| 「どうした、練習に集中できていないぞ」 珍しいな、と驚いたように父が声を掛けてきた。 「父さん。『チロちゃん』って知ってる?」 手を止めてそう聞いた。 父は懐かしそうに目を細めた。 「昔、お前はそう呼ばれていたな」 「俺?!」 いつもより少し大きな声量で宮田は尋ね返した。 「ああ。従姉のちゃんって覚えていないか?お前の唯一の従姉にして友達だった子だ。一郎ちゃんって最初は呼んでいたんが、何かいつの間にか短くされていたな」 父が懐かしそうに彼女の名前を呼ぶが、どうにも記憶がぼんやりしていて輪郭も何も見えない。 「どうした?」 「や。さっき、ロードに出てたら突然女の子に『チロちゃん』って言われて。でも、人違いだったって...」 でも、彼女は凄く傷ついた表情をした。 自分が聞き返したら悲しそうな表情になった。 その表情がさっきからチラチラと頭を掠めて練習に集中出来ない。 「彼女の家は隣の県だったけど..そうか。もう大学生になるんじゃないか?だったらこっちに出てきていてもおかしくないが...まあ、本人が人違いって言うなら人違いなのかもしれないな。連絡を取ってみたらどうだ、と言えないのがお前に悪いが...」 父の言葉に首を振り、練習を再開した。 また明日の朝会えるだろうか。 さっきの彼女は今朝挨拶をしてきた子だったと思う。 人の顔とか声とかあまり興味ないから覚えないけど。 でも、彼女は今朝挨拶を交わしてからも何となく気になっていた。 きっとそういうことなのだろうと納得できる。 家に帰ってアルバムなるものを引っ張り出してみた。学校の卒業アルバム以外でアルバムなんて殆どない。 薄い、写真屋でフィルムの現像をしたらくれるようなそんなものが1冊。 自分の過去はそれだけだった。 恐る恐るアルバムを捲ってみたら、おそらく父の言っていたと言う少女と自分が写っていた。そして、さっき「チロちゃん」と自分を呼んだ彼女と重なった。 しかし、何故彼女は自分に「元従姉だ」と自己紹介しなかったのだろうか。 そうしてくれたら..やっぱり不審人物だなとちょっと納得した。 自分の記憶に残っていない存在を名乗られても信じることは難しいだろう。 でも、悪いことをしたなと少しだけ反省した。 最後の写真は彼女が蝋燭の立っているケーキを目の前にしたその姿だ。 写真の隅に表示してある日付を見たら誕生日だというのが分かった。だが、彼女は何故か嬉しそうに自分に抱きついている。自分の頭に載せた手だけ写っているのは父だ。 じゃあ、この写真のシャッターを切ったのは母か... こんなこともあったのか。 すっかり忘れていた過去に、少しだけ胸を痛めた。 は自分とこんなに仲が良かったのか。 年齢はそう変わらないようだ。 そして、彼女は自分を覚えていて、自分は彼女の存在をすっかり忘れていた。 悪かったな、と改めて少しだけ反省した。 翌朝、昨日と同じコースを走った。 昨日あった場所に差し掛かったが、人影が何処にも見当たらない。 もしかしたら、昨日は偶然会えただけなのかもしれない。 じゃあ、どこに行ったら会えるだろうか。 会って..謝れるだろうか。 そんな事を思いながら過ごして行き、その後、自分のロードワークのコースも変える事になった。 ジムを移籍したため、そのコースを走るのは少し遠回り過ぎるし、昔のジムメイトと会うのも何だか気が引けるというか、少しけじめをつけたいと思ったのだ。 「チロちゃん」と自分を呼んだ彼女の事が少し胸につかえながらも自分は幼い頃から目指していた道への一歩を踏み込んだ。 やっと17歳になり、基準をクリアできてプロボクサーになった。 デビュー戦を白星で飾り、そして次の試合も勝利を収めた。 試合終了後、ホールからの帰りにごった返す駅ですれ違った少女の腕を反射的に掴んでいた。 「あ、いや...」 今度は自分が不審人物だ。 彼女は目を丸くして驚いた表情を浮かべていたが、やがて苦笑した。 「こんばんは」 彼女はそう言う。 「こん..ばんは...」 謝らなければ。 そう思うも、もうあれから半年以上経っている。 「ちゃん、だよね?」 自分の背後から聞こえた声に助けられた。 「こんばんは、おじさん。お久しぶりです。お元気そうで嬉しいです」 「ああ。君も元気そう何よりだ。今は..大学生かな?」 「そうです。今年から。慣れない一人暮らしでバイト三昧ですけど」 そう言って彼女は笑った。 あの写真の笑顔と重なる。 「一郎の事は、覚えているかい?」 そう言って父が宮田の肩に手を置いた。 は頷く。 「覚えてますよ。というか、思い出したというか...いつの間にかわたしより大きくなっちゃって、ちょっと悔しいな」 にそう言われて宮田は「仕方ないだろう」と呟く。 「でも、もうちゃんに抱きつかれて潰れることはないと思うぞ」 父のそんな言葉にぎょっとした。それも教えておいてほしかった!! 「そうですね。安心して突進できます」とも笑う。 「どこに住んでいるんだい?何か男手が要るようだったら言ってくれれば手を貸すよ」 「ありがとうございます」とが頭を下げると「ー!」と彼女を呼ぶ声がした。 彼女は振り返って、「いま行く!」と返している。 どうやら友達と一緒だったようだ。 「じゃあ、また」 「そうだな。呼び止めて..じゃなくて。一郎が引き止めて悪かったね。家は変わってないから遊びにおいで」 父がそう締めている。 「はい」とは返事をして父に頭を下げ、そして宮田に手を振る。 駆け出したの背中を見ながら焦燥感に駆られ「父さん。俺、彼女の事何て呼んでたの?!」と父に尋ねた。 「ちゃんだったと思うが...」 呼び名は一々気にして無い。印象に残っていないということは、あまり変わった呼び方をしていないのだろう。 「ちゃん!」 宮田が声を張って彼女の名前を呼ぶ。 驚いたのか、走っている彼女は急ブレーキをかけて、上手く止まれずに構内の柱に頭をぶつけた。 「あ、」と宮田父子の声が重なる。此処までいい音が聞こえた。 はおでこを擦りながら振り返り、「またね、チロちゃん!」と手を振ってまた走り出した。 |
桜風
08.12.13
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