| 月の光を受けてぼんやりと白く輝く花を目にして絳攸はふと思い出した。 あれから何度目のこの季節だろう。 「あいつ、元気にしているだろうか」 零れた言葉は、懐かしさと幾許かの寂しさを孕んでおり、それが自分の耳に届いた絳攸は苦笑した。 春先は色々と忙しい。 特に絳攸の所属している吏部は人事をつかさどっており、故に春先の忙しさは尋常ではない。 春先でなくとも忙しいことは忙しいが、ほかの季節の灯ではないくらいに忙しい。 帰れないこともザラである。 まあ、忙しさの原因の多くは彼の養父であり、この部署の責任者である尚書の紅黎深が仕事をしないことにもある。 執務室に溢れんばかりに置いてある官吏たちによる『贈り物』をかき分けて室を出ようと奮闘する。 室の出入りくらいはできるように置き場所を考えていたはずだが、どうやら雪崩を起こしたらしい。 窓の外はぼんやりとした月明かりに新緑の木々が照らされている。 少し根を詰め過ぎた。 こんな時間だと思っていなかったのだ。 そういえば、友人がひょっこり顔を出した気がしなくもない。 何だったのだろうか。 万年常春頭の友人のことだ。どこかに遊びに行こうと声をかけてきたのかもしれない。 一応、彼なりの気を遣ってなのだろうが、それならなぜ花街という単語が出るのやら。 絳攸は女性嫌いである。嫌いというか苦手というか..やはり嫌いだ。 国試に主席合格をした際に、絳攸の出世を見込み、それに便乗しようとした官吏が自分の娘を嫁に、と言って追いかけまわれた絳攸はこれがきっかけに女嫌いになった。 例外はなくもないが、まあ、『女嫌い』で間違いではない。 そんな女嫌いとなったきっかけ込で絳攸のそれを知っている友人はたまにからかいを含んで花街へと誘ってくる。 非常に迷惑なのだ。 扉を開けるとふわりと甘い香りが漂ってくる。その香りはなんとなく記憶に引っかかる。 香りの元に視線を向けると茶器と皿、そして、女がいた。 「うわぁ!」 「むふぉ...!」 絳攸が驚きの声を上げ、そして女も同じように声を上げたつもりなのだろうが、彼女の口には饅頭が咥えられていた。 「おい...お前どこから...ってそれは俺のだろう!」 彼女が口にくわえている饅頭はおそらく先ほど顔を覗かせてきた友人が差し入れとしておいていったものだろう。 そうじゃないにしても、この時間に残っているのは自分だけで、そして、吏部省に置いてある差し入れなら、自分への物だとしても間違いではない。 絳攸に指摘された彼女は、口にくわえていた饅頭をがぶりと噛んで取り敢えず口から離した。 口の中に入れたそれをもぐもぐと咀嚼して嚥下し、そして、手に持った饅頭を見てしばらく何かを考え、また齧り付く。 「あ!」 思わず絳攸は声を漏らした。 確かに、そんな食べかけのものを寄越せというつもりはないが、なんというか、順番が違うだろうと思うのだ。 まず、彼女は他人への差し入れを食べてしまったことへの謝罪から入るべきだ。 そして申し訳ないが、これをもらいたいと絳攸に頼み、絳攸が了解して初めて彼女は心置きなく食することができるはずなのに、目の前の彼女は一心不乱に饅頭を完食している。 仕方ない、と絳攸は茶器に手を伸ばした。 湯を用意して、茶葉の入っている急須に注ぐ。 湯呑は二脚あった。 ということは、おそらく差し入れの饅頭も2人分あったはずなのだろう。 だが、皿の上には饅頭はない。つまり、彼女は二人前食しているのだ。 改めて彼女を見る。 身なりは悪くない。いい方だと思う。 人の饅頭を横取りした割には、彼女自身から滲み出る気品のようなものも僅かながら感じる。 後宮に勤めている女官だろうか。 だとしたら、物凄くはしたない。 基本的に、後宮勤めができる者は、貴族の出身または上流階級の娘が多い。 後宮で努めている間に王の目に留まってうまくいけば妃に迎えられることだってある。 だから、後宮の女官も中々競争率の高い就職先で、さらに言えば、高い教養を求められているので、そんじょそこらの娘が後宮女官というのは無理だ。 絳攸が茶を湯呑に注ぎはじめると、彼女もそっとその横に湯呑を置く。 盛大なため息をついてはみたが、絳攸は彼女の出した湯呑にも茶を淹れた。 「感謝しますわ」 彼女はそう言い、湯呑に手を伸ばした。 絳攸はそれに返すことなく、自分の湯呑を口に運ぶ。 「それで?」 絳攸が声をかけると彼女は首を傾げた。 「それで、とは?」 「お前は何者だ。どうしてここにいるんだ」 「んー...秘密ですわね」 可愛らしく肩を竦めて彼女が言うが、 「警備の者でも呼ぶか」 と絳攸は全くその様子を意に介すことがない。 「まあまあ」と宥めた彼女は少し困った様子を見せ、「精霊、と言ったら信じていただけますか?」と問う。 「警備の者を」 「まあ、それが妥当な反応かもしれませんね。信じるも信じないも、あなたの自由ですわ」 肩を竦めていった彼女は立ち上がる。 「名は?」 「そうですねぇ...と名乗りましょうか。では、ごきげんよう。吏部侍郎さん」 そう言って彼女はその場を離れていく。 (適当なことを...) そう思った。 だが、わざわざ後をつけてその正体を暴こうとも思わなかった。 これは決して自分が方向音痴だからというわけではなく、何か、そこまでする必要がないと思ってしまったのだ。 悪意を感じなかったというか、危険性を感じなかったというか。 ふいに絳攸の腹の虫が鳴く。 差し入れだったと思われる饅頭をくいっぱぐれた絳攸は、仕方なく、空腹のまま帰宅することにした。 |
桜風
14.8.14
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