月光 80





 大学の長い春休みの存在に感謝しつつ、何とか溜めることができたお金でウィーンに飛んだ。


空港に降り立つと「え?」とは声を漏らす。

さん」

「颯斗くん!なんで...」

明日からコンクールだ。

コンクールの期間中は師匠のところに泊まるので自分の部屋に泊まって欲しいといわれてそのようにするつもりだった。

そして、颯斗に会ってゆっくり話ができるのはコンクールが終わってからだと思っていた。

「どうしたの?」

「やっぱり、さんを我慢できませんでした」

そう言った颯斗に唇を塞がれる。

いつものなら叱るところだが、会えないと思っていたところに会えた颯斗の口付けで、どうしても拒否することが出来なかった。

こんなことは、日本でも海外でもモラルに欠けていることは重々承知だが、の中で、モラルよりも嬉しいが勝ってしまったのだ。

暫くあわせていた唇が離れ、「叱られませんでしたね」と颯斗がイタズラっぽく言う。

「颯斗くん!」

ただ今猛省中のはそんな追い討ちをかけられて颯斗を軽く睨んだ。


「練習は大丈夫なの?」

が問う。颯斗のマンションへは公共交通機関を使用しての移動だ。

「ええ、やっぱり多少の不安はありますが。今はメンタルを整えているところですから」

と颯斗が言う。

「そうなの?」

「ええ、僕はあなたといれば凄く穏やかになれるんです」

そういわれては嬉しそうに睫を伏せた。

「ねえ、さん。絶対に最後までいてくださいね」

ふと、颯斗が少し思いつめたような声音で言う。

「どうしたの?」

「同じコンクールに、姉さんも出るみたいなんです」

「よし、コテンパンだ!」

さん...」

思わず苦笑した。

「まあ、冗談はさておき。大丈夫だよ、颯斗くん。内緒だけどね、お姉ちゃん言ってたから。『颯斗上手くなったねぇ』って」
正月に好きに演奏させてもらったときのことだろうか。

「本当ですか?」

「うん。大丈夫!お姉ちゃんはおべっか使わないし、何より颯斗くんの居ないところでおべっか使っても仕方ないでしょう?思わず零れた本音だと思う」

自信満々にが言う。

「わたし、颯斗くんの演奏が聞けるのが凄く凄く楽しみなんだよ。毎日カレンダーにバツを付けて今日を待ってたんだ」

「では、このコンクールはあなたのために弾きます」

「ホント?嬉しい!」

弾んだの声に颯斗は笑顔になる。


颯斗のマンションまで一緒に帰り、颯斗はに鍵を渡した。

「くれぐれも施錠には気をつけてくださいね。出かけるときのはともかく、家にいる間のは」

「逆じゃないの?」

が首を傾げると

「あなたにもしもの事があったら僕は生きていけません」

と思いつめたように言われ、固く施錠を約束した。

再び唇を合わせ、名残惜しげに離れていく。

「次に、さんにキスできるのはコンクールが終わってからでしょうか」

「祝福のキスだね」

そう言って笑うに、颯斗は困ったように笑った。

そして、いってきますの挨拶のように短いキスをして「では、また」と部屋を出て行った。



コンクールは数日にわたって行われるらしい。

颯斗から話を聞いたとき、その日のうちに決まるものじゃないんだ、とは思った。

2日目の昼に会場近くのカフェで昼食を摂っていると手元が翳った。

顔を上げて慌てる。

「こんにちは」

と声をかけられて

「こんにちは」

も返す。

「ここは空いているのかな?」

「はい」とが頷いたのを確認して彼はの向かいに座る。ウェイターに声をかけてコーヒーを注文した。

「颯斗の応援かい?」

「はい。隼風さん..ですよね。隼風さんとお呼びしても良いですか?」

「構わないよ」

「ありがとうございます。隼風さんは、どちらの応援をされているんですか?風音さんと颯斗くん」

「どっちだと思う?」

苦笑して見せる彼に「じゃあ、風音さんを応援してあげてください」とが言う。

「おや、颯斗は良いのかい?」

「颯斗くんは、わたしが応援しますから大丈夫です」

胸を張って言うに隼風は笑った。

「途端に勝てそうにない気がしてきたよ」

「応援が、ですか?ピアノが、ですか?」

「残念ながら、応援の方だね」

ムッとしたを見て隼風が声を上げて笑った。

「何が可笑しいんですか!」

「まだ、颯斗は勝てないと思う。今回仮に風音に勝てても、それはまぐれというやつだ。単なるビギナーズラックに近い。あと、師匠の名前」

「颯斗くん自身も頑張っています!」

「こちらは、頑張っただけ結果が出るような世界じゃない」

が反論しようと口をあけると隼風が「まあ、最後まで聞いてくれないかい?」とそれを制した。

仕方ないので、はそれに従うことにした。

「『まだ』と言ったよ。今の颯斗は驚くほど伸びているが、やっぱりあのブランクは大きい。オリンピック選手が1日でも練習をサボったらそれを取り戻すのに3日掛かると話していたことがある。ピアノも同じだ。あの子は随分と長い間、ピアノから逃げていたからね」

少し冷たい声音にはコクリと喉を鳴らす。しかし、場外での喧嘩に負けるわけにはいかない。

そう思って気合を入れると

「まあ、君のような子が颯斗のそばにいてくれるなら少しは安心だね」

と言って彼は席を立った。

ついでに、の伝票にも手を伸ばす。

「それ...!」

「颯斗の応援をしてくれるお礼だよ」

「そんなの要りません!わたしが応援したいんです!!」

まっすぐ目を見て言うと彼は少し驚いた表情をして、ふっと瞳を細める。

「そうか。でも、君みたいな子が颯斗のそばにいてくれることが嬉しいから、ご馳走させてくれないかな」

そう言っての返事を聞かずに彼はそのまま席を移り、ウェイターに何か話しかけている。おそらく、の支払いは自分がするといっているのだろう。

「...お兄ちゃんみたい」

隼風の先ほどの表情は、自分を甘やかしてくれるときの兄の表情にどこか似ていたような気がした。









桜風
13.5.24


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