コイビトカッコカリ 5
黄瀬くんから借りたシャツを返すために連絡を取り、自宅にお邪魔することになった。取りに来ると言ってくれたが、借りたのはこちらでこんな暑い中ご足労いただくのは申し訳ない。
住所を教えてもらい、最寄り駅までは到着できた。地図アプリを起動して、指し示す方向に向かったはずなのに、どうしてか目的地が近づかない。どういうことだろう。地球が回っているからかな?
仕方なく黄瀬くんに連絡をすると「そこから動かないで」とメッセージが返って来た。
間もなく黄瀬くんの姿が見えた。これまでに見た私服の中で一番ラフなものだ。
「会社で渡してもらってもよかったのに」
「服だけなら、まあそれもありだったんだけど。中の保冷袋。実家の近くに家族経営の古い和菓子屋さんがあるんだけど、そこのわらび餅もお礼に入れておきましたので。一応、うちの冷蔵庫からそのまま持ってきたけど、家に帰って改めて冷やしてから食べたら絶品だよ。賞味期限が短いから早めに渡しておきたかったの」
「ありがとう。後で食べるよ。、ウチに少し寄ってかない? 冷たい麦茶ならあるよ」
用事は済んだし、帰ってもいいのだが、この炎天下。日傘をさしてても、ただ立っているだけでじわじわと汗を掻く。
「御馳走になります」
冷たい飲み物には勝てなかった。
少し歩いてたどり着いたマンションは、ウチとはランクが違うのが一目でわかるそれだった。
部屋のドアを開けて「入って」と促されて足を踏み入れたらそこはとても涼しく、広かった。
「え、広いんだけど。1LDK?」
「あー、そうだね」
「黄瀬くん、一人暮らしならこんなもんでしょってうちで言ってくれたけどやっぱ狭かったんでしょ」
「俺、身体が大きいから」
「そうかなー、そういう問題かなぁ?」
「いいから、そこ座って」
指さされたソファに腰かけた。思いのほかふかふかしてて、ちょっとバランスを崩してしまった。ソファの足元にはダンベルがある。鍛えてるって時々言ってるのはこういうことなのだろうか。
氷と麦茶が入ったグラスをふたつ持ってきた黄瀬くんが「どうぞ」とひとつ私の前に置いて「ちょっと待ってて」といなくなる。口を付けていいのかどうか迷った挙句、喉の渇きには勝てずに一口飲んでしまった。沁みる……。
「せっかくが来たんだから、香水。気に入ったのがあれば分けるよ」
「こんなに持ってるの? お店が開けそう」
「ユニセックスのだけ持ってきたから、もう少しあるけど。もっと持ってる人はたくさんいるよ」
ソファの前のローテーブルの上に並べられた美しい形をした小瓶を開けては香りを確かめ、それを繰り返していたのだが。
「ごめん黄瀬くん」
「好きなのなかった?」
「匂いがわかんなくなってきた」
一度にいくつもの香水を嗅いでいるとどれがどれなのか、香りが混ざっていないのかわからなくなる。
「基本的に、シトラス系は好き。あと、これは好きだった」
麦茶の香りで嗅覚の基準を直しながら黄瀬くんに言うと「じゃあそれと、シトラス系は……これがいいかな」と目星をつけて香水瓶を片付け始める。
黄瀬くんはとても紳士なので、私の部屋を見渡すことはしなかったけど、私は淑女ではないため、部屋を見渡す。生活感がなく、ここで本当に生活しているのかと驚くほどだ。
「黄瀬くん、卒業アルバム見せて」
香水瓶を片付けて戻って来た彼に言う。
「は見せてくれなかったじゃん」
「こっちに置いてないんだもん。黄瀬くんは持ってそう」
「持ってるけど」
「見たい」
「……はいはい」
溜息と共に彼はまた隣の部屋に姿を消した。暫くして三冊の卒業アルバムを持ってくる。小学校から高校までのものだ。
「小学校のは私も持ってるよ」
「いいじゃん、一緒に見ようよ」
黄瀬くんと私は三年生と四年生の時にクラスメイトになった仲だから、卒業アルバムで一緒に写ってはいない。ただ、卒業後の進路や近況を知っている子の話をすると彼は楽しそうに相槌を打った。
「黄瀬くんは誰かのこと知ってる?」
「私立に行ったからね。連絡も殆ど取ってなかったし」
そうなのか。確かに、学校が違う子たちは今どうなっているかはわからない人の方が多い。
中学校のアルバムは、当然ではあるけど、知らない人たちばかりが写っていた。先日、バスケのために集まった数人が確認出来てそれはそれで楽しい。
「あ、黄瀬くんピアスあけてる」
「中三の夏に開けたからね」
クラス写真の時にはなかったピアスが途中の行事などが写っているページでは確認できた。中学生ってこんなにかわいいっけ? 子供じゃん。
私の知らない黄瀬くんがそこにはあって、ちょっとカッコつけてたりカメラに気づいていなかったりして色々な表情が見られた。
高校の卒業アルバムは、もう今の黄瀬くんっぽくなっていた。高校三年生といえば、九年前。最近と言えば最近かもしれない。青いユニフォームの黄瀬くんは部員の真ん中に立っていた。ただ、部員数が多いため、他の部活動に比べると小さい。部員数を数え始めた私に黄瀬くんが笑って「実際はこれより多かったのか少なかったのか俺もわかんない」という。写真を撮ったのが秋だから、受験を控えてインターハイ後にやめた人もいるらしい。
「そういえば、黄瀬くん三年間インターハイに出たんだよね」
「優勝できなかったけどね」
「それでも充分凄いよ」
「けど、自分がキャプテンで出たときよりも、一年の時、先輩たちに支えてもらってプレイしていた時の方の印象が強いんだよね。俺、あの人たちに会えて、海常に行って良かったって今でも思うよ」
目を細めて過去を懐かしむように黄瀬くんが言う。その貌はとても美しかった。
ふと、黄瀬くんの耳を見る。
「これ、もう塞がってるの?」
「たぶん……、ちょっと待ってて」
またしても黄瀬くんは隣の部屋に行き、今度は小箱を取ってきた。箱を開けるとピアスが沢山、無造作に入っていた。
「もうちょっときれいな保管方法があるでしょう」
「そうだね」
思わず口に出した言葉に彼は苦笑して頷き、ひとつ取り出す。
「これが、一番長くつけてたかな」
丸い輪っかのようなピアスを取り出した。そのまま黄瀬くんは針を出して耳たぶに当て、「穴、ここで合ってる?」という。
「合ってるけど、何するの?」
返事はなく、彼はそのまま針をそこに刺した。少し力を入れている様子にハラハラする。自分がピアスホールをあけたことがないから、それは正しいピアスの嵌め方なのかわからない。たぶん、正しくない。
「俺さ」と黄瀬くんが声を出す。
「俺、前の業界、芸能界から逃げてきたんだよね」
不意に語り出した彼の言葉にどう反応していいかわからず、「うん」と相槌を打った。
彼は言う。
芸能人である以上、自分が商品であることは理解していた。仕事に関してはそこまで思うところはなかったけど、プライベートにも他人が土足で踏み込むようなことがあり、けれど、それは仕事の一環として、商品としての自分を保たなくてはならないから嫌な顔をせずに愛想笑いばかりしてきた。だんだん、自分が切り売りされているような気がしてきた。どんどん本当の自分の箇所を失くして、何も残らないのではないかと感じた。その時、すごく怖くなったのだという。マネージャーや所属事務所の社長は、それは他の誰もが感じていることで今更そんなことに気を取られるのは弱い証拠だと言って激励したが、やはりその時にはもうダメだったそうだ。
「期待してくれてたから、もうちょっと頑張りたかったんだけどね」
肩を落としていう黄瀬くんの頭に手を伸ばしてガシガシと撫で繰り回した。ボサボサ頭の黄瀬くんがきょとんと私を見る。
「黄瀬くんは自分を大切にしてえらいよ。我慢できるかどうかなんて定量的な判断ができるものじゃないんだから、黄瀬くんが辛いと思ったら辛いで正解だよ。ちゃんと自分の本音を聞いてあげて汲んであげた。黄瀬くん、えらいよ。花丸だ」
黄瀬くんはきょとんとした表情のまま私を見てそして視線を落とす。
「俺、花丸なんてもらったことないよ」
「ホント? たくさんあげる」
「ありがとう」
「ピアスは、その時の思い出で嫌だから外したの?」
「俺、元々こう……軽薄そうな雰囲気があるって言われてて。会社勤めって堅苦しくないといけないのかなって思って、まずできることって何だろうって考えてピアスを外した。就職するにも、俺、学がないからなんか資格を取らなきゃって思ったんだけど、学校に行くと目立つかもしれないから通いたくないと思って。前に仕事で話をしたことがある人がSEは独学でやっていけるって言ってたのを思い出して、今までしたことがないくらいに猛勉強して取れる資格取って、今の会社の採用試験を受けたんだ。中途採用になったけど、配属先にがいたから、俺、ちゃんとできたんだってホッとした」
俯いたまま彼が話す。
「私が『ちゃんとできてる』の基準というのは少し考え直した方が良いと思う。けど、たぶん、ピアスはうちの会社だと問題ないと思うよ。学校みたいに細かい服装のルールがあるわけじゃないんだから、社会人の服装は清潔感があればいいんじゃないかな。会社の、黄瀬くんがいるチームの人で、昔ピアスしてた人がいたような気がする。他所の部署にはふたつみっつピアス付けて歩いてる人を見かけたりするし。好きなら付けていいんだよ、他人に迷惑を掛けなきゃ誰も口を出さない」
黄瀬くんが「そっか」と呟く。どこか安堵したような声音に、私も少し嬉しくなる。そして、ふと気づいた。
「え、ちょっと待って。黄瀬くん、耳! 血が出てるよ」
「あー、ホントだね。やっぱ、穴が塞がってたんだ」
耳たぶを触ってその指を見た黄瀬くんがのんびりと言う。
「大変! 消毒。エタノールはないの? 化膿しちゃうよ。買ってこようか? 確か、来る途中にコンビニあったよね? でも、まずは血を拭かなきゃ」
「大丈夫だよ、これくらい」
「大丈夫じゃない。痛いでしょ」
「うん、ちょっと痛い」
目にうっすらと涙を浮かべて笑う黄瀬くんに、それは、どの痛みに対しての涙なのだろうかと勝手に胸が痛める。けれど、彼はきっとピアスの痛さだと思われたいのではないだろうか。
「ちょっと氷で冷やしてて。コンビニ行ってくるから」
「ありがとう。部屋の番号、ちゃんと覚えて出てってね」
「はい」
すっかり忘れてた。このマンション、オートロックだから部屋番号を覚えておかないとエントランスでインターホンを押せない。当然、黄瀬くんの部屋番号には彼の名など表示されていないだろう。
炎天下の中、黄瀬くんの家に日傘を忘れてきたことをとても後悔しながらここに来るまでに見たコンビニまで足を運び、消毒液とコットン、そしてアイスを買って戻る。黄瀬くんの家にもコットンはありそうだが、なかった時の保険だ。再び、炎天下の中、太陽に焦がされながら黄瀬くんのマンションに戻った。とめどなく流れてくる汗に煩わしさを感じながらエントランスで部屋番号を入力してインターホンを押すと返事もなくドアが開いた。そのままエレベーターで上がって先程出てきた部屋に向かう。再び部屋のインターホンを押すと黄瀬くんが応じてくれた。
「、凄い汗。麦茶飲む?」
「いただきます!」
玄関先でそう会話をして再びリビングのソファに腰を下ろした。
「一応、氷で冷やして血が出てたところは洗った」
「じゃあ、消毒だけはしておこうね。あと、アイス買ってきたからそれが終わったら一緒に食べよう」
そういうと黄瀬くんが少し驚いたように目を丸くした。
「あ、長居し過ぎかしら? 麦茶いただくだけの話だったのにおかわりまでして」
「ああ、ううん。、部屋の掃除するって言ってたような気がしたから、もう帰るんだと思ってた」
「掃除はするよ。でも、お盆休みの最初の日に粗方済ませたから、今日はささっとするだけで済むはず。あと、香水も分けてくれるって言ってた」
「あ、そうだね。もうちょっと待って」と黄瀬くんが頷いた。
消毒液を染み込ませたコットンを傷口に当てると随分と大げさに痛がる。「はいはい、痛いの痛いの飛んでけー」と適当なことを言いながらしっかり消毒して念のため絆創膏を貼った。どうせお風呂に入るときに濡れるからそれまでのものだろうけど、また血が出たら服が汚れてしまう。
買ってきたアイスはパピコのカフェオレだ。
「俺、パピコ久しぶり。高校以来かも」
「私も。ニコイチのって、独り暮らししてると買わないんだよね」
一本ずつに割って二人で食べた。空になったパピコを咥えたまま黄瀬くんは香水を分けてくれた。会社で再会して以降、黄瀬くんはどこかお行儀の良い人という印象があったけど、もしかしたらこちらが素なのかもしれない。
黄瀬くんに彼の家の最寄り駅まで送ってもらって帰宅した。家に帰った時には陽が沈んでいて、さすがにこれから掃除は下の階の人に迷惑だろうと思って、諦めた。お盆に入った時に粗方掃除をしておいてよかった。
お盆明けの出勤には黄瀬くんがくれたイヤリングをお供にした。朝、考える時間がないから付けていくことが少ないだけであって、考えなくていいなら付けていくのは吝かではない。何せ、私はカラスではないが光物が好きだ。
「おはよー、どうしたのそれ。珍しいじゃん」
目ざとくイヤリングに気づいた都成が声を掛けてくる。
「おはよ、似合うでしょ」
「かわいい癖にシンプルだから、何にでも似合いそう」
そりゃ似合うよ。私のファッションコーディネーター先生が似合うと言ったんだから。
「おはようございます」と声をかけてきた人を見上げると「お土産です」と鎌倉に本店があるサブレを渡された。いつの間に買ったのだろうかと考える。たぶん、駅構内だろうな。ほぼ地元というカテゴリーに入れていたから職場にお土産を持ってくるという発想はなかった。
「ありがとう! そういえば、も実家に帰ったんでしょ? お土産は?」
「私の元気な笑顔」
「わー、うれしいなー」
全く嬉しくないと顔に書いてあるが気にしない。
「さんもどうぞ」
「ありがとう」
受け取ったサブレは引き出しの中に仕舞った。
「卒がないとはああいうことか」
「そうだね」
久々の出勤は身体が重い。実家にいたとき、そこそここき使われていたが、それでも食事の支度や洗濯、その他細々としたことをしなくて良かったのだから、急に一人で生活をしていくのは疲れる。その上、仕事まであるのだ。人類の身体に良いわけがない。昼食は黄瀬くんに倣って冷やし中華にした。
「珍しいね」と隣に座るのは黄瀬くんで、彼も同じメニューだ。
「暑いから」と返すと「なるほどね」と笑う。
「は、今週の日曜忙しい?」
「日曜は、桃井さんとスイーツビュッフェに行く約束してる。スポンサーからチケット貰うことが多いけど、今まで行けたためしがなくて、行けるときは行きたいって。だから、私でよろしければお供しますって話になったの」
「桃っち、そろそろ渡米するって言ってたからいつだろうって思ってたんだけど。来週あたりかな?」
「急ぎの用事? 土曜なら空いてるけど」
「土曜は、高校時代の部活の先輩が結婚するからそのお祝いをすることになってるんだよ。お祝いの品は別の先輩たちと選ぶから昼間も潰れるし」
「結婚式?」
「それはまた別の日で招待されてるんだけど、友人だけでお祝いしろって言われて、久しぶりに集まるんだ」
「結婚式は、親戚縁者、人によっては職場の同僚上司が来るから中々話する時間が取れないっていうもんね」
「じゃあ、今回は縁がなかったということで」
「そうね。そういえば、ここ最近、黄瀬くんとよく出かけてるね」
「そうだね」
黄瀬くんは相槌を打った後、勢いよく冷やし中華を啜りだす。
「よく噛んで食べた方が良いよ。私たちはもう若くないらしいから」
「規格が違うんでしょ?」
一瞬だけ箸の手を止めて返した黄瀬くんはまた勢いよく平らげていく。
「そういえば、俺またピアス開けることにしたよ。今度は両方。さっきチーフに聞いてみたらみたいなことを言われた。他人に迷惑を掛けず清潔な服装をしていればピアスなんて気にするやつはいないだろうって。実際、チーフはこの会社に入ってからもピアスしてたって。ただ、子供が生まれて引きちぎられそうになって、身の危険を感じて付けなくなって、穴が塞がったからもう付けていないだけだって」
「あの人が流した浮名の数は社内歴代一位だそうです」
「……マジで?」
「私が入社した年はもう結婚されてたから、その浮名を耳にすることはなかったけどね」
「あー、確かにモテそうだわ」
「愛想が良いし気配りができるから、女性に人気が出るのはわかる。怖くないというのは重要よ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
黄瀬くんのトレイの上の冷やし中華の姿はもうない。冷水を飲んだ彼は「じゃあ、お先」と席を立った。
桃井さんとスイーツビュッフェに行った日は、随分と盛況だった。こういうところに行くのも久々で、大学時代を思い出す。今は、あまりこういう場に同行してくれる友人がいない。私自身、さほど執着があるわけではないから行けなくてもいいけど、たまに行きたいメニューを見たときにはため息をひとつ零している。
「きーちゃんなら付き合ってくれると思いますよ」
久々にこういうところに来た話をしたらそう言われた。確かに、黄瀬くんは好き嫌いがなさそうだし、アレルギーも今のところ当たったことがないようだ。最近黄瀬くんと出かけることが増えてきたと思っていた矢先にまた出かけるネタを振られて戸惑いはある。が、選択肢のひとつだと思う。
それから桃井さんはよくしゃべった。楽しく聞ける話題が多く、時折今の仕事の相談をされる。ファン目線の話を聞きたいと言われて、さほど熱心ではないことを伝えて、自分が観たことがある試合の話などをした。そして、会社員ってどんなのかと聞かれて、とりあえずよくある一日のルーティーンの話をすると「ドラマとかで見たイメージ通りだけど、ちょっと単調な印象ですね」と言われてそのとおりだと思った。何か事件がない限りには、毎日淡々と過ごしているだけなのだ。
桜風
22.7.29
ブラウザバックでお戻りください