嬉しい気持ち





ひんやりとした夜の空気は好きだ。昼間よりも水を多く孕むその空気は心も洗われるようで何だかすっきりする。

は宮廷内の庭院を歩いていた。

こんな時間に人は居ない。

居たらそれはきっと泥棒だ。捕まえてしまおう。

がそう思っているとガサリ、と枯葉を踏む音がした。

自分以外の誰かが居るということだ。

構えて待っていると暗闇から出てきたのは、この国で最も位の高く同時に最も頓珍漢な男だった。

霄太師に騙されては愛している女性に変な贈り物をして怒られているという話を聞いた。

けど、それはまっすぐに育った証拠だ。

「誰、だ...?」

少し緊張した声で問われた。

あーあ、と思った。見つかってしまった、と。

「ん?そなたは...」

覚悟を決めていると「そうか!そなたは最近噂に上っている朝廷に現れる幽霊だな?!」と納得顔で言われてしまった。

「えーと」と
は困った。

何年同じ敷地の中に住んでいると思っているのだろう...?

と、言っても
の存在は秘匿事項とされている。

彼女の事を知っているのは先王とその側近だった朝廷三師と歴代の後宮筆頭女官くらいのものだ。

は先王の娘だ。

そうは言うものの彼と血が繋がっているわけではなく、気まぐれに拾われた。

理由は、瞳が気に入ったからだと一度だけ聞いた。


「そうか、余..じゃない私は幽霊というものを初めて見たぞ」

彼は嬉しそうに声を掛けてきた。

「で、幽霊。そなた名を何と言うのだ?私は、紫..じゃない。劉輝だ」

一生懸命隠そうとしているが、隠しきれていない。

「...
、と呼ばれております」

そう言って猫を被って静々と頭を垂れる。

、良い名だな」

「ありがとうございます」

暫く沈黙が流れる。

このままばっくれてしあおうか。

そう思っていると「なあ、
」と劉輝に呼ばれた。

「何でしょう?」

寂しそうな弟の声に彼女は優しい声で返す。

「ちょっと、人生相談しても良いか?」

「...は?」

「い、いや。時間がないならいいのだ。用事があって化けて出てきているのだろうしな。だから、えーと。ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ余の愚痴を聞いてもらいたいというか...」

慌てて劉輝はブンブンと手を振りながらそういう。一人称が『余』といういつものクセに戻っていることにも気づかない。

はひとつ息を吐いた。

「別に、用があるわけではございません。わたくしでよろしければ」

がそういうと劉輝はぱっと明るい表情を浮かべた。

寂しがり屋の弟は、今でも寂しがり屋のようだ。だが、優しさもちゃんとなくさずに大きく育った。




「ねえ、珠翠」

「はい。何でしょう、
様」

の部屋の世話をしにやってきた後宮筆頭女官が返事をする。

「昨晩、劉輝に会ったよ」

「主上と、でございますか?」

驚いたように目を丸くする。

それもそのはず。
は、今まで劉輝に会ったことはない。

陰でこっそりと苦労をしている弟の姿を見ることは会っても面と向かって会話をしたことなんてなかった。

「名乗られたのですか?」

恐る恐る、と言った感じに彼女が問う。

はクツクツと笑った。「まさか!」と。

「本当に、名乗られるおつもりはないのですか?」

「こんな目と鼻の先に姉が居ることを知らなくてほけほえ生活してるんだから、まあ、いいんじゃないの?自分で気づけたら、嘘は言わないわ」

そう言って楽しそうな表情を浮かべた。

「左様で、ございますか」

少しだけ劉輝が気の毒に思える珠翠は歯切れ悪くそう呟いた。

「だって。..聞いてくれる?」

「はい」

「私、幽霊なんだって」

の言葉に珠翠は「...は?」と思わず聞き返して「失礼しました」と慌てる。

「それは一体どういう...」

詳しい説明を求めると
はクスクスと少し笑って、

「最近、朝廷内に幽霊が出るってもっぱらの噂なんでしょ?」

「ええ、まあ...」

珠翠は頷く。最近、部下である女官からそういう噂を耳にした。

「で、その正体がそなたであろうとか言われてさ。可笑しくて、答えないでいたら...」

は今日の出来事を話す。

珠翠は一通り聞き終わった後何だか暖かな気持ちになった。

「名乗られたらよろしいのに」

思わず口に出る。

「イヤよ」と
はそう言ってそっぽを向いた。

「だって、私があの子の姉だと自己紹介したら、きっと気を遣うわ。昨日のように呆れるくらい馬鹿正直に人生相談なんてしてくれないかもしれないじゃない。それに」

ひとつ言葉を区切る。

「今日も会うって約束しちゃったもの」

嬉しそうに
が言う。

「お約束、ですか?」

「そう。女官たちが起きる時間になっても人生相談が終わらないから、取りあえず、幽霊の私が珠翠以外の女官に見つかったらまずいでしょう?」

確かに、彼女の存在は霄太師から秘匿事項と言いつけられている。

「まあ、見つかったら女官でーすって済むかもしれないけど。でも、それじゃ、面白くないじゃない?」

の言葉に「はあ...」と曖昧に珠翠は頷いた。

「だから、『今日の晩もこちらに参りますからお休みください』って部屋に追い返したの」

嬉しそうに笑う


血が繋がっていないのに、どことなく表情が似ている。

今朝、珠翠が劉輝の部屋に行くと彼も同じ表情をしていた。

「何かあったのですか?」と聞くと「秘密なのだ」と嬉しそうに劉輝に返された。

様」と珠翠が呼ぶ。

嬉しそうに窓の外を見ていた彼女は振り返って珠翠を見た。

「ようございましたね」

珠翠の言葉に
は頷く。

こんなに嬉しい気持ちは初めてだ。









桜風
08.5.1
08.7.1(再掲)


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