傍に居る遠い存在





廊下を歩いているとを見た。



名前を呼ぶと振り返って駆けて来る。

「おめでとう、一郎!」

「ああ、うん。どうしたんだよ。宮原たちは?」

ホールでは宮原と、清村先輩と一緒に居た。

「父さんからメールが来て。祝勝会するから来なさいって...出来るの?」

今回はかなり打たれたから心配してるんだな。

「大丈夫。そんなに長くしないだろうし。また日を改めてしてくれるって言ってたから今日はさっさと帰る予定だし」

「主役がそんなこと言って良いの?」と笑いながらが言う。

ふと気がついたように、じっと見て「それ」と指差されたのは頭の上に載っている帽子だ。

「もらった。やるよ」

そう言ってにかぶせる。

少し、大きいようで、が一生懸命据わりのいいように調節している。


控え室に戻ると父さんたちは帰り支度を終えている。

「じゃあ、行くぞ」と促されてホールを後にした。


時々、祝勝会に使うお店に行った。

はこれが初めてだ。

今までの試合後もいつもひとりで家に帰っていたから。

「そういえば、何で?」

「んー、いつもいつも帰ってたら心証が良くないかなって」

そんなの気にすることないのに。

会長が機嫌よく乾杯の音頭を取る。

はカクテルなら行ける口だけど、残念ながらカクテル類は殆どなく、日本酒やワインが主だ。

「やあ、一郎君の妹だね。そっくりだねぇ」

会長が機嫌よくそう言った。

が川原ジムに顔を出すことは殆どない。

そして、来たとしても会長に挨拶なんて態々しない。必要ないから、と俺も父さんも言っている。

「父と一郎がお世話になっています」

「『一郎』だなんて...『お兄ちゃん』と言わないのかい?」

は困ったように睫を伏せた。

「会長。そいつに絡むのは辞めてくださいよ」

声を掛けると機嫌よく「おー、そうか。すまないなー」と全く応えていない。


ジムの関係者に声をかけられ、邪険にするわけにもいかなくて相手をしながらを見る。

は、独りだった。

何とかあいつを独りにしないようにしようと思っても、さすがに俺は動けない。

父さんに視線を向けるが、父さんも手が離せない。

が来たって、こうなるのが分かっている。ここには、の知っている人は居ない。を知っている人も居ない。

さっきが言った『心証』ってのはあいつに対するものじゃなくて、俺に対するものだろう。

そんなの気にすることないのに...

再び会長がに絡んでいる。

困ったように笑っていたが、断りきれないといった感じに会長からグラスを受け取った。

そして、意を決したようにそれを一気に煽る。

は見事にその勢いのまま背中から倒れていった。

反射的にの傍に駆け寄って手を伸ばし、体を支える。

「何飲ませたんですか」

「えー、ワイン?」

ふざけんな。

何とかその言葉は飲んだ。

急性アルコール中毒になったらどうするつもりだ!!

「俺、コイツをつれて帰ります」

「いや、君は主役なんだから...」

そう引き止めるヤツを睨みかけて目の前に人が現れて失敗した。

「そうだな、一郎。を連れて先に帰りなさい。まあ、また別の機会を設けることになるだろうし」

俺をそう言って止めたのは父さんだ。

父さんも少なからず怒っている。

「OK」と返事をしてを負んぶする。


暫く外の空気を吸いながらゆっくりと足を進めた。

「一郎?」

「目、醒めたか?」

俺の言葉にはガバッと起きる。ジタバタするから下ろしてみると「祝勝会は!?」と驚いたように聞いてきた。

「ああ、俺は先に帰ることにしたんだ」

フラフラするのか、足元が覚束ないの腕を掴んでゆっくり歩く。

「ダメだよ。皆が...」

そう言ってその場に蹲る。

「吐くか?」

そういうとは首を振った。

ああ、そうか。は吐けないんだ。吐きそうなところまでいっても、結局吐けずにいちばん苦しい状況が長く続くんだ。

「じゃあ、少し休んでいくか?」

辛そうにしながらも首を振るを見ていると会長に対して再び怒りがこみ上げてくる。

を苦しめているのは間違いなくさっきの一気だ。

「さっき、何で一気なんてしたんだよ。吐けないのに」

は困ったように笑った。

「だって、『お兄ちゃんの祝勝会なのに、飲まないなんて』って言われたら飲まないわけにはいかないでしょう?」

「飲まなくて良いんだよ」と溜息交じりに言うと「ごめんなさい」とシュンとなった。

「別に、に怒っているわけじゃないから。ほら、負ぶされよ」

は素直に俺の背中に乗る。

「一郎、大きくなったね」

「親戚の叔母ちゃんかよ」

苦笑しながら言うと「そうだね」とも苦笑した。


もさ、気にしなくて良いからな」

なるべく揺らさないように足を進める。

「何を?」

少し眠たげな声でそう聞き返した。

「俺のこと。大丈夫だから。心証とか、そういうの気にしなくても。ちゃんとある程度愛想よくしてるんだぜ、こう見えても」

「そっか。逆に迷惑掛けちゃったね...」

「別に、迷惑じゃないよ。こうやって予定より早く帰れてるし」

「ねえ、一郎」と声をかけてきた。

「なに?」

「覚えてる?父さんがチャンピオンになったときの事」

「覚えてるよ」

忘れるはずがない。もの凄く誇らしくて、少し遠い存在になってしまったあの瞬間を。が目を輝かせて多くの人に囲まれたリング中央の父さんを見ていた。母さんも、誇らしげに父さんを見ていた。

「父さん、遠かったね」

「そう..だったな」

「今日ね、一郎がそれだったんだ」

寂しげにそう呟かれて息が止まった。

「俺は、の傍に居るよ」

「うん、知ってる。でも、凄く遠くて、だけど凄く誇らしかった。母さん、父さんの事そんな感じに見てたのかな?...近づけなかったよ。一郎、凄く頑張ったもんね。辛くて厳しい練習とか、減量とか。ずっと頑張ってたもんね」

「俺だけじゃないだろう?」

俺が言うと「ほへ?」とが言う。

眠いんだな...

「頑張ったのは俺だけじゃない。だって、頑張っただろう?」

「何もしてないじゃん」

「してくれたよ。俺が減量に入ったら食事は香りの強くないものを作ったり、家で食事をしないようにしたり。普段からだって、栄養バランスを考えながら献立を考えているんだろう?それって、大変なことだと思うし、感謝してる。
俺と父さんだけであのベルトが獲れたかどうか分からない。はたくさん色々と気を配って、気にかけて。俺がボクシングをしやすい環境を作ってくれているだろう?」

「でも、それは...」

「誰もが出来ることだなんて思わない。誰にでもしてもらえることだとも思わない。だから、出来たんだし、してもらえてよかったって思う」


暫く無言だったは「一郎、いつになくおしゃべりだね」と呟いた。

「ベルトが獲れて安心したんだよ。妹に対しても約束破りになりたくないからな」

「うん、約束守ってくれてありがとう。おめでとうチャンピオン」

最後は既に力のない声だった。

力の抜けている人間って本当に重いな...

でも、まあ。この様子だと、ベルトを間近に見せられるのは明日の朝になるみたいだ。




ヒロインと一郎さんがイチャイチャしてます。(激しく違う)
ヒロインは直接ボクシングに関わっていないので、一郎さんがベルトを獲れたのは
父と本人の努力に依るもので、自分は何も出来なかったと思っているのではないかと思います。
でも、いちばん(?)大事な普段からの体作りに協力しているのは、
栄養とか色々食事の献立を考えているヒロインで、
一郎さんはそれにメチャクチャ感謝しているはずです。
ヒロインもちゃんとそのことに胸を張っていれば良いんですよね。


桜風
09.4.18


ブラウザバックでお戻りください