの会社のローカルルールなどを話した。
 隣に座っている黄瀬くんからは味噌ラーメンの香りに混ざって人工的な、でも嫌いではない香りがしていた。おそらく香水を付けているのだろう。急に彼が大人になったのだと意識してしまう。
 ふと時計を見ると昼休憩はあと十分。
「やば」と思わず声を漏らした私の声に彼も気づいて「ホントだ」と箸を持つ。
「伸びたんじゃない?」
「まだセーフ」と言って彼は滝を逆再生したかのようにラーメンをすすり、手元に置いていた冷水が入っていたコップに手を伸ばして一気飲みをした。
 あまりの食べっぷりに驚きもしたが、「色々時間のない中、食事をとってたことがあったからね」と彼が苦笑する。
っていつも社食?」
「大抵。たまーに外食とかお弁当」
「ふーん」と相槌のようなものを打った彼は「じゃあ、また。ありがとな」と言って席を立った。
 窓の外の日差しは、真夏と表現しても遜色ないもので、巷でのそろそろ梅雨明けという話も納得だ。
 何とか食事を終え、食堂を後にして所属部署へとダッシュした。

 終業時間間際に目の前のディスプレイにポコンとアイコンが表示された。社内システムのチャットメッセージの受信があったらしい。
 新しい仕事でも振られたかと開いてみるとそれは黄瀬くんからで、「俺のID」と書かれたメッセージの下にはアルファベットと数字が並んでいた。覚えるには至難の業のそれは、彼が個人的に使用しているメッセージアプリのIDだと気づく。
 執務室が同じではあるが、彼と私の仕事は基本的には接点がなく業務中に話をすることはない。席も離れており、遠くにある彼のデスクに視線を向けると彼はこちらを見て自身のパソコンのディスプレイ指さした。
 メッセージを送る相手を間違ったのではないかと思ったが、どうもそうではなく、ちゃんと私宛のようだ。こっそり自分のスマートフォンを取り出した。私も彼と同じメッセージアプリを使用しているため、そのIDを入力し、「です」とメッセージを送った。
 間もなくそれに返事をするようにかわいらしいスタンプが送られてきた。
 憎からず思っていた懐かしい人物との再会に心が躍った。日常生活の中で久々の刺激のある一日となった。







桜風
22.7.1


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