| 絳攸が家に帰ると客人があると家人に言われてそちらに向かった。 「お待たせしました」と室に入り、絶句する。 「ああ、待ったよ」 優雅に振り返った彼女はそう言ってついと目を細めた。 絳攸の苦手な人物というのは比較的少ないが、彼女は苦手人物の筆頭だったりする。 何が苦手って、何だろう...よく分からない。そのよく分からないところが苦手なのかもしれない。 論で負けることがまずない絳攸だが、それでも彼女には勝てない気がする。 勿論、そういった決着をつけるような事態に陥ったことはないから分からないが... 「もうしわけありません、 様」 彼女は紅家と深い関わりがある、紅家でない人間だときいたことがある。 紅家のことを疎んじている養父は彼女のことを詳しく教えてくれない。 そして、当主である養父の代わりに国中を飛び回っている養母もまた、彼女のことを詳しく教えてくれない。 「黎深は、まだ帰らないのか?いやぁ、あの洟垂れも勤勉になったなぁ」 全くそんなことはない。 最近は、本当に偶然たまたま奇跡が起きたため、絳攸もこうして早く家に帰ることができただけで、普段は出仕しても仕事しない養父である上司の黎深のお陰で帰宅という単語の意味を忘れてしまうような生活を送っている。 自分を含めて吏部の者全員が... 「申し訳ありません、黎深様は..その...」 「大方、逃げたんだろう。私がこの屋敷に来たことくらい、アレの影たちが報告しているだろうし」 そう言って彼女は持っている扇子をはらりと広げた。 その仕草はよく黎深もしているが、彼女のその動きは黎深のそれとまた違った威圧感がある。 「百合は、息災か?」 「え、ええ...文ではそのようにおっしゃっていました。ただ、長い間こちらに戻られておられないのですが」 「だろうな」と吐き捨てるように彼女が呟く。 「紅家の当主ともなれば、本来は多忙で大好きな兄を追いかけて勝手に紅州を出て行くことなんざ出来んさ。百合が伴侶となったからその駄々を捏ね続けられている。あの子は黎深には勿体無さ過ぎる」 彼女は百合が可愛いらしい。良く、黎深のそういうところを責めて百合を評価している。 百合と はどんな関係なのだろう。 絳攸が少し視線を落とすと彼女はそれに気づき「ああ、すまないな」と侘びた。 驚いて絳攸は顔を上げる。 「アレでもお前の父だ。本当のことでも他人に言われれば腹立たしく思うこともあるだろう。詫びておく」 絳攸は呆然と を見ている。 「何だ、その脳みそが空っぽになったような顔は。そなたは朝廷随一の文官ではないのか?それだと、あの王と同じくボケボケだぞ?」 クツクツと喉の奥で彼女が笑う。 「主上のこともご存知なのですか?!」 そこまで顔が広いとは... 「彩雲国のことで私が知らないことは何もない」 妖艶な微笑みに絳攸はゴクリとつばを飲み込んだ。その笑みは美しいが危険だと思う。 「さて、茶がなくなったな」 そう言って彼女が立ち上がる。 「あ、おかわりをお注ぎしましょう」 「座っていろ。私が淹れてやろう」 そう言って彼女は茶器に手を伸ばす。 どうしよう... 絳攸は困惑していた。 たぶん、彼女に非礼があれば色々と大変なことになるだろう。百合を可愛がっていてもそれとこれとは別だと言いかねない性格だ。 しばらく沈黙の時間続いた。 が茶を淹れてくれているのだ。声を掛けづらい。 「よし」と彼女は呟き、そして絳攸の前に茶を置いた。 「すみません」と絳攸が言うと は絳攸の前に置いた茶をすっと取り上げた。 意味が分からず困惑して絳攸は を見上げた。 「李絳攸。そなたは朝廷随一の文官だったな?最近の国試はそんなにも容易いものになったのか?それとも、周りの力があまりにも低いのか?」 の言わんとしていることが分からず、絳攸はじっと自分の発言を頭の中で再生しなおした。 そして、ひとつだけもしかしたら間違ったかもしれない単語が浮かぶ。 「...お茶を淹れてくださってありがとうございます、 様」 彼女は満足そうに微笑んで鷹揚に頷いた。 「言葉は他者に自分の考えや気持ちを伝えるかなり有効な手段だ。遣い方を間違えるなよ。それにな、『ありがとう』と『ごめんなさい』が言えない大人は評価するに値しない。誰のことを言っているか分かるか?」 イタズラっぽく笑いながらそう言って再び絳攸の前に茶を置いた。 少し、彼女への恐怖心が和らいだ。 暫く は紅邸に滞在したが、黎深は帰ってこない。 彼女に夕飯を食べていくように勧めたが、彼女はそれを断った。 「しかし、これだけ粘っても黎深は逃げ回るのだなぁ...」 帰る間際彼女が零した言葉に絳攸は目を丸くした。 「ではな、絳攸。また来る。黎深にもそのように伝えてくれ」 「はい。必ず」 「ああ、そうそう。忘れておったわ」 門の外に出た彼女はそう呟いて振り返る。 「大きくなったな、絳攸」 そう言った彼女の微笑は数刻前に見せた妖艶な、危険な香りのするそれではなく、慈愛に満ちたものだった。 絳攸は目を丸くする。 「ではな」と彼女は再びそう言って歩き出し、今度は振り返ることなく滑るように遠ざかっていった。 面食らったままその背を見送っていた絳攸は彼女の姿が見えなくなったことに気がつき、門の中へと入る。 先ほどの彼女の慈愛に満ちた笑みを思い出す。 なんだか心にじわりと暖かい気持ちが広がった。 彼女の謎は未だに解明されないが、しかし今日を境に少しだけ印象が変わった。 |
桜風
09.5.1
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