コイビトカッコカリ 4
お盆休みに入り、自宅の掃除を終えて実家に帰る。実家は私が高校生の時に建てた二階建ての一軒家だ。親はこのローンの返済のために労働している状態になっている。庭を見ると随分と野性味あふれていた。絶対に炎天下の中草取りをさせられると諦めながら「ただいまー」と実家の玄関を開ける。
「おかえりー」
同じくお盆休みの母が玄関に出てきた。
「はい、お土産」
「ありがとう」
娘の帰宅を迎えるためではなく、娘の買って帰るお土産を迎えるために玄関に出てきた母は、目的のお土産を受け取るとそそくさといなくなる。
帰宅したその日のうちに庭の草取りをした。日焼け止めを塗りまくって、こまめに塗り足していたというのに、草取りが終わって家の中に入ると肌が赤くなっていた。これ、何とか誤魔化せないかなぁと思いながら過ごして黄瀬くんと待ち合わせをした日を迎えた。
朝食を済ませて、自宅から持ってきたデパコスを並べる。黄瀬くんに習ったことを思い出しながらメイクをしていると部屋のドアがノックされた。
「今忙しい」と返事をすると「そう言わず」と母が入ってくる。
「あ、ホントに忙しそう。え、それ結構いいお値段の化粧品じゃない? どうしたの、彼氏ができた?」
「いません」
「つまんない。で、どうして気合の入ったお化粧をしてるの?」
仕方ないため、黄瀬くんと待ち合わせをしていることを話す。
「黄瀬くんって、タケノコ?」
そうだった、母は黄瀬くんのことを『タケノコ』というあだ名をつけてこっそりそう呼んでいた。理由は「見るたびににょきにょき背が伸びているから」だったはず。
「そう。タケノコの黄瀬くん」
「えー、あの子モデルしてなかった?」
「二年くらい前にやめたみたい。今、うちの会社でSEしてるよ。独学だって」
「はー、大変だったんだね。ところで、今日の下着はちゃんと可愛い? 新しい? 上下のデザインは揃ってる?」
「いいから出て行って」
「つまんなーい」
何を勘ぐっているのか……。
これまで何度かメイクの練習をしてみたけど、結局うまくできてるかどうかわからなかった。だったら、先生に見てもらった方が良いだろうと、今日、満を持して外出のためにこれらを使ってメイクすることにしたのだ。せっかく教えてもらったのに、自宅で練習して終わるのはきっと良くない。
メイクを終えて家の外に出ると強い日差しでちょっと怯みもしたが、帽子を被って駅に向かった。人混みの中では日傘は差しづらいかもしれない。
黄瀬くんとの待ち合わせはお昼前の十一時だ。しかし、公共交通機関には予期せぬトラブルがつきものだった。どこかで人身事故があり、電車遅延となってしまった。待ち合わせ時間に合わせて電車に乗ったため、遅刻が約束されてしまった。黄瀬くんに連絡をすると、駅前のカフェで待ってるから焦らないようにと返事がある。
結局、電車が動いたのは予定より三十分も遅れてとなった。当然、約束の時間から三十分近く遅れたことになる。駅前で黄瀬くんに連絡をするとすぐに向かうと返事があった。
人混みでごった返す駅前はカップルや家族連れ、友人たちとの旅行といった様子の人たちが行き交う。
信号待ちをしている人の中で黄瀬くんを見つけた。外国人旅行者が多いこの観光地で、黄瀬くんの長身はさほど目立たない。黄瀬くんがこちらに気づいたようで軽く手を挙げた。私も手を振り返す。
信号が変わって軽く駆けてきた黄瀬くんが目の前に立って「お待たせ」という。今日も香りが違う。
「私の方こそお待たせしました。公共交通機関と言い出した私がいけなかった」
「車も同じだよ。渋滞で進まないかもしれない。今日はメイクが違うね」
凄い観察眼だ。
「先生に見てもらうと思って」と言うと彼はじっと私を眺め、「うん、ギリギリ及第点」とちょっと辛口な評価をくれた。
「アイメイクがちょっと濃いから全体のバランスが微妙になってるかな」
「精進します」
「また見せてよ」
「黄瀬くん、たくさん香水を持ってるって言ってたけど、どれくらい持ってるの?」
「数えたことないなぁ。どうして?」
「今日も前に出かけたときと香りが違う」
「よくわかったね。は香水に興味あるの?」
「興味はあるけど、ひと瓶全部使うのはちょっと無理だなって思って敬遠してる。黄瀬くんみたいに気軽に使えたらいいんだろうけど」
「使えばいいじゃん。いくつか分けようか? 今日着けてるのもユニセックスだし、女性が付けててもおかしくないよ」
「うーん、でもやっぱりハードルが高いなー」
「じゃあ、欲しくなったら言って。持ってるのなら分けてあげるからお試しって感じで」
「ありがとう」と返すと黄瀬くんは頷いた。
それから、どのあたりの観光にするかと話をしてみたが、何より人が多い。
「はどこに行きたかったの?」
「小町通りだったんだけど、お盆の観光地を軽く見てたわ」
小ぢんまりとしたお店が多く、覗いて歩くのが楽しそうだと思ったのだが、この人出ではゆっくりとウィンドウショッピングをするのは難しそうだ。
「行こうよ」と黄瀬くんが私の手を引いて歩き出す。行き交う人に鞄が引っかかって歩きづらい。これは鞄も失敗してしまったようだ。気づいた黄瀬くんは「それ貸して」と言って私の鞄を持って再び歩き出す。鞄がなく、手を引いてくれる黄瀬くんの後ろを歩いている状態のため、さほど人の波の影響を受けなくて済んでいる。その分、黄瀬くんが大変なんだろうなと少し申し訳ない。
「そういえば、。ご飯どうする? 食べてきた?」
「朝ご飯は食べたけど、それ以降は何も。黄瀬くんは?」
「俺、朝食べないから」
「じゃあ、お腹空いてるのでは?」
「さっきカフェでコーヒー飲んでたからそこまでじゃないよ」
「よし、先にご飯にしよう。今の時間ならちょっとだけ早いから混んでないかも。何が食べたい?」
御馳走する身だ。黄瀬くんのリクエストに合わせよう。苦手なものは少しあるけど、嫌いなものやアレルギーはないから何でも食べられる。
「そうだなぁ」と言いながら黄瀬くんは周囲を見渡し、「あ、ここ」と言って足を止める。
「いや、今日は時間を気にせずにゆっくり食べられるんだよ?」
黄瀬くんが足を止めたのはうどん屋さん。私の財布の中を気にしてくれているのかもしれないけれど、もうちょっといいのを食べても大丈夫だ。
「いや、ほら。あのうどん御膳、美味しそうじゃない? 俺、ここがいい。はうどんの気分じゃない?」
「いや……」
正直、メニューの炊き込みご飯は気になった。
「じゃあ、ここで。まだ席に余裕ありそうだね」
そう言って黄瀬くんは暖簾をくぐり、開き戸を開けた。
「いらっしゃいませー」と元気な店員さんが黄瀬くんを見て一瞬固まる。大丈夫かなと思っていると「二名で空いてますか」と気にせずに黄瀬くんが声をかけた。
店員さんは仕事を思い出したように返事をして奥まった席に案内してくれた。
「観光地だから慣れてそうなものなのにね」と言いながら黄瀬くんは椅子に腰を下ろす。「黄瀬くんは慣れてるんだね」というと「自然と慣れちゃうもんだよ」と笑った。
お茶を運んできた店員さんにすでに決めていたメニューの注文を済ませて人心地着く。
「あ、そうだ。桃っちがと友達になりたいから連絡先を教えてほしいって言ってたけど、教えていい?」
「なんて?」
「こないだ話してて楽しかったんだって」
これまで「友達になってください」なんて申し出を受けたことはなく、お返事のお作法がわからない。
「嫌ならいいんだけど。でも、桃っちと連絡が取れたら、青峰っちの最新情報が入るよ」
「それはおかしい。桃井さんが青峰選手のマネジメントしているのは彼女の仕事、付属的なステータスであって彼女そのものを評価しているものじゃない。そういう考えは嫌い」
黄瀬くんは少し驚いた表情を見せて「ごめん」と俯いた。
「いや、あの。こちらこそ強く言ってしまってごめんなさい」
「俺、のそういうところ好きだよ」
どういうところなのかわからないが、「ありがとう」と返しておいた。信用している人からの好意は単純に嬉しい。
「あ、で。桃井さん。私、そんなに面白い話してなかったと思うんだけど」
「たぶん、さっきのを感じ取ってたのかもしれない。桃っち、俺と同じタイプだと思うから。人付き合いは得意だけど、どうしても表面の付き合いになりがちって言うか……」
黄瀬くんが言葉を濁す。桃井さんが良いと言うなら、断る理由はない。私は彼女と話をしていて楽しかった。何より、友達になりたいと言われて悪い気はしない。
「いいけど。連絡先って、何を教えたらいいの? 電話番号? 住所?」
「桃っちも俺たちが使ってるメッセージアプリ使ってるから、そのIDで良いと思う。教えていい?」
「お願い」
黄瀬くんはスマートフォンを取り出してメッセージを打ち込む。間もなく、私のスマートフォンに新着メッセージが届いた。IDが中々難解というか、黄瀬くんのID並みに覚えるのが大変だ。
「これ?」
「そう、それ」
返事を打つとまたメッセージが来る。
「きーちゃんと一緒にいるなら、ツーショット写真送って」
どう返していいのかわからず、「こんなことを言われた」と黄瀬くんに見せると彼は苦笑して「あとでって返しておいて」と言う。
返事を送るとかわいらしいスタンプが送られてきた。「了解」ということなのだろう。
「お待たせしました」と店員さんに声を掛けられて運ばれたメニューを見てちょっと怯む。店先で見た見本よりも多い気がする。
「、食べられる?」
「この後のデザート諸々を諦めたら、たぶん、何とか……」
「じゃあ、デザート分の余裕を確保して、食べられそうにない分頂戴」
「食べれるの?」
「うん、俺代謝が良いから」
全体の三分の一を黄瀬くんにお願いして、残りを食べることにした。流石に食べかけを渡すわけにはいかない。
会社での昼ごはんや、先日の夕ご飯はそんなに食べている様子はなかったけど、黄瀬くんは小食ではなくて、食べていないだけのようだ。外食するとお腹ぱんぱんになるまで食べてしまう自分を反省する。
黄瀬くんの協力もあって、全部食べることができた。美味しかったけどもう少し控えめな量だったら助かる。一方、黄瀬くんはぺろりと平らげた。高校生の胃袋のままなのかもしれない。
支払いを私が済ませている間に黄瀬くんはお店の外に出た。
「お待たせ」とお店の外に出ると、黄瀬くんが空を見上げている。
「あ、雲が出て来たね」
「降らなきゃいいけど……。、傘持ってきてる?」
「日傘だったら晴雨兼用だったんだけど。たぶん人が多くてさせないと思ったから置いてきちゃった。日差しがなくなるのは助かるけど、雨は嫌だね」
「持つと良いけど」と言いながら黄瀬くんはこのお店に入る前みたいに私の鞄を持って手を引いていく。
「見たいお店があったら、手を引っ張って」
見たいと思ったつもりはなくても、歩調が遅くなっているのか黄瀬くんは私が興味を持ったお店の前で足を止めて二人で眺める。
「ってアクセサリー好きなの?」
「何か、キラキラしているのが好きなんだと思う。お母さんから「カラスかな?」て言われたことがあるよ」
「欲しいのある? 買ってあげるよ、お礼に」
お礼? 何の? 今日は、以前黄瀬くんに付き合ってもらったことのお礼でここまで来ているのに? エンドレスにならない?
よくわからないが「たくさんあるから」と断った。
「会社にしてきてる?」
「時々なら。たくさん買ってたのは、大学の頃だから、ちょっと今の雰囲気と合わないものが多いし、アクセサリーを選んでる時間がないというか……」
なるべくギリギリまで寝ていたい。
「ああ……」と黄瀬くんは苦笑した。察してくれたらしい。
「でも、これ可愛いと思うよ」
黄瀬くんは腰を屈めて言う。随分と声が近くて彼を見るときれいな顔が近くにある。同じ高さの椅子に座っても身長差は結構あるから、新鮮だ。
「あれ。黄瀬くん、ピアスしてたの?」
左耳に跡があった。こんなまじまじと黄瀬くんの横顔を見ることがなかったから今頃気づいた。
「中学の頃にあけて、二年くらい前まで付けてたよ。会社勤めするなら付けてない方が良いだろうなって思ったから」
反対側も見ようと顔を傾けると彼は意図を察して右耳を見せてくれる。
「こっちはない?」
「片耳だけ」
「お洒落のため?」
「……最初に左をあけたら思ったよりも痛くて、右はやらなかっただけ」
それが何とも私のツボに入って思わず声を上げて笑った。雑踏の中、声を上げて笑ってもさほど目立たない。
「そんなに笑う?」
「ごめん。でも、めちゃくちゃかわいいじゃん、中学生の黄瀬くん。その後、もうちょっと大人になってから右もあけようと思わなかったの?」
「もういいかなって」
どこか投げやりな言葉に私は口を噤んだ。
「どうかした?」
「どうもしない。もうちょっといろんなお店を見たい」
そういうと黄瀬くんは「そうだね」と言ってまた私の手を引いて歩き出す。彼が二年近く前に前の仕事を辞めた理由については深く詮索するつもりはないけれど、嫌な事とか辛いこともたくさんあったのだろう。前の仕事をやめて二年近く経つのに、彼に対して無遠慮にカメラを向ける人たちもいるのだ。その仕事をしている間はもっとひどかったに違いない。私が想像する以上に彼を傷つけることがあったのではないかと思うと、あまり昔の話は聞かない方が良いのだろうと思った。
ふと、視界に入ったお店があった。たぶん、好きだなと思ったけれど人の波をかき分けていかないと到着できない。少し大変そうだし諦めよう。
諦めた直後、黄瀬くんが止まって彼の背中にぶつかってしまった。
「ごめん」と言うと「見たいお店があったら引っ張ってって言ったじゃん」と私の手を引いて、気になったお店に連れて行ってくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「あのね、これが気になったけど……。ちょっとかわいすぎるか」
目を引いたイヤリングは、色味がかわいらしく今の私には合わない感じがした。しかし、「似合うと思うよ」と黄瀬くんが言う。
「確かに色はかわいらしい感じがするけど、デザインは落ち着いてるし、が会社に着てくる服にも合わせられると思う」
「ホント?」
「うん、本当」
よし、じゃあ。買っちゃうか。黄瀬くんのおしゃれアドバイスは信じられる。
「ちょっと待ってて」と言ってどうしてか黄瀬くんが私が気に入ったイヤリングを持ってレジに向かっていく。そして支払いを済ませて戻ってきた彼は「はい、あげる」と私にそれを渡してきた。
「え、いや。払うよ」
「いいよ、プレゼント。今度それ付けて来てね」
「悪いよ」
「悪くない。そろそろ小腹が空いたんじゃない?」
「言われてみれば……」
「じゃあ、次は甘いものを探そう」
甘味処でお団子を食べて再び歩き出す。
彼は私の手を引いて歩いていく。少しして開けた場所に出た。人だかりがあり、私が興味を示すと「何か、飲み物の試供品を配ってるみたい」と長身の彼が人だかりの中の様子を教えてくれた。
「行く?」
「行ってみたい」
「じゃあ、行こう」
人だかりの中には黄瀬くんが行ってくれた。戻ってきたその手にあったのは小さな缶ジュースのようだった。
「あ、これ新しい味が出たんだ」
「あげる」と言われて戸惑った。黄瀬くんのがない。人混みの中に行ってくれたのは黄瀬くんだ。彼こそ権利がある。
「黄瀬くんが飲むと良いよ」
「俺はいいよ。これ苦手だから」
「新しい味なのに、飲んだことあるの?」
「メーカーが、なのかな。高校の時、CMのオファーがあって精いっぱいやったんだけど、結局使われなくて。オンエアの日に見たら、自分じゃなくて他人が自分と同じお芝居をしてるんだ。凄くへこんだ」
「そんなことあるんだ」
オファーしたらその人を起用するんだと思ってた。
「これって、『青春』とか『恋』とかがテーマになってることが多いでしょ? 俺の時は『恋』がテーマだったんだけど、どうもピンと来なくて。でも、ピンとこないなりにやったんだけどね。ダメだった。けど、今ならできると思う」
「大人になって経験を重ねたから? でも、当時の黄瀬くんがそういうタイプのCMしてたら、ちょっと大変だったかも。うちのクラス、黄瀬くんのファンがすごく多かったから。そういう商品って何本か飲んだらCMに出演している芸能人のクオカードのプレゼント応募ができるキャンペーンをやるじゃない? 近所のお店の商品買い占め運動が始まってたわ」
「も俺のファンだった?」
きかれて非常に困った。答えあぐねていると「違うのか」と彼が肩を落とす。
「というか、テレビや雑誌を通して黄瀬くんを見ても、小学校の頃のあれやこれやを思い出して懐かしさの方があったんだよね。あー、あの黄瀬くん頑張ってるなーって」
「それはそれで複雑だなぁ」と黄瀬くんが笑う。
せっかくここまで来たのだから神社でお参りはしようと話していると風が出てきた。遠くで鳴る雷の音も耳に届いて、いよいよ雨が降るのかもしれないと少し足早に拝殿に向かう。
「そういえば、桃井さんが言ってたツーショットってどうしよう。誰かに頼む?」
道行く人に頼めば撮ってくれるだろうが、そもそも黄瀬くんは写真をどう思うのだろうか。
「スマホ貸して」と言われてスマートフォンを先ほど黄瀬くんから受け取った鞄から取り出す。
「カメラはこれか。手を出して」
言われたとおりに手を出して、ピースサインをそのままするように言われてその形を作った。黄瀬くんがその隣に同じく手を出してピースサインをする。手の大きさがあまりにも違って笑っているとそのままシャッターが切られた。
「これを送って。俺がこれを送るように言ったってメッセージを付けたら、たぶん桃っちも何も言わないよ」
なるほど、ツーショットと言えばツーショットだ。メッセージアプリを立ち上げて写真を添付し、表示されたものを見てまた笑う。
送るとすぐに返事があって「きーちゃんも照れ屋だね」と返ってきた。黄瀬くんに見せたら苦笑していた。
手を合わせているときに突風が吹いた。周囲から小さな悲鳴が上がるほどのそれは私の帽子を吹き飛ばすのに十分な威力があり、「あっ」と声が零れたときにはもう帽子は私の頭から離れていた。追いかけなきゃと振り返ると、隣に立っていたはずの黄瀬くんがジャンプして私の帽子を捕まえていた。え、かっこいいんですけど?!
「はい、どうぞ。飛んでいかなくて良かったね」
「いや、飛んでたよ。黄瀬くんがいなかったら失くしてたかもしれない。ありがとう、黄瀬くん。めちゃくちゃ嬉しい!」
「それは良かった」
この帽子、お気に入りだったのだ。帽子を被るときは基本的にスポーティな服装をするのだが、そうではない時はこの帽子がとても便利で愛用している。しっかりと帽子を被り直して帰路を急ぐ。
ぽつり、ぽつりと小さな雨粒が落ちてきた。頭上で雷が鳴ったかと思うと一転してスコールのような雨が降ってくる。
駅まで駆けたけど、私も黄瀬くんもずぶ濡れだった。鞄は、ありがたいことに黄瀬くんが羽織っていたシャツの中に入れてくれていたからさほど濡れずに済んだ。
鞄の中からハンカチを取り出して濡れた箇所を拭いてはみたものの焼け石に水と言うか、何一つ解決しそうにない。
突然、黄瀬くんが羽織っていたシャツを掛けてきた。
「なに?」
「下着が透けて見えてる」と耳元で言われて小さな悲鳴を上げた。
「着て」と言われて袖を通す。ぶかぶかのそれは黄瀬くんの体温をまだ保っていて温かい。
しかし、目の前の黄瀬くんは半袖Tシャツになってしまった。
「寒くない?」
「鍛え方が違うよ。一人で帰れる? 送っていこうか?」
時間も遅くないし、最寄り駅まで付いたら家に電話をすれば迎えに来てもらえるだろう。何より、ウチまで送ってもらったら黄瀬くんが帰るのが遅くなる。
「大丈夫」
「そう。じゃあ、今日は帰ろうか」
ホームが違うため、駅の入口で別れて帰った。
実家の最寄り駅に着いたら雨は上がって日差しも出ていた。さっきのは通り雨だったのだろう。夕立と言うにはまだ時間は早いが、そういうことだってある。
「ただいまー」
駅からは歩いて帰った。その方が服が渇くと思ったのだ。
「おかえり。おや、ひとり?」
「ひとりだよ」
「そのぶかぶかの服の持ち主は?」
「家に帰ったよ」
「連れてくればよかったでしょ。うちの方が近いんだから、服を洗って乾かしてあげることできたのに。サイズの合う服はないだろうけど、まあ、シーツにでも包まっててもらえれば大丈夫でしょ?」
そこに考えが及ばなかった。後は帰るだけと思っていたから、ウチに来てもらうなんて考えなかった。
「ホントだ」
「まあ、次がもし万が一にでもあれば選択肢に入れておきなさい。で、なんで彼シャツみたいなことして帰ったの?」
「下着が透けてたんだって」
「気合を入れた、可愛くて新しい、上下のデザインが揃っている、あの」
「気合は入っていない、まあまあ新しい下着です」
まだ言ってると思いながら訂正し、「シャワー浴びてくる」と言って着替えを用意するために自室に向かった。
桜風
22.7.23
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