コイビトカッコカリ 6





 友人の結婚式は、八月の最終週の日曜に行われた。
 高校時代の友人で、部活で汗を供に流した彼女は、年上の男性との結婚だという。ただ、ちょっと気になったのは招待状に「出席してくださることには感謝しますが、何があっても来場された時点でご承知されていると看做します」という旨の一文が添えられていた。警戒するには充分だ。高校時代、彼女は私を除くチームメイトからは頼りになるが近づきたくないと距離を取られ、対戦相手のチームからは魔女などと呼ばれていた。今回も何かあるかもしれない。
 挙式は地元の海辺のホテルで行われるチャペルウェディングで、受付に招待状を見せて新婦側の席に着いた。同級生が集まるそこでは、色めいた声が聞こえた。こういう席は自分の伴侶を見つけることを目的に出席する人もあると聞いたことがある。早速お相手を見つけたのかと思って新郎側に視線を向けると、目が合った。スーツを着た黄瀬くんがいる。両耳にピアスを付けているその姿は、なるほど、同年代にとっては青春だ。
 目を丸くした黄瀬くんは腕時計でまだ時間に余裕があることを確認してこちらに足を向ける。女性陣の緊張が高まる。
、前に言ってた結婚式ってこれだったんだ」
「そう、これ」
「着物似合うじゃん」
「ありがとう。今日の着付けの人は中々ベテラン感が漂ってたから安心してお任せできたよ。ん? ということは、今日の新郎は黄瀬くんの先輩という人か」
「うん、森山先輩。確かに先週のお祝いの席で、俺と同じ年のお嫁さんだって言ってたよ。でも、まさかの友達とはね」
「世間は狭いね」
 司会者がマイクの前に立つ。
「時間みたいだよ」
「やばっ」と黄瀬くんは慌てて新郎側に駆けていった。彼を手招きしていた人たちに頭を下げている。新郎さんと同級生の人たち、黄瀬くんの先輩なのかもしれない。
さん、どういうこと?」
「あれって、キセリョでしょ」
 同級生に問い詰められる。どういうことと言われても……。
「クラスメイトになった誼があって、今は会社の同僚の異性。以上」
 端的に説明したが、「そういうことじゃない」と一斉にツッコミを入れられた。
 しかし、皆はもう大人で式が始まれば美しい花嫁姿の同級生に溜息をもらす。そして、新郎も中々の好青年という印象で、「いいなぁ」という声がいくつか耳に届いた。
 結婚式が終わって、ホテルの中庭でブーケトスをするため案内された。
、着物だけどどうすんの? 俺代わりに参加しようか?」
「それは反則でしょ。そんなことになったら黄瀬くんが必ず取るわ。いいよ、ありがとう。お花は好きだけど、ブーケトスにくっついてるジンクスに対してはあんなに渇望していないから」
 既にTIP OFF待ちの状態の友人たちに苦笑した。私と同じく着物で出席している友人もこれに参加する気満々だ。しかし、このご時世に態々ブーケトスするというのもどうだろうと思ったが、彼女も元バスケ部。ボールの代わりにブーケを投げたいのだろう。
 ふと、自分が日陰の中にいることに気づいた。影が黄瀬くんのそれと重なっている。
「ありがとう」と見上げて言うと彼は苦笑して「どういたしまして」と返した。八月の終わりと言えど、日差しは暑い。今日は快晴で結婚式の写真を撮るには絶好のロケーションだが、暑さはまだ夏を主張している。日傘を持ってくればよかったと後悔していたところなのだ。
 ブーケの争奪は熾烈を極め、結局ブーケのリボンが解けて花束の様相を呈さなくなった。ブーケトス参加者が拾い集める中、屋内で涼みたいという思考が私の中を支配し始めた。ふと、陰がなくなる。ブーケトスも終わったし、披露宴会場への移動かなと思っていると「はい」とピンク色の薔薇を一輪差し出された。
「さっき、リボンが解けたときにあそこに一輪飛んでたから。あの子たち気づいてないみたいだし、可哀そうだから取ってきたけど、こういうのって女の子が貰うもんでしょ?」
「あー……、ありがとう」
 貰うのを戸惑いもしたが、せっかくの厚意なのでもらうことにした。ふと視線を感じて見ると新婦がウィンクしてサムズアップをしている。ウィンクパチーンじゃない、と思いながら黙殺すると司会者が「それでは、披露宴会場へご案内します。披露宴会場はあちらに見えるクルーズ船です」と海に浮かぶクルーズ船に指先を向けた。どよめく中、「こういうことか」と思わず零れる。
「何?」
「黄瀬くんの招待状に変な一文なかった?」
「『何があっても』てやつ?」
「そう。流石に全員分の保険は入ってると思うけど。あそこで披露宴されたら潮風に長い時間晒されるのよ」
 室内での披露宴ではなく、船上、甲板にテーブルが並んでいる。つまり、披露宴はそこで行うのだろう。だったらずっと潮風に晒されることになる。男性はあまり気にすることがないかもしれないが、女性は装飾品やそれこそ着物などが傷んでしまう。鞄を含めて一式レンタルにして正解だったと心底思った。レンタルは最初からクリーニング代込みでのそれだ。後の特別な対応はレンタル会社がするから気にしなくていい。髪が傷むくらいだ。
 黄瀬くんはそこのところをすぐに理解したように、「そういうこと?」と声を上げていた。
「たぶんね。また強烈なのしたねぇ」
「正解!」
「「正解!」じゃないよ」
 背後から声を掛けられて振り返る。満足そうな新婦が立っていた。
「そっちもお色直しで着物着るんじゃないの?」
「だからレンタル。、もしかして一揃えレンタル?」
「もち」
「マジかー。流石相棒」
「訴えられても知らないよ」
「受けて立つわよー。まあ、会場は気になるかもしれないけど、お料理は絶品だから。タッパーいる?」
「ほどほどに頂きます。あ、忘れてた。結婚おめでとう」
「サンキュー」
 投げキスをして彼女は係の人のもとへと向かった。彼女の自由な振る舞いに係の人は振り回されているようだ。
「あれでお堅い仕事だから」
「何?」
「弁護士」
 黄瀬くんは目を丸くして声が出ないほど驚いた様子を見せた。
「私は比較的熱心に部活がしたかったんだけど、まあ、公立学校の部活動なんて趣味の範囲の人が多くて、試合も勝てればいいけどそんなに頑張ってまではやりたくないという感じの中、居残り練習とかしてた私に付き合ってくれたのがあの子だけ。ポイントガードでゲームメイクが結構トリッキーで、チームメイトは付いていくのに必死で、相手は、まあ……色々と思うところがあったでしょう。初戦敗退だけは嫌だからって、一回戦は必ず勝ってたんだけど、二回戦以降は、周りがやる気がないなら頑張らないをモットーにほどほどにプレイしてた。だから、一回戦で当たるとわかったチームは肩を落としていたと聞いたことがある」
「個性的な子だね」
 黄瀬くんの言葉に「物は言い様」と笑った。
 船上での披露宴は、景色もよく、彼女が言ったように食事も絶品だった。着物で来たことを少しだけ後悔するレベルだ。
 最初、出席者の間で潮風問題がブーイングだったが、結局はロケーションと料理に一部の船酔い者を除く出席者は満足している様子で、人心掌握力がまだ衰えていない同級生に空恐ろしさを感じた。距離を取られていたものの、みんなが付いてきていたのは結局そういうところだったのだろう。
 披露宴の席でも挨拶に行くのが礼儀だろうと、行列が途切れたところに声を掛けに行った。
 間近で見る新郎は爽やかで、愛想のいい人だった。黄瀬くんの二つ上の先輩ということは、黄瀬くんがいちばん印象が強いと言っていた時のチームメイトなのだろう。
「改めてだけど、結婚おめでとう」
「サンキュー」と先ほどと同じ仕草を返してくる。
「そんなことより。写真撮ろう。一緒に写ろう。お互いこんなおめかしはもう当分しない」
「森山先輩! おめでとうございます」
 一方で黄瀬くんが新郎に声をかけてきた。ビールを注ぎ、彼はそれを飲み干した。
「え、捨てるんじゃないの?」
「飲むって言って聞かなかったから」
 随分とお酒に飲まれている新郎が「よし、黄瀬。お前も入れ。四人で撮る」と言い出した。黄瀬くん的に写真はどうなのだろうと心配したが、「もー、飲み過ぎっスよ」と言いながら了解した。
「おーい、笠松」と近くで談笑している招待客に声をかけた。呼ばれた男性は不思議そうにやってきて黄瀬くんが事情を説明する。
 黄瀬くんが笠松と呼ばれた人にスマートフォンを渡し、「君のも良ければ」と新郎に言われて新婦を見ると頷いたため、お願いしようとしたが、「俺のデータ送るよ」と黄瀬くんに言われてそれに甘えることにした。結果、それが良かったようで、遠目からは黄瀬くんが私のスマートフォンでの撮影を断ったように見えたらしく、多くの人が一緒に写真をお願いできないと察したようだ。果敢にも挑戦する人たちも中にはいたが、それはどうやら彼の先輩たちが捌いてくれたらしい。黄瀬くんが「支えてくれた」と言った言葉になるほどと納得した。
 宴も酣の内に披露宴が終わり、二次会へという話が浮上している。
、行く?」
「明日も仕事だし、慣れない着物で疲れたからごめん」と声をかけてくれた同級生に手を合わせて最初のチャペルウェディングをしたホテルに戻る。ホテルの中の美容室で着付け等をしてもらったため、そこに戻って着替えなくてはならない。
 鞄の中のスマホが震えてメッセージの受信を知らせた。黄瀬くんからで「車で来てるから送るよ」とある。あまり甘えるのは良くないだろうと思うのだが、正直ありがたく、お言葉に甘えることにした。
 係の人に先程の披露宴の場所が特殊だったことを話して一式返却した。メイクも一旦落として地味ないつものに戻す。黄瀬くんに連絡をすると、ホテルの正面に車を回してくれるとあったため、正面玄関に向かった。
 黄瀬くんの車で東京に戻る。
「どこか寄って帰る?」と聞かれて首を振る。
「どうしたの?」
「ちょっと船酔いしたんだと思う」
 そういうと彼は窓を開けてエアコンの冷房を調節してくれた。
「ありがとう」
「休憩したくなったら言ってね」
「重ね重ね。そういえば、結婚式の引き出物って嵩張ると思ってた」
「俺もそう思って車で来たんだけど。まさかこんな小ぢんまりとしているとは」
 昔、親が出席した結婚式は随分と大荷物を持って帰った。自分が最近出席した式だって、それなりの荷物があったが、今回は小さな紙袋にお菓子と、選べるカタログにアクセスできるQRコードが印刷されている紙が入っているだけだ。これなら、電車で帰っても荷物が大きくて困ることはない。黄瀬くんと会わなければ実家に寄って、荷物を減らして帰ろうと思っていたがそうする必要もなかったということだ。
 渋滞もなく、車は快調に帰路を走る。
「そういえば、黄瀬くんの尊敬する先輩方、良い人たちだったね」
 私が言った言葉の意味を察して「でしょ」と笑う。「けど、普段は結構厳しいんだよね」と拗ねたように言うのは、末っ子のそれだ。
 マンションから少し離れたところで車を停めてもらった。後部座席に置いている引き出物の袋の中を確認する。薔薇が入ってるのが私のものだ。ふたつ並んでいるうちのひとつを取って助手席の窓から中を覗き込んで「ありがとう」とお礼を伝えた。
「どういたしまして」と言う黄瀬くんに「黄瀬くん、明日からまたモテ期到来だね」と言うと彼は不思議そうに首を傾げた。私は自分の両耳たぶを指さして「とても似合ってる」と言うと黄瀬くんは理解したようで、「ありがとう。けど、俺もう何回もモテ期迎えてるからこれ以上は困るよ」と笑った。
 家に帰って袋の中から薔薇の花を取り出す。披露宴中は係の人が水に入れてくれていたし、持って帰るときも保湿してくれているから多分大丈夫だとは思うが、少し元気がない。いつか、それこそ誰かの結婚式でもらった引き出物の中にあったはず、と家の中にあるはずの一輪挿しを発掘して薔薇を挿し、できれば、長く元気でいてほしいと思いながら玄関に飾った。
 翌日、出勤するときに「いってきます」と薔薇に声を掛ける。玄関に花があると明るくなると聞いたことがあるが、本当にそんな気がする。
 出社すると、黄瀬くんがすでに人生数度目のモテ期を迎えていた。昨日言ったとおり少しだけ困っている様子だ。
 約ひと月半の彼の平穏は、あっという間になくなってしまったのだった。

 朝晩が涼しくなって過ごし易くなってきた。一方で、それは上半期の決算のための準備を促す気候でもある。社内は俄かに慌ただしい雰囲気を漂わせ始める。年度末の決算に比べればまだマシだが、各部署で業務が増えるのは確かだ。
 他部署との打合せをしておこうと執務室を出た。背後で電話が鳴っているが、今日は外出している人は少なく、誰か対応できるだろう。
 呼んだエレベーターが口を開いた。用事があるのは三階で『3』と書かれたボタンを押す。『閉』のボタンを押そうとすると、人が入ってきた。
 拙いと思った。今ここで忘れ物をしたフリをしてエレベーターから降りてしまいたい。しかし、それはあからさますぎるかもしれないし、そうなるとまた面倒なことになりそうだ。
 他に誰か乗らないかと期待して『開』を一度押す。
 ふと、こちらに気づいた様子の黄瀬くんと目が合った。
さん!」と彼が声を掛けてくる。これはありがたいと思い、エレベーターを降りようとすると先ほど乗ってきた人が私の隣に立ち、『閉』を押す。押しのけてまだ閉まり切っていないドアに向かおうにも相手の方が力が強く、エレベーターは静かに口を閉じていった。あと一センチ。その隙間に長い指がにゅっと生えてきた。エレベーターは反射的に再び口を開く。
「危ないですとよ」と私が降りるのを邪魔していた人がその手を差し込んだ人、黄瀬くんに言った。
「すみません」と謝罪の言葉を口にした黄瀬くんは私の腕を引いてエレベーターから降ろしてくれた。
「さっき取引先から電話がかかってきて、急ぎみたいだったんで早く電話した方が良いんじゃないかって思って。ほら、上期の締めの関係かもしれないし」と同乗していた人に聞こえるように私を呼び止めた理由を口にしてこの場を離れるように私の背を押してくれた。
「どうぞ、行ってください」と私は振り返って声を掛けるとその人は舌打ちをしてエレベーターの扉を閉めた。
「呼びに来てくれてありがとう。それで、電話の相手は?」
「ウソだよ」と黄瀬くんが言う。
「どういうこと?」
「さっき、あの男が乗った途端、の表情が変わったから何かあるんだって思って。大丈夫?」
 驚いた。そして、少しだけ困った。黄瀬くんの言葉に私は俯く。
「うん、ある」と頷いて私が入社して間もなくの頃の話をした。
 あの人は、職場内で公開告白なんてものをした。おそらく、新卒でまだ社会を知らず、相手は先輩、しかも公開告白ともなれば断らないだろうと踏んだのだと思う。しかし、実際は彼の目論見から外れて私は周りの目があるにも関わらず断った。やり方が卑怯だと思ったからだ。そうなると都合が悪いのは告白した側だ。自分が振られたことが周囲に知れ渡る。勿論、社内で随分と噂になった。私は空気の読めない新人。相手は、勝算を読めない無謀なピエロだと。同じ部署だったが、翌年度には相手が異動になった。上昇志向の強い彼にはそれは屈辱だったのだろう。新人ではなく自分が異動になった。それからは、廊下ですれ違う時は態々ぶつかってきたり、小さな、でも聞こえるような声で悪口を言ったりしてくるようになった。舌打ちなんてしょっちゅうだ。正論を振りかざしてもこちらが危ない目に遭いそうで、それは避けた方が良いと思い、打つ手なしと詰んでいた。我慢してやり過ごすしかない、と。
 幸い、これまでエレベーターで二人きりになったことはなく、彼が先に乗っていたら忘れ物をしたフリをしてそれに乗らないという選択をしていた。今回は出口を塞がれてどうにもできなくて正直絶望していたところだった。
「あー、なるほど。あいつか」と黄瀬くんが呟く。
「やっぱり誰かから聞いてた」と見上げると彼は頭を掻いて視線を彷徨わせた。
 恐らく、この話は黄瀬くんの耳にも入ってるだろうと思っていた。あの時の同僚はまだ半数以上はいるし、黄瀬くんの入社当日、彼と話をしている人が眉を顰めながら私をチラチラ見ていた。あの時の話は、私に対するマイナスイメージを植え付けるにはちょうどいい題材だ。社員食堂で黄瀬くんと食事をとっていた私を早々に退場させたかったのではないだろうか。
「うん、まあね。普通、公開告白なんて勝算がないとやんないし、何よりも相手を追い詰る方法だからどう考えても自分本位だし、その話を聞いたときは男の小ささに呆れたもんだけど……」と黄瀬くんは眉を顰めた。
「ごめんね」というと「何が?」と彼はきょとんとする。
「嫌な話をして。あと、あの人黄瀬くんにも嫌なことしてくるかも」
「あー、あの手の人間は、自分より弱い相手にだけ強気になるタイプだと思う。そうじゃなくても、俺にはそんなに強く出ないよ。せいぜい、俺が前の業界にいたときにクスリをやったとか何人の女と寝たとか根拠のない、そんなに興味を持たれない噂を流すくらいじゃないかな」
「だったらいいんだけど……。いや、良いのかな?」
「いいよ、それくらい。こそ大変だったね。イヤな思いずっとしてたんだ」
「誰かが一緒の時はそういうのないし、用事は別の人に頼んだりしてなるべく会う機会を減らしてたんだけど……嫌だった」
 俯くと頭の上に大きな手が乗る。
「もー、黄瀬くん、あんまり優しくしないでよ。好きになっちゃうじゃない」
「なってよ」
 不意に返された声は真剣で、驚いて見上げた先には少し困った表情の黄瀬くんがいた。
「なってよ、好きに」
 え、いや。何だコレ。いや、『好き』? あ、『鋤』か。畑を耕せばいいってことかな。
?」
 黄瀬くんが随分と膝を曲げて顔を覗き込んできた。きれいな顔が目の前に現れて私は仰け反り、そして「電話してきます」と言って部署に逃げ帰った。
 その日、それ以降の私のポンコツっぷりは上司が心配して早退するよう勧めてきたほどだ。原因はわかっているため、それは必要ない旨を返して進まなかった仕事分残業することにした。
 上期の決算を前にしているというのに今日は珍しく他に残業する人はなく、室内の電気を殆ど落とした中、今日の午後仕上げる予定だった仕事を進める。
「帰んないの?」と声をかけてきたのは黄瀬くんで、「ふぎゃ」と尻尾を踏まれた猫のような声を出してしまった。
「まだ、終わらないから」
 仕切り直すように咳払いをして努めて平静を装いながら打鍵する。
「そう」と言った黄瀬くんはそのまま私の隣の席に腰を下ろした。
「あの……、視線が気になります」
「もっと気にしてよ」
「何と言うか、急すぎるんだけど」
 そう返すと黄瀬くんは盛大な溜息をついて肩を落とした。
「え、なに?」
「確かに、全く手応えはなかったよ」
「ん?」
「俺、こんなにアピールしてるのに、全く響かなかったのって初めて」
 項垂れた姿勢のまま顔を上げた黄瀬くんは不貞腐れた表情をしていた。これは珍しい。
「なんだか、ちょっと申し訳ないという気持ちは浮かんできたよ。いや、でも。こっちとしてはこんな地味な女って思うじゃん」
「あのねー、。この際言っとくけど、はかわいいよ」
「は?!」
 思わず椅子を蹴って立ち上がった。キャスター付きの椅子はその勢いのまま後ろの席の椅子にぶつかってまたどこかに流れていく。
「知らないようだけど、好きな子はかわいいの。本人がどう言ってても、他の人がどう言ってもめちゃくちゃかわいくて、めちゃくちゃ輝いて見えるの」
「待って、待って。キャパオーバー」
 頭を抱える私にお構いなしの黄瀬くんは「もう待たない。待ってたら誰かに取られちゃう」と言って椅子から立ち上がり、私の頬を両手で包んで視線を合わせさせた。首の角度がエグいんですけど……。
、もう観念しよう。だって、は俺のこと好きでしょ」
「ステイ、待って。本当に困ります」
 というかすごい自信だ。実際、黄瀬くんのことは憎からず思ってるし、何なら好きだ。だが、こんなにグイグイ来られると戸惑いの方が勝つし、完全に袋小路状態だ。ちょっと怖い。
「黄瀬くん、これ、今逃げられない状態のような気がしてるんだけど」
「逃がす気はないから」
 真顔で何を言ってるんだろう。
「でも、ほら。公開告白を相手を追い詰めるって言ってたじゃない。それは自分本位だって。今、私は追い詰められています」
 またしても黄瀬くんは不貞腐れた表情をしたが、私の首の角度を固定していた手は放してくれた。少し考えるしぐさを見せた黄瀬くんが「じゃあ、期間限定ならどう?」と提案してきた。
「なんて?」
 そんなティーンズが好むフィクションのような提案をされるとは思わなかった。
「俺はと恋人になりたい。は考える時間が欲しい。だから、考える材料として期間限定で俺の恋人を体験してもらう。ほら、んちのおじちゃんだって、転勤の時に家族揃っての引っ越しをおばちゃんにプレゼンして納得してもらったんだろう? 俺のプレゼンは、俺の恋人として過ごしてもらうこと。ちょうど冬に向かって色々と行事があるから時期も良くない? 期限は年度末までにして、その時また俺からに告白、恋人になってほしいと申込みをする。もちろん、限定期間中だけ張り切って、正式に恋人になったら全然違うなんていう詐欺はない。誓う」
 正直、『恋人』という関係が苦手だ。苦手になってしまったのだ。でも、黄瀬くんと一緒に出掛けるのは楽しくて、それがなくなるのもイヤだという我がままが私の中にある。だから、何となく、落としどころはここだなと思った。現時点で、お互いの満足を得られる選択肢だろう。
「わかった」と頷くと彼の表情がパッと明るくなる。
「ちなみに、年度末を待たずにもう正式恋人でいいってが思ったらその時に言ってね」
「あ、ちょっと待って。期間限定の恋人って、えっと……肉体的な接触はどこまでするの?」
 言葉を選んでオブラードに包んだ私の質問にきょとんとした彼は「確かにそれは大切な線引きだ」と真剣に思案する。その間、私は席から離れたところで止まった椅子の回収に向かう。
「基本的にはキスまで。でも、身体の相性は重要だと思うから一回はセックスしておきたいよね」と椅子を持って戻ってきた私に彼が告げた。話を振ったのが私とは言え、単語がストレート過ぎてちょっと怯んでしまった。
 私はひとつ溜息をつき、パソコンの電源を落として帰宅の準備をする。黄瀬くんは不思議そうにしていたけど、「もう仕事どころじゃなくなったから」と言うと彼は苦笑した。私の帰り支度が終わるのを待って、二人で執務室を出る。
「じゃあ、とりあえず。恋人(仮)ということで」と黄瀬くんが手を差し出してきた。
「よろしく」と重ねると大きな手に包まれる。少し冷たく感じるそれは、もしかしたら……。
「黄瀬くん、緊張してる?」
「もー、かっこ悪いから指摘しないでよ」
 顔を背ける彼を見上げて少しだけ納得した。確かに、かわいく見えるものだ。






桜風
22.8.5


ブラウザバックでお戻りください