| 雨の日も、風の日も。雪の日も。時々姿を見ないけど、彼は毎日窓の下を走っている。 何のためにあんなに走るのだろう、と思う。 何であんなに苦しそうなのに、同時に楽しそうなのだろう。 はそう思いながらも同じ時刻に窓の外を眺めていた。 今日もやって来た。 俯いて走っている彼は最近はこの窓に近づくと顔を上げてフードを取る。 それを見ては慌ててカーテンの影に隠れる。 やましいことは何一つしていない、と言い切れないところがあるから。 毎日、ある特定の人物を覗き見しているという事実は、結構やましい気持ちになる。 彼が通り過ぎたのをカーテンの隙間から確認して再び窓からその背を見送る。 しかし、今日はコースを変えたのか、ペースを上げたのか。それとも、自分の隠れていた時間が長かったのか。 彼の姿はどこにもなかった。 彼の背中を見ているとどこか自分も突き動かされる。そんな気分になるから不思議だ。 コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえ、慌ててベッドの中に潜り込む。 看護師はさっき顔を出したから当分来ないと思っていたのに。 ドアが開いて入ってきたのはジャージ姿の彼だった。 「え、何で...」との口から思わず声が漏れる。 「おー、当っとったわ」 そう言いながら彼は部屋の中に入ってくる。 「初めまして、言うんは何かおかしな気もするけど...まあ、『初めまして』、やもんな?」 そう言って彼は苦笑した。 ペースを上げたのでもなければコースを変えたのでもない。 いや、コースは変えたか。病院の中に。 「ワイは千堂っちゅうもんや。自分、言うんやったんやな」 彼は言葉を捜しながらに近づく。 は今の状況を全く把握できずに、寧ろ把握することを放棄したかのように思考が停止してただ遠めで見ていた千堂を見上げていた。 が彼の存在を目にしたのは数年前だ。 こちらの病院に変わって退屈な病院生活を送っている中で、偶々窓の外に彼が居た。 同じ制服を着ていたガラの悪い人を引き連れて周囲に迷惑を掛けながら歩いていた。偶々が窓の外を覗いているところにやってきた看護師が「ごんたくれだ」と呟いていた。 こちらの言葉で、やんちゃとかそういう意味なのかと適当に推測した。でも、どう考えても『やんちゃ』の域は超えているとも思った。 しかし、そんな彼はある日を境に変わった。 ガラが悪く、大勢の人間とつるんでいた彼はただ只管走る人になった。 何があったのかわからない。 けど、苦しそうに、楽しそうに走っている彼のほうが子分を沢山引き連れていた彼よりもよほど素敵だと思った。 実際、千堂がこの病院の前を真面目に走り始めてからと言うもの、もあまり文句を言わなくなった。 看護師は不思議に思っていたけど、彼女が前向きになったことを褒めていた。 別に、誰かに褒められたくて自分は我慢しているのではない。 直向に何かを頑張った末に、もしかしたら自分の知らない何かがあるのかもしれない。 そう思ったから。 窓の下を走る青年の姿が、をそんな気持ちに変えた。 彼の背中に恋にも似た憧憬の想いを抱いた。 そんな憧れの背中を持つ青年が今目の前に居る。 自慢じゃないが、応用力がないはどうリアクションを取っていいか分からないし、面白い事を言うなんて夢のまた夢だ。 だから、一度深呼吸をした。 「初めまして、千堂さん。です。...あなたのファンです」 真っ白になった頭で、事実だけを口にした。 千堂は面食らったように口をぽかんと開けていた。 「そりゃ、おおきに。そうか、ワイのファンやったんか...それやったら、プレゼントしよか。此処で会ったのも何かの縁やし」 千堂はそう言う。 何だろう。と、言うか初対面の人間にプレゼントと言われても... 「今度、試合があるんや。大阪やし。それに招待するわ。あ、医者の外出許可が要るな。大丈夫なんか?」 試合、って何だろう。陸上だろうか... 「まー、これからはキツイけどそれがないと勝負させてもらえへんしな」 今更何の試合かなんて聞けない。 が悶々と悩んでいると千堂は 「ま、ものっすごいKO見せたるわ」 という。 KOってことは格闘技。少なくとも陸上ではない。 そうか、彼は格闘家だったんだ。そして、たぶん。強いんだ。 千堂の背中を思い出す。 「そっか。だからか...」 自分が千堂の背中に惹かれた理由が何となく分かった。闘う人の背中だからだ。 たぶん、羨ましかったのだ。闘い続けることが出来る彼が。 「まあ、も。ワイの試合の日までには外出できる程度には体調を整えとくんやで」 千堂の言葉には頷いた。 きっと大丈夫。 あの背中を見ていられる限り、心が折れることはない。 |
桜風
08.5.1
08.7.1(再掲)
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