コイビトカッコカリ 7
「おはよ」と出勤して隣席の都成に声を掛ける。
「おはよー」
昨晩残業で片づけられなかった仕事を今日の午前中に済ませて、今日やろうとしていた仕事を片付けるには、結構巻きでいかないといけない。
「ね、黄瀬さんと付き合い始めたってホント?」
隣席に座る都成がこっそり聞いてきた。
「は?」
「黄瀬さんが吹聴してたよ」
彼に視線を向けると目が合い、パチンとウィンクされて思わず半眼になる。
「……否定はしません」
「マジで! なんで? そんな素振り全然なかったじゃん」
「今仕事中」
「じゃあ、昼休憩。外で食べよう」
溜息をついて頷く。放っておいたらずっと聞いてきそうだ。
午前中を掛けて何とか昨日の午後に片付けられなかった仕事を片付ける。
午前の就業時間の終了を告げるチャイムが鳴り「ほら、行くよ」と都成が外出の用意をしながら急かす。
「はいはい」
財布と外出用の小さなバッグを取り出してエレベーターに向かった。こちらを見ながらひそひそと話をする人の姿に、噂が随分と広がっていることがわかる。しかし、その噂は私が思ったものではないものもあり、どうやら黄瀬くんが芸能界にいたときにはクスリや女性関係にだらしなかったなどというものだった。
どこかで聞いた話だなと思いながら、急かす都成に適当に返事をしながら近くの洋食屋に向かった。
「それで?」
注文を済ませると話を促される。
昨晩の事を話すと「高校生か!」と私と同じ感想を口にした彼女に思わず笑った。
「なんで限定にしたの。いいじゃん、そんだけグイグイ来られたら嫌な気はしなかったでしょ」
「しなかったけど。でも、言わなかったっけ? 黄瀬くんと小学校が一緒だったって」
「聞いたよ。だから、アタシたちの青春でありながら、保護者目線で応援していたんでしょ?」
保護者目線のつもりはなかったが、温度差はあったと思う。
「まあ、いいや。当分エンターテイメントに困ることはない」
「何がエンターテイメントだ」
「親友の恋バナ。それはともかく。黄瀬さん関係でなんか変な噂が流れてたね」
「あー、それなんだけど」とこれまた昨日の話をすると「まだあの男に嫌がらせ受けてたの?!」と眉を顰めた。
頷くと「でも、黄瀬さんが気づいてくれてよかったね」とコップに手を伸ばして「エレベーターなんて密室だから、何されるかわかったもんじゃないし」と続ける。
「あれは、本当に助かった」
「王子じゃん、黄瀬さん完全に王子じゃん」
カラカラと笑いながら都成が言う。
「そーですね」
適当な相槌を打ち、注文したハヤシライスの到着を待った。
昼休憩が終わり、午後の勤務が始まる。
「昨日言われた資料、できましたっ」
同じチームで働いている入社三年目の子がつっけんどんな口調で報告してきた。
「ありがとう」と返したけれど、どうも彼女は私に好意的ではないようだ。数日前まではそんな様子はなかったのに。
「だって、若月ちゃん黄瀬さんの大ファンだもん」
「メディアの向こうの?」
「向こうにいたときから。そしたら同じ職場で働くようになったじゃん。オフィスラブを期待していたら、トンビに油揚げされて面白くないんじゃない?」
黄瀬くんの生活が静かになったのは、大半が諦めて、残りが『押してダメなら引いてみる』を実践していたからだと都成が言う。引いてるうちに、ノーマークの人間に椅子を取られたと言ったところのようだ。申し訳ない。
「木村さん、少しいいですか?」と隣のチーム、つまり黄瀬くんがいるチームのチーフの小林さんが上司に声を掛けてきた。
「どうかしましたか」と言いながら離席する上司を見送りながら「何だろね」と興味津々に呟く都成に「都成が忙しくなる話だと思う」と返すと「やだ」と真顔で拒否された。
しかし、彼女の思いとは裏腹に「都成さん、少しいいかな」と上司に呼ばれた。
「うへぇ」と小さく漏らして「はい」と上司たちがいる協議机に向かう。
暫く話をしている様子を見ると、都成は上司の言葉に神妙に頷いていた。そして、小林さんが彼女に向かってパンと手を合わせる。何かの交渉が終わったらしい。上司と小林さんが課長に話をしている。
肩を落として戻って来た都成に「何だったの?」と尋ねてみると「今日の残業から小林さんちの子になることになりました」と言われて驚く。
「ずっと?!」
「そう。明日は元々合コンの予定が入ってたから残業は免除してくれるみたいだけど、それ以外はずっと残業確定。金銭を得る代わりに失うものが多い……」
そんなに厳しい状況だったのか。元々小林さんのところは一人減って、そのまま二年位放置されていたところに、黄瀬くんが中途採用で入って人数的には整ったけど、まだ戦力としては足りなかったようだ。
「まあ、小林さんに今度奢ってもらうけど」
「抜け目ないね」
「さん」と席に戻ってきた上司に声を掛けられて身体を向ける。
「都成さんから聞いたと思うけど、あっちのチームの業務が片付くまでは都成さんには向こうに座ってもらうから。あと、進行状況聞いたんだけど、ちょっと厳しいみたいだね。決算の資料の提出っていつだったっけ?」
「十日間後です」
「いや、ムリだ」と都成が反射で口に出す。
「そう、無理だね。明日、総務に行ってちょっと相談してきてくれるかな」
「わかりました」と頷いてとりあえず、総務にアポを取って今できる範囲の準備を始めた。
翌日、念のため小林さんに最大何日必要かと確認する。総務との交渉をどこから始めるべきかを決めるためだ。
「二週間」
「今のスケジュールプラス予備日的なもの一日で計算してください」
「うん、二週間。みんなの集中力というか体力の限界もあるだろうからね。それで決着するように動くよ」
小林さんが言うならそうなるのだろう。
執務室のドアが開いた。不意に部屋の中に緊張が走る。視線を向けて私も緊張した。
「これ、うちのオーダーの成果品、間違ってるんだけど」と注文票をひらひらさせながら小林さんに向かって真っすぐやってくる。
「そんなはずはない。オレがチェックしたし、こっちに回ってくるまでに木村さんもチェックしている」
「はあ? ほら、見てくださいよ。違うでしょ」
「ちょっと待って、成果品確認するから」
「あーあー、いいっすよ。もう。ホント、ここの質落ちましたね。ヤク中の元芸能人が入っても大したことないでしょ。それに、どうせこっちのオーダーも誰かが書き換えてそっちに渡したんじゃないんすか? 木村チーフがチェック済みでこのオーダーになったって言うなら、その前の段階で書き換えられたんじゃないんですかね。そいつとか」
小林さんの傍に立っていた私を指さしていう。
凄い、こんな大勢の前で嫌がらせができるようになったんだ。
しかし、どうしたもんかと思っていると「さん、総務との協議の時間でしょ。行っておいで」と木村さんが言う。
「ちょっと待ってくださいよ。こいつが書き換えたんだから、犯人逃がさないでください」と今度は断定してきた。
「彼女は私の部下だからね。彼女が何か不正を働いたというなら、私に責任がある。さて、そのオーダー票を少し貸してもらえるかな?」
上司がもう一度私に視線を向けた。行けと言っている。
「総務に行ってきます」
「逃げるな!」
背後で吠えている人物を無視して総務に向かった。
総務ではお局様と呼ばれている人と交渉する。と言っても、基本的にうちは締切り前に提出することが多く、普段総務に迷惑を掛けずに過ごしているため、基本的にはある程度の無理はきいてもらえる。
そもそも今回の締切りは守らない部署が多いため、早めに設定していたもので、本当の締切りはもう少し後だと教えてくれた。このため、こちらのスケジュールでも何とか間に合いそうなところがデッドゾーンだとわかった。
「そういえば、さん。黄瀬さんとお付き合いをはじめたと聞いたわよ」
「ここまでその話が来てるんですか?」
実質昨日の今日なんだけど?
「総務と人事は耳が早いのよ。あなたも素敵な殿方を見つけられてよかったわね。まあ、若い子たちはハンカチの角を噛んで悔しんでいるでしょうけど。変なのに付きまとわれて大変だったでしょ」
その変なのが今うちの部署で騒いでいます、という言葉を飲んで「ええ、まあ」と曖昧に頷いた。
総務のお局様と暫く世間話をして、そろそろ変なのは帰っただろうと当たりを付けて話を切り上げる。
「あら、残念。じゃあ、これあげるわね」と飴をくれた。この人は、話が終わるといつも飴をくれる。
「いただきます」と受け取って、執務室に戻ると室内は淡々と仕事をしている同僚の姿しかない。
「戻りました」
「おかえり。どうだった?」
「ホントの締め切りを聞いてきました。当初締切りの一週間後です。とりあえず、何とか間に合わせることはできそうです」
「そうだね、うちは締め切りまで三日も時間が貰える」
上司に報告して先程貰った飴を持って都成の席に向かった。都成は黄瀬くんの正面の席に座っている。元々誰も座っていない席だったため、ちょうど良かったのだろう。
「ねー、眼福」
「仕事して。あと、これあげる」
「サンキュー。、本当にお局様と仲がいいよね」
「何かと気にかけてくださっているのでありがたい」
「マダムキラーめ。それはそうと、さっき木村さん最高だったよ」
私がもらった黒飴を口の中に放りながら言う。
私が総務に向かった後、彼が持ってきたオーダー票をコピーして彼が指摘する間違っている箇所を聞き取り、コピーに書き込んだ。そして、「じゃあ、そちらのオーダーがそもそも間違っていないか確認しに行こうか」と彼の部署に向かうという。
「い、いや」
「態々、この非常に忙しい時にオーダーが違うと訴えに来るくらいだ。そちらもお急ぎのことだろう。もちろん、上司とも話をして部署の代表としてここに来たのだろうから、こちらもきちんと対応をしなくてはいけない」
どうにかして自分の部署に木村さんを来させないようにしていた彼だが、相手が悪すぎる。同年代の社員は皆、木村さんに逆らわないと聞く。都成は面白そうだからと木村さんについて行ったそうだ。
相手の部署に着くとすぐに彼の直属の上司が慌てて出てきた。おそらく、うちの部署の誰かから事前に木村さんが行くという連絡をもらっていたのだろう。
木村さんが事情を説明し、その部署で作ったオーダー票を見せてほしいと話をした。組織としての意思決定をした起案を見せろというのだ。隠すわけにはいかず、上司が見せると、彼が誤っていると主張するオーダー票と何ひとつかわらない。
「そもそも、書き換えなんてできないんですよ。そういうシステムで作られているものだから。え、ご存知なかったんですか?」と都成は彼を煽ってみたらしい。やめておけばいいのに。
「できないはずはない!」
「まあ、うちのシステムの大元の技術部ならできなくもないと思いますけどね」
システムに不具合があったら修正できるところがないといけない。その対応は技術部が担当だ。
「じゃあ、そこだ。そこで、あの女が」と続けた彼に「では、技術部に確認をしに行きましょうか」と木村さんが言った。引くに引けなかった彼は「そうしましょう」と言ったらしいが、「やめなさい」と課長が出てきたという。
「こちらのミスでお手を煩わせて申し訳ない」
「いいえ。部下のミスと言われたので、私が対応をする必要がありましたので。もし、オーダーの修正をされる場合は、お急ぎかと思いますが、来月に入ってからいただけますかね。今は上期の決算でどこも忙しいので」
「確認して必要があればそうさせていただきます」
彼の部署でのやり取りはそれで終わった。執務室に戻ってきた木村さんは小林さんに顛末を話をしてこの話は終わったという。
「で、実際はどうなの?」
「変更を主張した内容の方が良いとアタシは思う。センスは悪くないんだよ、性格とタイミングと相手が悪いだけで。完全に勝負運がない人だね。ギャンブルしたらスッカラカンになるタイプ」
ガリガリと飴を噛み砕いて彼女はディスプレイに向き直り、「ま、もうこのフロアには来れないんじゃないかな」と言って業務を始めたため、私も席に戻る。
「色々とお手数をお掛けしました」
「部下の不始末は上司の不始末だからね」
それは誰に言っているのだろうかと思いながら、私も約半月後の締め切りの準備をすることにした。
桜風
22.9.2
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