| 牧と約束の日、寝不足のは正直酷い顔をしていた。 水族館最寄り駅の待ち合わせ場所には早めに向かったが、それ以上に牧が早く来ていた。 「...どうした、」 「いえ...」 「調子が悪いなら...」 牧が気遣うが 「大丈夫です!」 と言葉を遮るように彼女は返した。 「そうか...」 「行きましょう!」 がそう言って歩き出そうとした。 「そうだな」と言いながら牧が彼女の手を取る。 驚いたようには顔を上げた。 「ダメか?」 「いいえ!凄くいいです」 変な返事をしてしまった。 は恐縮し、牧は苦笑する。 「凄くいいか。なら、今日はこのままだな」 そう言って、いつもよりもゆっくり歩く。 の体調が悪いなら、と気遣ったのだ。 それに気付いては俯いて目を細める。幸せ者だ。 水族館の中でははしゃぎまくった。 いつの間にか今日はこのままと言った手は離れ、その分自由になった彼女は目を輝かせて展示ケースの前に駆け寄り「牧さん!」と彼を嬉しそうに呼ぶ。 その表情を見てしまうとその手を掴んで自由を与えないという選択肢はもうない。 牧はゆったりと歩きながらはしゃく彼女の背中を見つめた。 「」と口の中で呟く。 途端にぞわわと粟立った。 結構恥ずかしいものだ。 1年半の付き合いの形を変えるのは、中々難しい。 昼時になり、水族館内のレストランで食事を摂った。 水族館で魚を食べる。 「...水槽の子ですかね」 「さすがに、それはないだろう」 牧が苦笑しつつそう応じた。 2人とも食事に満足し、引き続き水族館の中を楽しむ。 が全ての展示をじっくりと時間を掛けてみるので、まだ半分くらい残っている。 「牧さん、退屈ですか?」 が牧のそばにやってきて心配そうに見上げてきた。 「いや。楽しいよ」 「よかった」と言って彼女はまた展示ケースの前に向かって行った。 表情がくるくると変わるを見るのは楽しい。 今まで彼女の私服は見たことが無かった。 大抵制服、時々ジャージ。 だから、今日の彼女の姿は新鮮で、ただ少し気になることがある。 (スカートはもう少し長いほうが良いんじゃないか?) 可愛いと思う。 赤を基調としたチェックのプリーツのスカート。 ただ、時々すれ違った男が彼女の足元を見ているのが心から気に入らない。 その男達に向かって「俺のだ」と何度言いそうになったことか。 が水族館に満足したのは夕方と呼ぶには少し早い時間だった。 「どうする?どこか行きたい場所はあるか」 牧が問うと 「海に行きたいです」 がそう言う。 今、海みたいなものを見たと言うのに... 「海か?」 「あ、寒いからダメですか」 「いや、俺は大丈夫だが...」 が行きたいと言うなら、と牧も応じることにした。 誰もいない浜辺を並んで歩く。 海側を牧が歩き、なるべくに海風が当たらないように気遣った。 「牧さん」 「何だ?」 意を決した要に名前を呼ばれて牧は面くらう。 「いつ渡したらいいのか分からなかったんで、今になったんですけど...」 そう言ってが鞄の中からさらに小さな紙袋を取り出した。 「なんだ?」 「今日、バレンタインデーなんです」 言われてやっと気がついた。 「そうか...」 「それで、作ってみました。味見したので、大丈夫だと思います」 そう言っては思いつめたように牧を見上げる。 (だから...) おそらく、これを夜遅くまで作っていたのだろう。今朝の体調不良のように見えたのは、寝不足から来るものだったのだ。 「ありがとう。開けてもいいか」 「え、いや。おうちに帰ってから...」 そんなことを言われたらますます今開けたくなる。 が止めるのを気にせずに牧は袋からそれを取り出した。 包みを開けて瞠目する。 『紳一さんへ』と白い文字が書いてある。 に視線を滑らせると彼女はこれ以上に無いくらい赤くなっている。 「え、えと...」 勝手に名前にしたのはまずかっただろうかと慌てているに 「ありがとう、」 と牧が返す。 ぺたんとが崩れた。 どこかで見た光景だな、と思いながら牧は膝を折って彼女の視線に自分のそれを合わせた。 「名前で呼んでも良いんだろう?」 「は、はい!」 の返事に牧は満足そうに頷き、「俺のことも、ちゃんと名前で呼ぶんだぞ」と言う。 彼女は口をパクパクとしたが、意を決したようにコクリと頷いた。 「さ、少し冷えた。どこかに入ろう」 「は...はい!」 牧の差し出した手を握ったは力強く引っ張られた。そのまま手を繋いで、海岸線沿いに見えるカフェに向かった。 |
桜風
12.12.26
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