| が帰宅すると、間もなく父親も帰宅した。 珍しい、と彼女は警戒する。 大抵父親は夜中になっても帰ってこない。母親は母親で好きにやっているので、も好きにやらせてもらっている。 「、少しいいか」 ロクでもない話になりそうだ、とは溜息をつきたいのを我慢して「はい」と頷く。 家では、『ちゃんとした』令嬢であるように心がけている。 が保育士をしていることを知っている人はいない。 勿論、保育施設の理事長もの正体を知らない。 『』がありふれた名前で良かった、と心から思っていた。 「イザーク・ジュールを知っているな?」 「はい」 とは頷いた。顔は知らないが、名前くらいなら知っている。 「そうか」 と父親が満足げに頷く。 「彼が、何か?」 「実はな...」 父親の口にした言葉には唖然とした。 「お父様?」 「これは、ウチが生き残るための賭けだ」 父親が口にした言葉をは疑った。 彼に婚約の申し出をしていると言うのだ。 政治も経済もそこまで興味がないでも、自分の家の立場くらいは知っている。 「ですが、お父様。は、ジュールの敵という立ち位置ではありませんか?」 の言葉に「だから、賭けだといっている」と少し苛立たしげに父親が言った。 何せ、今このことが外に知られ、ジュールからの援助も受けられなかったらこの家は一瞬にしてぺしゃんこだ。 何故そんな賭けに出るのか、には全く分からない。 「2ヶ月後に晩餐会がある。それにお前は出なさい。毎年エザリア・ジュールが出席している。おそらく、今回は息子も連れてくるだろう。ジュールと言っても所詮は、年頃の男だ。良い様にな」 そう言って笑った父親の顔には蒼褪める。 は信じられないと首を振った。 だが、彼女がそれから逃れられる術はない。 今の職場に迷惑を掛けることは出来ない。 (晩餐会は2ヵ月後。それなら、そのときには退職しておかなきゃ...) は諦めることに慣れていた。だから、今回のことも思いのほかあっさり手放すことを選んだ。 は、そんな自分を嗤った。 その数日後、彼女は驚く。 「イザークさん?」 保育園の外に彼の姿を見たのだ。 慌てて外に出て「こんにちは」と声を掛けた。 彼は驚いたように振り返り「ああ、あんたか」と呟く。 「どうかされましたか?」 (そういえば、この人も『イザーク』という名前なんだ) は今更ながらにそのことに気が付いた。 「あの、イザークさん」 「...なんで俺の名前を知っているんだ」 少し警戒したように彼が言う。 「あ、えと。この間、うちの子を助けてくださったとき、お友達に名前を呼ばれませんでしたか?」 の言葉に彼はそうだったと気がついたように頷いた。 「そういえば、そうだな」 ホッとしたように彼が言う。 「あの、失礼ですけど。お名前を伺ってもいいですか?」 「イザークだと知っていたじゃないか」 「あ、いえ。ファミリーネームの方は...」 遠慮がちに聞いてきた彼女にイザークは咄嗟に「『マッケンジー』だ」と友人のファミリーネームを名乗った。 何故彼女が自分のファミリーネームを問うてきたかは分からない。 だが、それはつまり。 (俺のことは知らないんだろう...) イザークはもう少しだけ彼女を観察したいと考えていた。あの資産家の娘が何故こんなところで保育士をしていたのか。 何故、保育士なのか。 家で大人しく過ごしていても不自由することがないだろうに。何故、こんな重労働をしているのかわからない。 それ故、興味を持ったのだが... そして、イザークはふと気がついた。 「俺のほうも、名前を聞いていいだろうか」 知っているが彼女自身から聞いていない。 「あ、そうですね。失礼しました。・です」 彼女は隠すつもりがないらしい。 まあ、珍しい名前ではないからそうなのだろう。経済に興味を持っていなければ会社の代表者の名前なんて知らない人のほうが多いだろうし、何より、その裏の政治的駆け引きなんてものは普通、一般的に知られず水面下で行われるものだ。 「、か。綺麗な名だな」 イザークの言葉には微笑んだ。 「ありがとうございます」 その笑顔にイザークは一瞬息を詰まらせた。 思わずげふんごほんと咽るとは慌てて「大丈夫ですか」と優しく背を擦る。 「あ、ああ。大丈夫だ。すまない」 そう言ってやんわりと彼女の手を押して離させたイザークは「ちょっと近くを通ったから。この辺の保育施設はここしかないからな」とここに来た理由を口にした。 「そうですね。よかったらまた寄ってください。そういえば、先日のお礼もしていません」 「...ああ、そうだな。それは、また今度。今日は仕事の邪魔をしてすまなかった」 イザークはそう言って逃げるようにその場を去っていった。 |
桜風
12.8.13
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