| に一途といわれてから試合はあったが、彼女に言われたような行動は起こさなかった。 起こさなかった、というのは正しくない。 すっかり失念していたのだ。 しかし、リングを降りるときにそれを思い出した試合があった。 本当に偶然で、足を止めて振り返る。 ドクン、と心臓が鳴った。 「一郎?」 「ああ、うん」 父に促されて再び足を進める。 びっくりした。 客の多さにはそこまで驚かない。いろんな試合を見たし、自分の試合はファイナルではない。 この後は、世界戦だ。 だが...いや、だからこそ、こんな大勢の中であの一点を見つけることが出来た自分に驚いたのだ。 嬉しそうにせわしなく拍手をしていた彼女を目があったような気がした。 ホントに、驚いた。 目があった瞬間、彼女は先輩記者に襟首を引っ張られてその席から立った。 取材、だろうか。そうだろう、これからメインだというのに席を立ったのだから。 彼女は自分が言ったとおり、確かに取材の上手になっていたし、随分と記事も書かせてもらっているようで、雑誌を買えば何かしら書いている。 控え室で片づけをしていると記者たちがやってきた。 この後の世界戦がメインだからそこまで多くないが、そこそこやってきている。 あれ?と宮田は心の中で首を傾げた。 が居ない。 引っ張っていった飯村は居るのに、と。 彼女だと思ったのは勘違いだったのだろうか... そんなことを思いながら試合明けで体を休めていた宮田はジムへの挨拶を終えてアパートに戻ってきた。 階段を昇り終えたところで、「ありがとうございました!」という男の声と「ありがとうございます」というの声が聞こえた。 見ると、宅配業者が何かを持ってきたようだ。 何だろう... 「あ、宮田くん。お帰り」 「どーも」と返して彼女が抱えている大きな箱を見た。 「荷物ですか?」 「あー、うん...まさか、こんなに早く行動に出られるなんて..ねぇ?」 何の話だろう、と宮田は首を傾げる。 「そんなことよりも!宮田くん、この間はおめでとうございました」 深々と頭を下げてが言う。 「あ、はい。ありがとうございます」 「まさか、宮田くんと目が合うなんて思ってなかったからビックリだよね」 どうやら、あれは自分の妄想とか勘違いではなかったらしい。 「飯村さんに引っ張っていかれましたよね?」 「あ、見てた?」 「『ドナドナ』が頭に浮かびましたから」 宮田の返答には声を上げて笑う。 「そんなかわいそうに見えた?!いたいけな仔牛かー」 「いたいけ、とは言ってませんけどね」と返すと「照れるなよー」とが笑う。 玄関先で話していたその十数分後、宮田の携帯が鳴った。 からだ。 用事があるときは彼女はいつもインターホンを押しに来る。 その手間を惜しむ理由は何だろう。 「はい?」 『ちょっと手を貸していただけると嬉しいというか...』 「行けば良いんですか?」 『です』 「わかりました。行きます」 そう言って通話をきった。 インターホンを押すとが着替えていた。 何だ...? は手招きをしてそのまま後ろ歩きに下がる。 「どうしたんですか?」 先ほど送られてきたものは服だったようで、は落ち着いたデザインのワンピースを着ている。 「ホントに、ごめん。こういうの頼むのは如何なものかと思ったんだけど」と前置きをしてくるりと振り返る。 ファスナーが閉まっていない。 この人はホントに... 呆れるやら何やらで宮田は溜息を吐いた。 「咬んじゃったみたいで上がらないし下がらないし...第三者に頼むしかないっていう状況でして。ホント、ごめん」 「はいはい」と言って宮田はの背中のファスナーに手を伸ばした。 この人はいったい自分を何だと思っているのだろうか... 少し腹が立ってきた。 「上げればいいんですよね?」 「え、脱がせたいの?!」 ホントにこの人は... 一瞬、本当に脱がせてみようかと思ったが、それは大きなリスクを伴うのを分かっている宮田は大人しくファスナーを上げた。 |
桜風
09.3.27
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