コイビトカッコカリ 9
今日、うちのチームの繁忙期が終わる。
最後の確認でチーフがチェックをしているのをみんなのんびりと待っていた。都成さんは今日の夜の打ち上げの店を検討していて雑誌をめくりながら鼻歌を歌っている。
ふと、顔色の悪いが木村さんに声を掛けて頭を数回下げて鞄を持ってふらふらと部屋を出ていこうとしていた。
「黄瀬さん、仕事中にその熱視線は」と言いながら振り返った都成さんが雑誌を机の上に投げて立ち上がり、チーフに「三十分くらい不在します」と言ってを追いかける。
三十分も経たずに戻って来た都成さんは木村さんと少し話をしてチーフに「戻りました」と声を掛けて席に着いた。
「さん、どうかしたの?」
都成さんの隣の席の女性が声を潜めて尋ねる。俺も知りたい。
「たぶん、生理で貧血なんだと思います。年に何回か酷いのが来るみたいなんで」
「この時期に来たのは厳しいね。あっち大丈夫? 締め切りまで三日でしょう?」
「たぶん彼女は、必要資料はほとんど作ってるし小林さんが提出するデータを流し込めばいいだけの状態で、うちの仕事の上がりを待ってたみたいですよ。さっき木村さんに引き継いでたようですし、それこそ三日休んでも問題はないはずですよ」
「うわー、完璧。何かやらかしたっていう思い出ないの?」
「本人がいないところで言うのは気が引けますけど……聞きたいですか?」
「聞きたい」
俺も聞きたい。
彼女は話してくれた。
大学の最終学年、は卒論を落としかけたというのだ。
教授が指定した締切は十七時。都成さんも締切りギリギリ、と言っても十分前に提出したらしい。これで卒業はできると思っているとものすごい勢いで自転車が走ってくる。道を譲ったがその自転車は止まれず、ドリフトしてそのまま滑っていく。その自転車はが運転していたもので、彼女はそのまま滑っていく自転車を捨てるように降りて研究室棟に駆け込んだ。都成さんが時計を見ると十七時。一緒に卒業できなかったと残念に思ったが、少しだけ興味があってが出てくるのを待った。ちなみに、自転車は大きな銀杏の木にぶつかって大破したそうだ。
研究棟から出てきたは大破した自転車を見て天を仰ぐ。
「間に合った?」と都成さんが声を掛けると「間に合わせた」という。どういうことか興味を覚えて詳しく聞いてみると、最初は提出を拒まれた。しかし、スマホを取り出して時報を確認すると、丁度十七時の時報が流れたという。
「今十七時の時報です。ということは、数秒前に提出したので私は締切りに間に合いました」と言って強引に卒論を渡して帰ったそうだ。
「あれ? 都成さんは理系でさんは文系って言ってなかった?」
「そうです。あの子、越境ゼミなんです。興味があるんでって入ってきて。ちなみに、受け取ってしまったから採点することにした教授は、でもちょっとズルのような気がして厳しくしようと読んだらめちゃくちゃ読みやすくてびっくりしたそうです。そして、その後読んだ誰の論文も読むのが苦痛だったと聞きました。もちろん、は単位が取れて晴れて卒業ということになりました。こないだ大学に遊びに行って教授に聞いたら、次の年から「私の研究室の時計で十七時」って言うようになったらしいんです。まあ、普通は標準時で話しませんよね」
都成さんはカラカラと笑った。
ちなみに、フロアの人たちの多くが都成さんの話に耳をそばだてていたようで、あの木村さんも興味津々の様子だ。
「さんって都成さんと違って落ち着いて見えるからそんなエピソードがあるとは思わなかった」
このチームの最年少の女の子が言う。
「待って、アタシと違ってっていう言葉必要だった?」
「よし、完了」
チーフが立ち上がって完了の宣言をした。そのまま木村さんのところに行って「終わりました」と報告している。
「お疲れ様。都成さん、今月いっぱいはそっちの子としてゆっくりしていいよ」
「マジですか! あと一週間もあるのに?!」
「一週間あれば都成さんならもう一本いけるな?」
チーフの言葉に「アタシ、明日から木村さんちの子に戻ります」と宣言していた。
「都成さん戻ってくるなら、明日私休んでいいかな?」
木村さんが言う。
「いいですよ。今日の内に総務に資料の提出をしておいていただければ」
「ダブルチェックがいるから今日中は無理かな」
「若月ちゃんにチェックを頼めばいいじゃないですか」
「え!? ムリです!」
「フォローできる人がいる間に無理かもしれないことは手を出しときなよ」
くるくると椅子を回しながら都成さんが言う。そうなんだろうな、と思ったけれど「お局様みたいなこと言ってますよ。オバサン」と木村さんのところの若手の子が言う。
「黄瀬さん、オジサンだそうですよ」
「え、俺?!」
「同じ年じゃん」
「違います! 男性は年を重ねたら渋みが増して魅力的になっていくんです」
まあ何だっていいけど、と思っていると先輩たちが「ありがとう」と口々に言っていた。
「うー、違うんです」と彼女は机に突っ伏した。
「はっはっは。小娘が。三年したら今のアタシと同じ年だ。若いことがセールスポイントなら、セールスできるうちに形にしておくんだな」
悪役よろしく都成さんが言う。彼女は机の上のノートパソコンを片付け始める。
「二週間、眼福でした!」
パンと手を合わせてノートパソコンを持って元の自分の席に「ただいま」と言いながら戻っていった。
終業のチャイムが鳴り、帰り支度をはじめる。
「黄瀬さんが参加するとは思わなかった」
「欠席しても良かったの?」
「いいわけないじゃない。じゃ、お先でーす」
都成さんに腕を引かれて執務室を出た。木村さんのチームは殆どが残業のようで「お疲れ様」と挨拶された。
会社の外に出た途端、みんな「明るい!」と声を上げている。確かに、こんな明るい中帰るのは久しぶりだ。
都成さんに案内された店に着いて歓声を上げたチームの皆に対して「容赦ないな」とチーフが笑う。今日は全員チーフの奢りとなっている。
仕事の締め切りからの開放感からか、みんなかなりお酒が回っていた。
「同僚のカノジョの生理周期がわかるってちょっとやべーな」と誰かが言った。今日の都成さんの話を聞いていたのだろう。このチーム、今日は本当に仕事をしていなかったから。
「やめろ。オレはお前たちを失いたくない。うちの人事はコンプライアンス厳しいぞ」
「セクハラ」
チーフが止めて女性陣が非難する。
「てか、木村さんのとここれから忙しいんだろう? 生理って調節できるんだから調節すりゃいいのにな?」
シンとその場に沈黙が下りる。
「おい、今なんつった、童貞」
ゆらりと都成さんが立ち上がる。
「都成さんも、何言ってんの」
チーフがため息をつきながら突っ込んだ。
「こちとら好きで毎月出血してんじゃないんだよ。ちょっと高い下着の下ろしたての日に出血があった時の思いがわかるか。朝起きたとき、シーツが汚れてて「これから出勤なんだけど……」っていう絶望を味わったことあるか。それなのに「何、今日はブルーデー?」とか嘲笑しながらのセクハラする奴を殴らずに無視してやってる優しさに気づけ。好きでホルモンバランスを乱してんじゃないんだよ」
「都成さん、落ち着いて」
チーフが宥めるがお酒も入って彼女は止まりそうにない。まあ、笑っていいネタじゃないのはわかるけど、これ、以外で止められる人いるんだろうか。
女性陣を見ると止める気は全くないようだ。
「出血が酷くて動けなくなる人もいるし、毎月死にそうになってる人だっているんだよ。同僚のカノジョの生理周期がって笑っているクソヤローは、五日間タマ潰した激痛に耐えて過ごしてみろってんだ。タマ持ってないから潰したらどんだけ痛いか知らないけど」
失言した同僚、田中さんは周囲に助けを求めて視線を向けているが、男性陣は我関せずで、女性陣の先輩たちは無視、若手の女性は都成さんの様子に若干引いている。
「都成さん、頼むから……。ウチの嫁さんも重い方だから女性が毎月大変なのわかるから。な? 頼むから」
都成さんは舌打ちをしてドスンとその場に座った。チーフも安堵したように息をつく。
それから少し空気が重い中、お開きとなった。
「黄瀬さん、二次会」
「ごめん、俺帰るよ」と断って、駅に向かう。
さっきの都成さんじゃないけど、女性特有の痛みとかは知ったかぶると争いの元だと聞いたことがあるから、のお見舞いはやめておこうかと思ったけど、行くことにした。
毎月死にそうになる人もいると都成さんが言ったとき、もしかしたら家で倒れてたりするんじゃないかと心配になった。都成さんの話だと毎回じゃないようだけど、それでも様子が気になった。
どういう差し入れがあれば良いかわからず、スマホで検索してコンビニで買い物をしての住むマンションに向かった。
自分が自宅にいるときはチェーンロックしているから入れないと思うよと言いながら一昨日渡してくれた合鍵をキーケースから出す。チェーンがかかっていたら帰ればいいと思って鍵を回した。
ドアはすんなりと広く開いた。だったらは外出中なのかと考えたが、玄関の靴を見ると今日履いていたパンプスが脱ぎ散らかしてあった。
「?」
呼んでみたが返事がない。
「お邪魔します」と声を掛けて部屋の中に入る。青峰っちのサイン色紙の下を通ってダイニングに行くと仕事着のままがテーブルにうつ伏せたまま寝ていた。
「、こんなところで寝てたら疲れが取れないよ。服だって皺になる」
「ん?」と不機嫌に返事があり、の目が開く。パチパチと瞬きをして「は?!」と体を起こす。
「え、何で黄瀬くんがいるの?! 今何時?!」
「ごめん、夜の十時」
「夜か……」
ほっとしたように息をつくがベッドに背を預けた。
「どうしたの? あ、私チェーンしてなかったんだ」
「うん。いや、実は」と先ほどの飲みの席の話をすると「だーれも止めてくれなかったんだ。田中さん気の毒」と苦笑しながらが言う。
「それで、黄瀬くんは私が心配になっちゃったんだ?」
「うん」
「そっか、ありがとう。帰って痛み止めを飲んで安心して爆睡してたみたい」
「ベッドで寝ればいいのに」
「寝転ぶとちょっと色々と心配だから座ったままで寝ることがたまにあるのよ。けど、そうすると確かに背中というか腰が痛いんだよね。あ、何か飲む?」
伸びをしながらが言う。
「ううん、お構いなく。ネットで検索したらこういうのがいいって書いてあったから買って来てみたんだけど」
「あ、助かる助かる。もらってもいいの?」
「どうぞ」
コンビニのビニール袋の中を覗き込んでいたが「ちょっと失礼」と立ち上がってキッチンに向かった。
少しして戻ったはあまり顔色が良くない。
「、バスタオルってどこにある?」
「ん? ここだよ」と彼女はベッドの足元にある三段収納ケースのいちばん上を引いて一枚取り出した。
「どうしたの?」
「ううん。着替える?」
「シャワー浴びてくる。気持ち悪いから」と彼女は支度をはじめる。
「大丈夫? 顔色良くないんだけど。一緒に入ろうか?」
「大丈夫。三十分して戻って来なかったら様子を見に来てください。それまでに覗いてきたら警察を呼ぶから」
にこりと笑って彼女はバスルームに向かった。
1DKの作りではダイニングに居ながらにシャワーの音が聞こえてちょっと落ち着かない。
間もなく彼女が戻って来た。ドライヤーで髪を乾かすことなくバスタオルで雑に拭いている。
「ちょっと、ドライヤーは?」
「面倒くさい。黄瀬くんからもらった差し入れ食べていい?」
「どうぞ。そのために買ってきたんだから」
「ありがとう」と彼女は俺の右手側に座ろうとした。
「は、こっち」と言って彼女を引き寄せて足の間に座らせる。クッションの上にバスタオルも置いているから何かあってもそんなに気にならないと思う。
「恥ずかしいんだけど」
「それは良かった」と俺は彼女の腹の上に手を重ねる。
「何?」
「お腹をあっためると楽になるって見たから。寝転ぶの嫌なんでしょ? このまま寝ていいから」というと「いやいやいや」と彼女は俺の腕から抜け出そうとした。
「え、だって。黄瀬くん帰るんでしょ?」
「が寝た後帰るよ。だから気にしないで」
「いや、でも」と何か反論しようとして彼女は諦めたように体重を預けてきた。掛けられた重さが信頼のようで、少しくすぐったい。
しかし、彼女はすぐに体を起こした。
「やっぱドライヤー掛けてくる」
「どうして?」
「このまま寝たら黄瀬くんの服が濡れる」
「いいよ。今の時季ならすぐ乾くし、寒くないから」
彼女は少し考えて「じゃあ、うん」とまた体重を預けてきた。身体を動かすのが辛いのかもしれない。
「黄瀬くん、お酒の匂いがする」
「あ、ごめん。そのまま来たから」
「ううん。せっかく早く帰って休めたのに、ごめんね」
「俺がの顔を見たかったんだよ」
「ありがとう」
間もなく彼女は静かに寝息を立て始めた。俺の差し入れを手にしたまま眠ってしまった姿は子供のようで微笑ましい。
音楽やテレビなどが流れていない静かな空間で寝息が聞こえて、トクントクンと心臓の鼓動が伝わってくる。が温かくて、俺も欠伸をひとつした。
「…………ンカン! 朝だよ起きて。黄瀬くん、朝です。カンカンカン!」
すぐ傍での声が聴こえた。
「やだ、まだもうちょっと」と彼女の身体に回した腕を引いて首筋に頬を寄せると腹に衝撃があった。彼女の肘が俺の鳩尾に入ったのだ。
「起きろ」
「、乱暴」
「私が寝たら帰るって言ったじゃん」
「そのつもりだったけど、何か、すごく気持ちよくて寝ちゃった」
「「寝ちゃった」じゃなくて」
「、体調は?」
「ん? あー、おかげさまで。出勤できる程度には落ち着いたかな。念のために痛み止め飲むけど、昨日よりも随分と楽。黄瀬くんが一晩中お腹を温めてくれてたからかもしれない」
「お役に立てたようで」
「それはそれとして感謝はしてるけど、これはこれとして早く帰りなよ。黄瀬くん、お風呂入って着替えてご飯食べて出勤でしょ?」
「一緒に休も?」
「そっちのチームの仕事が終わったなら、ウチが忙しくなるの。休められるわけないでしょ。ゆっくりできるのは来月から」
が言っていることは至極真っ当で、社会人としての発言としては間違いなのだが、俺はまだ納得できない。何せ、この体勢は凄く落ち着くというか、気持ちがほわほわする。
「やだー」と多分痛くないと思われる力加減で彼女を後ろから抱きしめると「「やだー」じゃない。というか、トイレに行きたい」と言われた。
仕方なく彼女を抱きしめていた腕を緩める。
するりと腕の中から彼女は抜けて部屋を出て行った。ため息をついて伸びをする。気持ちはほわほわしたが、身体はバキバキだ。同じ体勢のまま寝ていたのだから当然と言えば当然だろう。
「さて、黄瀬くん。今五時だから、帰ってシャワーを浴びたら六時くらいになっちゃうんじゃない? それから朝ごはんで、って朝ご飯は食べてないんだっけ?」
「最近はちょっとはお腹に入れてる」
「じゃあ、朝ご飯を食べて電車に乗って会社に出勤しなきゃだから、ある意味、タイムリミットなのでは?」
それはそうなのだけれど。
「ねー、一緒に住もう? そしたらこうして帰るということがないから出勤までずっと一緒じゃん」
「期間限定が何をおっしゃってるのやら」
ひとまず、ここに留まってもの迷惑になるだけのようで、わがままはそろそろやめておこう。
立ち上がって再び伸びをする。
「じゃ、また後で」と言って玄関に向かうと彼女は付いてきた。
「昨日は、どうもありがとう。また後でね」
ひらひらと手を振る彼女に手を振り返して玄関のドアを開ける。後ろ髪を引かれる思いで部屋の外に出て「チェーン、掛けるの忘れずに」と言ってドアを閉めた。
明るくなった空を見て、これからまた仕事かと少しだけ身体を重く感じた。
桜風
22.9.17
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