果たされた約束





「よー、生きてるか?」

間抜けな声でそう聞かれた。

振り返った
は溜息と共に「お陰様で」と言葉を返した。

そして、声をかけてきた浪燕青を見上げて「でも、遅いんじゃないの?」とチクリと厭味を口にする。

その言葉に燕青は苦笑して「悪い」と短く謝罪し、仕事があるからと言ってその場を去っていった。



最初に彼に会ったのはいつだろう?

茶家へ勤めるようになって1・2年くらい経った日に偶然この屋敷で彼に会った。

何でも当主である茶鴛洵が連れてきた若者だと聞いた。

あの茶家当主が見込んだ青年だからきっととても素晴らしいのだろうと勝手に期待していた。

偶然彼がこの屋敷で独りになっているところを目にして声を掛けるともの凄く教養のない人物だと思って落胆したこともあった。

しかし、彼は嘘を吐かないまっすぐな人物であり、公平だった。

時々街中で会えば荷物持ちを買って出てくれたし、屋敷に顔を出したときにはこっそり手伝ってくれた。

「変なの」

燕青みたいな男は居ない。

この国では女性は軽んじられる場面が多い。

当主が貴陽に居るため、この屋敷はその奥方の縹英姫が取り仕切っているためか無駄にそういうことはないが。それでも全くないことでもない。

それを受け入れている女も少なくないからそういうことが世の中で通っているんだなと常々思っていた。

って、なーんか珍しいよな」

面白いものを見るような目で燕青に一度言われた。

時々屋敷の中で手伝ってくれている御礼に、稀にだが夜食を彼の執務室に届けたりしていた。

彼は食事を本当に美味しそうに口にする。その姿は見ていて何だか楽しくなる。

何度か夜食を持っていったときにそういわれた。

「珍しいって?」

「珍しいっていうか、面白いって言うか...今の世の中を良しとしてないだろう?」

「そう?」

「不満そうだ」

笑みを含んだ声で燕青が言った。

「そんなつもりないけど。あのお屋敷で働かせてもらっていることに対してとても感謝しているわ」

「いや、そういう今の
の生活じゃなくて...なんて言ったらいいんだろうな。世の中の仕組み。もの凄く大きなことに対して、気に入らないって言うか...」

燕青の言いたい事は、ぼんやりとした輪郭だが何となくわかる。

「そう、かもしれないなぁ...」

はそう呟いて空になった夜食を詰めてきた箱を風呂敷に包んで家にもって帰った。


そして、その数年後。

茶家の当主が貴陽で謀反を働いて亡くなったとの報せを受けた。

そこから茶州は激動の波に飲み込まれた。

元々安定した穏やかな土地ではなかった。

そんな中でのこの事実に茶州の民は揺れ、そして茶家にも人々の思惑が水の波紋のように静かに広がっていった。

それに乗る使用人たちも居たが、
はどうしても乗る気になれなかった。

がこの屋敷に来たとき、当主に会うことが出来た。

そのとき感じた彼の誠実さを忘れられない。

そして、仕えているのは当主の奥方だ。彼女もまっすぐで夫を心から信頼し、支えている人物だった。

だから、どんなに不利な状況に陥っても縹英姫に仕えようと心に決めていた。

「絶対、この国を想ってくれる州牧を連れて帰ってくるからな」

茶州を発つとき、燕青はそう言った。

「約束、破らないでよ」

「オレ、たぶん今まで
との約束は破ったことないと思うだけど?」

自信満々の笑みを浮かべて燕青がそう言った。

「今までは、過去の話。この約束は現在若しくは未来の話だと思うけど?」

の言葉に燕青は苦笑して「そーだな」と同意した。

「ちょっと窮屈な生活が続くと思うけど、絶対帰ってくるからな。死ぬなよ」

そう言って馬乗って、供を申し出た香鈴を連れて走り出す。


馬の姿が見えなくなるまで見送った
は「さて、と」と背を向けて屋敷に足を向けた。

燕青は自分が言ったように今まで約束を違えたことはない。

それがどんなに些細なものでもちゃんと果たしてくれていた。

勿論、仕事でどうしても都合をつけられなかったことは何度かあったが、それだって文での断りではなく自分で頭を下げに来ていた。その頭を下げに来ている間に必死に仕事をしたら片付くのではないかと思ったこともあったが、彼の補佐の役職に就いている鄭悠舜に聞いてみたところそれは無理な話らしい。

「だったら、仕事を言い訳にしたらいいのに」

そう呟いた
に悠舜は苦笑して

「それが、浪燕青という男でしょう?」

とやんわりと諭してくれた。

悠舜とその話をして以来、
は燕青に絶対的な信頼を寄せている。

だから、今回もの凄く大変な約束であることは承知だが、それでも燕青が彼の眼鏡に適った州牧を連れて帰ってきてくれると信じている。



「こんばんは」

不意に声をかけられて振り向く。

「初めまして、紅州牧。あなたを心からお待ちしておりました」

深々と頭を下げる
に秀麗は一瞬驚き、

「ありがとうございます。私に出来る精一杯の力を茶州のために尽くしたいと思います」

と凛とした声で応えた。

燕青は今回も約束を果たしてくれた。その答えが今目の前に居る。

「私にもできることがありましたがお声をかけてください」

名乗った後、
はそう言って一礼をした。









桜風
08.8.25


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