Dear my friends ―温かい紅茶―





ガチャリとドアを開けるといつも賑やかなはずの空間は、シンと静まり返っていた。

珍しいな、とは首を傾げながら「おじゃましまーす」と言って足を踏み入れる。

バカサイユの鍵が開いているということは、翼が居るってことだろうに...

「こんにちは、さん」

声を掛けられてそちらに顔を向けると翼の秘書の永田が居た。

「あれ、永田さんはいらっしゃるんですね」

が疑問をそのまま口にすると永田はひとつ頷く。

「ええ、翼様に此処でお待ちするように、と仰せつかっておりますゆえ」

「なるほど」とは納得した。

「何かお飲みになりますか?」

不意にそう声を掛けられては驚き、「いいんですか?」と聞いた。

「ええ、温かい飲み物をご用意致しますね」

そう言って永田はその場を去っていく。


永田はいつも翼のお世話をしている秘書だ。

それなのに、自分がお世話をされる。ちょっとだけ特別な気分を味わう気がした。

暫くして永田はお盆にカップを乗せて戻ってきた。

「どうぞ」と言いながらテーブルにそれを置く。

紅茶だ。

はソーサーに手を伸ばし、カップを持ち上げて香りを利く。

「ダージリン...ですか?」

恐る恐るそう言ってみた。

「正解です。さんは紅茶にお詳しいのですか?」

は少しはにかんだように笑った。

「以前、ちょっとだけ凝ってたんです。でも、こんないい香りの高い茶葉なんて無理だったので庶民的なティーバッグですけどね」

そう言って紅茶に口をつけた。

「美味しいです!」

「ありがとうございます」

の感想に永田は微笑みながら恭しく頭を下げた。

「しかし、寂しくなりますね」

不意に永田が言う。

も紅茶に視線を落として「そうですね」と呟いた。

「でも、ほら。何だかんだでみんなの進路ってそう遠くないじゃないですか」

パッと顔を上げてそういうと永田はやはり少しだけ寂しそうな表情を浮かべたまま

さんは遠くに行かれるでしょう」

と言った。

その言葉に驚いてはカップを手から滑らせる。

「いッ!」

短く悲鳴を漏らしてそのまま慌てて立ち上がった。

幸いにも、と言うべきか...カップは割れなかったが、絨毯に紅茶を零してしまった。

ああ、この絨毯。弁償するならどれくらいだろう...

はかなり途方に暮れながらそんな事を思っていると永田が素早く傍にやってきて「失礼します」と言いながらのスカートに掛かった紅茶を拭き始めた。

「永田さん、こっちよりもそっちが...」

金額的に絨毯の損害の方を抑えたい。

「いいえ、卒業までもう残り少ないのですから。綺麗な制服で卒業してください。ジャージをお持ちではありませんか?」

言われて「持っています」とが答え、「そちらに着替えてください。染み抜きします」と永田が言いは慌てて隣室に行った。

もう体育がないからもって帰ろうと丁度持っていたのだ。


着替えおわったの手にあるスカートを受け取って永田が染み抜きを始める。

「ごめんなさい」

「いいえ。ああ、大丈夫そうですね。染みは残らないでしょう」

「でも、絨毯が...」

さっきからそればかりが気になっている。

此処まで時間が経つともう絶対に染みになっているはずだ。

一生働いて返そう。

そう思って、こうなった原因の永田の言葉を思い出す。

「永田さんは、何でわたしが遠くに行くって仰ったんですか?」

「申し訳ありません。わたくしは翼様の秘書であり、吉仲様の秘書なのです」

“吉仲”とは誰だろう。

「翼様のお父様でいらっしゃいます」

の疑問が顔に出ていたようで、永田が添える。

「それで..あ、もしかして」

「はい。翼様の周辺を、その..調査させていただきまして。そのときに、さんの事も調べさせていただきました」

「じゃあ、それって12月頃の話ですか?」

自分が渡米を決めたのはそれくらいだ。

「継続的に、情報を収集しておりましたので。しかし、翼様には申しておりません」

「このまま卒業するまで言わないでくださいよ?」

が言うと

「お約束いたします」

と永田が頷く。

だったら、まあ。いいや。

そんな様子の

さんは、お怒りにならないんですか?その、勝手に調べられて気分を害されたのでは...?」

と永田が訪ねた。「酷い!」とか言われても仕方ないことだ。

「あー..でも。まあ。“非日常的”とか“非常識”ということにもお陰様で慣れましたし。それに、永田さんにはこの1年でもの凄くお世話になったので」

はそう言って笑い、「今も、ですし」と制服のスカートを指差して笑う。

の笑顔につられて永田も表情を柔らかくする。

さんには、翼様もお世話になっておりましたから」

「でも、ほら。永田さんにはどう考えてもわたしは多大なご迷惑と言うかお手数をおかけしましたよ」

そう言ってが笑う。

「そうでしたか?」

「文化祭のとき。永田さんが来てくださらなかったらわたしは火傷を冷やすことが出来ませんでした」

ああ、そんなこともあったな、と永田は思い出す。

「それに、えーと。クリスマスのときとか」

ああ、そうだ。

せっかくドレスを着ているのにそれ以外適当で会場に行こうとしたを引き止めて化粧を施し、ヘアアレンジをしたのは何を隠そう、永田だ。

「あと、お正月」

「そういえば、そうですね」

正月は、翼を起こすために早朝からの家に行った。

朝食を作っているを手伝ったのも永田だ。悠里も手伝うといったが、それは一が全力で阻止した。

「しかし、バレンタインデーにはわたくしまでお煎餅を頂きました。とても美味しゅうございましたよ」

「ありがとうございます。でも、言いませんでしたか?日ごろお世話になっているお礼ですって」

「ええ、そう伺いましたが..ホワイトデーのお返しはさせてください。わたくしも、少なからずさんにお世話になっておりますゆえ」

は首を傾げた。そんなこと絶対にないはずだ。

そんなの表情が可愛らしく、そして、すぐに表情に出るその素直さに永田は笑みを零す。

「永田さんって、お父さん..って言うには若すぎるし。お父さんって良いものだと思わないから...“お兄ちゃん”って感じですね。落ち着きすぎてるお兄ちゃんですけど」

の言葉に永田は目を丸くしてやがて微笑む。

「それは、とても光栄です」

その言葉を聞いて、は嬉しそうに笑った。

「代わりの紅茶をお淹れしますね」

にスカートを返して永田は立ち上がった。

「えーと、絨毯...」

言いにくそうに言うに苦笑し

「わたくしの方から翼様にお願い申し上げておきます。大丈夫ですよ。このお兄ちゃんを信頼してください」

言った後、自分で“お兄ちゃん”はちょっと図々しかったかなと反省したが、の表情を見ると逆に照れくさくなった。

「ありがとうございます、お兄ちゃん」と何だかとても嬉しそうに自分を見上げてくれたから。









桜風
08.12.19


ブラウザバックでお戻りください