月光 16





道場を後にして帰宅の途につく。

「ところで、さん」

颯斗がいつもよりも優しい声を出した。

が構えると「足、どうかしたんですか?」と聞かれて驚く。

「準備運動せずに動いちゃったから、ちょっと攣りそうになっただけ」

恥ずかしそうに言うに颯斗は悲しげに眉を寄せる。

「どうぞ」と片膝をついて背を向けた。

「え、大丈夫だよ!」

さん」と押されて渋々颯斗の背中に体重を預けた。

自分を背負っても颯斗は軽く立ち上がる。

てくてくと歩いていると背中のが「ふふふ」と笑った。

「どうかしましたか?」

「颯斗君の顔が近い」

嬉しそうに言われ、颯斗もを振り返る。

「本当ですね。けど、キスをするにはちょっと体勢的にキツイですね」

苦笑して言う颯斗には首を伸ばして彼の頬にキスをした。

思わず颯斗は足を止めた。

「...さんからキスをしてくれたのは初めてです」

「ほっぺだから出来たんだよ」

恥ずかしそうにが返し、颯斗は「では、これからは毎日ほっぺで良いのでさんにキスをしてもらいましょう」と笑う。

「毎日?無理!」

「無理なんですか?」と沈んだ声を出されては困った。

「た..偶になら、ね?」

そういったに「約束ですよ」と颯斗は返してまた歩き出す。


家に帰ると琥太郎以外はおきていた。

「どこ行ってたの?」

夏凛の質問に「師範のところ」とが返す。

「ふーん。跡継ぎはどうだった?」

郁に言われて

「相変わらず『チビ』って言われた。師範に頼まれて伸してきた」

が返す。

「え、彼氏の前でそれやっちゃったんだ?」

郁が驚き、颯斗を見る。

「ええ、あっという間に伸しちゃいました、さん」

クスクスと笑いながら颯斗が言う。

「ねえ、自分の彼女の腕っ節が強いってちょっと引かない?」

興味本位で聞く郁に「いいえ。それもさんですから」と颯斗が返し「あっそ」と呆れたように郁が返す。

「颯斗君、朝ごはんはパンなんだけど、良かったかしら?」

琥雪に聞かれ「はい、いただきます」と颯斗は頷いた。

他人の自分が普通に受け入れられているこの家の空気はとても居心地が良かった。



「琥雪さん、これ調律してある?」

リビングにあるピアノを指差して夏凛が問う。

「ええ。1週間前にお願いしてきてもらってるから大丈夫よ」

琥雪の返事に満足げに頷いた夏凛が颯斗を見た。

「ほれ、なんか弾きなさい」

突然水を向けられて颯斗は困惑したが「颯斗くん、弾いてくれるの?」とが喜んだため、「わかりました」と頷く。

1曲弾き終わるとが嬉しそうに拍手をし、「楽譜がなくても弾けるのねぇ」と琥雪が感心していた。

、何が聞きたい?」と夏凛が言う。

「颯斗くんの?えっとね...『Tears of the polestar』が良い」

「何それ」

夏凛が颯斗を見る。

「あまり有名ではありませんから」

そう言って弾き始める。

タイトルを聞けば『北極星の涙』だ。何を思って泣くのだろう...

颯斗の繊細な音色に皆は耳を傾け、演奏が終わると皆は自然と拍手をする。

「ちょっとどいて」と夏凛が言い、颯斗に椅子を譲らせてそこに座った。

そして夏凛が演奏し始めた曲は...

「ねえ、これって...」

何か全然違う気もするけど、さっき颯斗が演奏した『Tears of the polestar』のような気がしないでもない。

「そうですね。1度聞いただけで音を覚えてさらにアレンジが出来るなんて、夏凛さんは凄いですね」

心から感心したように颯斗がの呟きに応え、「全然涙を流してないぞ、北極星」と晴秋が呟く。

「ジャズ風味にアレンジしてありますし、音の勢いと言うか...」

夏凛らしい。

演奏が終わって夏凛が立ち上がり「どーよ」と胸を張る。

「お見逸れしました」

颯斗が頭を下げ、その様子を見て満足そうに笑う。

「颯斗、これいけるでしょう?」

そう言いながら楽器ケースからトランペットを取り出し、演奏を始める。

少し聞いた颯斗は「はい」と頷いてピアノの前に座った。

楽譜もないのに2人は演奏を始める。

演奏をしながら颯斗は意外に思った。あのわが道をぶっちぎりで突き進む夏凛のことだからついていくのが大変だろうと思っていた。

しかし、ちゃんとコンチェルトだ。

それどころか、随分とフォローしてもらっている。

そして、彼女の奏でる音色に惹き込まれて何度も手が止まりそうになった。

いつも弟達にゲンコツをお見舞いし、偶に関節技で落としたりしている唯我独尊な夏凛だが、彼女の音色は力強さは確かにあるが繊細でたおやかで伸びやかで。おそらく、これが彼女の本質なのだろうと思った。

普段の唯我独尊は、彼女が自分を守るための鎧でだからこそ、ああまで強引に自分のペースなのだろう。

演奏が終わり、颯斗は恐る恐る夏凛を見上げた。

何度か音を飛ばしてしまった。リズムが崩れた箇所もあった。

じっと見下ろしていた夏凛は「ま、楽譜がないところでのこれは合格じゃないの?」と言う。

「あたしは、これを何度も演奏してるけど、颯斗はそうでもないでしょう?練習なしでこれなら、まあ。許してあげるわ。隼風に自慢してご覧なさい。本気で悔しがるから」

ケラケラと笑った夏凛は別の曲をトランペットの独奏で奏で、彼女の独奏会は暫く続いた。









桜風
12.10.12


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