浅い春の夜 2






 翌日、絳攸が吏部に向かっていると声をかけられて振り向く。

「昨日も遅くまで残っていたのかい?」

友人である藍楸瑛だった。

「ああ、まあ」

「では、私の差し入れはどうだった?」

期待した声音に申し訳ないと少しだけ思いながら「いや」とあいまいに答える。

「おや、美味しくなかった?」

「いや」

「では、気づかなかった?」

残念そうに楸瑛が言う。表情だけではそれはわからないが、少しだけ声の雰囲気がいつもと違うのだ。

「そうじゃない。見つけたのだが...」

「饅頭は嫌いではないよね?」

今更ながら確認する楸瑛に頷き「横取りされていたんだ」と客観的に言う。

「横取り?誰が??」

「野生の猿だ」

何とピッタリな表現。人のものだと分かっていて食べた彼女をそう表現しても罰は当たらないだろう。

「猿?そうか、山にはまだ食べられそうながないのだろうなぁ」

食べる者に困って山を下りてきた猿を気の毒がりながら楸瑛はそう呟いた。

と言ってもこの王都の中心までやってくる猿はそういないだろうと少し疑問に思ったが、根性のあるやつもいるかもしれないと考え直す。

「今日も遅いのかい?」

「おそらくな」

楸瑛の問いに絳攸は頷く。

「では、また差し入れを用意しよう。猿も昨日食べたなら今日は来ないかもしれない。何より、絳攸が猿を目撃したのなら、猿もそれが人間のものだと理解しただろうからね」

つまり、今日も人里に下りてくることはないだろうと楸瑛は思ったのだ。

普通ならそうだろうな、と絳攸は思った。

例えあれがタヌキとかキツネが化けてきた何かであっても、もういい加減警戒するだろう。

「そうだな。では、今日は花街でも人気の店の物を用意しよう」

楸瑛の言葉に絳攸は半眼になった。

「どうしたんだい?ああ、饅頭よりも花街の方が良かったかな?」

「常春頭が」

冷やかに言うと彼は満足したように笑い、「では、またね」と言って背を向けた。

「ああ、そういえば」

呼び止めるようで悪いなと思いながらも彼に聞くのがいいと思って絳攸は声をかけた。

「どうしたんだい?」

という女官を知っているか?」

「どんな方だい?」

興味津々に楸瑛が聞き返す。

「あ、えーと。何というか。白い」

「は?」

「印象だ」

「ほかには?どこの家に縁があるとか...白いってことは白家?」

「いや、そいつの印象であって家柄の印象ではない」

家柄の印象というと少し奇妙な感じもするが、彩八家となると家柄のようなものは滲み出る。

「今度珠翠殿に聞いておこう。しかし、君が女性に興味を持つ日が来るなんて思ってもみなかったよ」

からかうように言う楸瑛に「うるさい」と一喝して絳攸は背を向けた。

それを見た楸瑛は苦笑して肩を竦め、彼の所属する左羽林軍に向かって行った。

ため息を吐き、絳攸も勤め先である吏部へを足を向けた。

本人はそのつもりだったが、暫く歩いて気づく。

この先にあったのは工部だった。



絳攸が職場である吏部にたどり着いたのは、工部の建物が見えてから半時ほど経過した後の事だった。意外と早く着いた。

夜も遅くまで仕事をしている絳攸が多少遅れたとしても職場では特に何も言われなかった。

何より、最も仕事をしない者が長官である尚書なのだから誰も文句を言わない。

まあ、その尚書はやればめちゃくちゃできる人で、しかも紅家の当主ということもあり、周囲はあまり強く言えない。

絳攸は執務室に入ってため息を吐いた。

何一つ片付いていない。

予想通りであるし、さほど期待もしていなかったが、今日もまた夜遅くまでかかりそうだ。

仕方ないという言葉が頭を廻り、絳攸は納得した。

そう、仕方ないのだ。









桜風
14.8.21


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