| 気づけば外はとっぷり暮れていて。 絳攸は伸びをして椅子から立ち上がる。 体中がみしみしと何か嫌な音を立てているような印象を受けるくらい固まっていた。 ふっと息を吐いて帰宅の準備を始めた。 扉を開けると昨晩と同じ甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。 視線を下に向けるとしゃがんだ女が饅頭を口にしていた。 「またお前か」 「美味しいですわね、ここの。昨日のと味が違いますわ」 「花街御用達だそうだ」 これ見よがしのため息を吐きつつそう言う。味の違いが分かるのか。 違いが分かるほどの歴然とした差なのか、それとも... そんなこと思っている絳攸の足もとで「なるほど、これが花街の味なのですのねぇ」としみじみと少し違うと突っ込みたくなる感想を彼女は口にした。 「はい、これはあなたの分」 そう言ってまだ手を付けられていない饅頭を絳攸に向けて差し出した。 「それも俺のだ」 半眼になって絳攸は抗議した。 今回ははっきりと楸瑛から差し入れをすると聞いている。間違いないことだ。 絳攸の言葉に彼女は「え、食べかけですが...」とおずおずと自分の手にしている半分くらい食べ終わったそれを差し出そうとした。 「要るか!」 「ですよねぇ」 と満足そうに笑った彼女はかぷりとそれに齧り付く。 一口の大きさに手でちぎるとかそういうのをせずに齧り付く。 よくよく考えれば良家の息女がそんな食べ方を頭に浮かべるだろうか... 「それで。今日も抜け出してきたのか」 ため息交じりにそう言って絳攸は彼女から受け取った饅頭に齧り付く。 じゅわりと肉汁が口に広がった。美味い、と心の中で膝を打つ勢いで称賛した。 そして、 (これが花街御用達の...) と少しだけ感心してしまった。 楸瑛の言う花街は、貴陽で一・二を争う妓楼の姮娥楼のことで。つまり、当然その饅頭は逸品というわけだ。 少し喉が渇いて茶を淹れることにした。 室に入ると彼女もついてくる。 追い出そうとしたが、そこまでの気力は残っておらず、仕方ないので二人分の茶を淹れて一息つく。 「お前は何が化けた妖怪だ?」 適当な椅子に腰を下ろしている彼女に向かってそう言うと、 「藪から棒に失礼すぎますわわ、この朴念仁」 真顔で返された。 「貴陽に入り込める妖怪がいたら拝みたいものですわね」 チクリと嫌味を言われた気がした。 絳攸はため息を吐き、茶を一口飲む。 「でも、吏部侍郎さんはどうしてこんなにお茶を淹れるのが上手なのかしら」 ほうっと感動したようにため息を吐いて彼女が言う。 その言葉が心からのそれだったので思わず絳攸は照れてしまった。 ふと、月明かりに照らされた彼女を視て絳攸は首を傾げた。 おかしい、と思う。 何というか..少しだけ向こうが透けているような... しかし、彼女は先ほど言ったばかりだ。『貴陽に入り込める妖怪がいたら拝みたい』と。 つまり、それは不可能なことで。 だから、彼女がその類という可能性は除外してもいいのだろう。 もちろんそれは彼女の言を信じているわけではなく、実際に絳攸も耳にしたことがあるからだ。この貴陽には妖怪は入り込めない、と。 だからこの都は遷都しないとか何とか。 少し眉唾ものの噂ではあるがどこか納得してしまう自分もいたのだ。 「何かしら?」 首を傾げて彼女が問う。 「いや、何でもない」 「吏部侍郎さん。そろそろ帰らないと朝になるまでに家にたどり着けないのではなくて?」 彼女が言う。絳攸は思わず彼女を睨んだ。 そして、ふと思う。何故知っているのだろうか。 そう言えば、最初から彼女は自分の事を吏部侍郎と言っていた。 吏部というのは、この職場の事だからいいとして、侍郎というのは後宮に居ても分かることなのだろうか。 人相描きが出回っているなら顔でわかるかもしれないが、一応年若い部類に入ると思われる自分だ。 侍郎というのは、本来少し早い。 「お前は、なぜ俺を知っているんだ?」 彼女はニコリとほほ笑み、立ち上がる。 「私もそろそろ戻らなくては」 「後宮にか?」 絳攸の言葉に彼女は首を傾げて人差し指を口元に当てる。 「ないしょです」 そう言って背を向けた彼女が扉に手を当て、そして振り返る。 「そう言えば。私、と名乗ることにしたと申し上げたのですから。せっかくですからそう呼んでくださいな」 ぱちんと片目を閉じて彼女は言う。 その様子に絳攸は半眼を向けた。 「あら、照れてくださってよろしいのに」 「あれだけの食い意地を見せられて何を意識しろと?」 呆れたように言う絳攸の言葉に彼女はころころと笑い、 「美味しそうにご飯を食べる娘はかわいく見えるはずですのに。おかしいですわね」 と返して室を出て行った。 「まあ、澄ましてるよりはマシだな」 そう言って絳攸は自身の湯呑の残っていた茶を飲み干した。 |
桜風
14.8.28
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