32. それは息をするのと同じ





生まれたときから馴染みのあるもので、物心ついたときには目標だった。

ワセリンと汗の匂い。

腹に響く音。

此処にある全てが当たり前にあった。


誰かを傷つけるために握る拳ではなく、自分と闘うための拳。



「わ、と」

玄関を開けると目の前に立っていたが声を漏らした。

「ああ、悪い」

「うん、一郎が悪い」

笑いながらが言う。

「俺も悪いが、も悪い。ボケッとひとんちの前に立ってんなよ」

そう返すとはぶすっと膨れる。

相変わらずの頬袋だ。両手で挟んで潰すとは笑った。

「これから練習?」

「ああ」

そういや、何か用事があって此処に来たはずだ。

「どうした?」

「ああ、おすそ分け」

そう言って小ぶりなどんぶりを軽く掲げる。

「いつも悪いな。おばさんに礼を言っておいてくれ」

どんぶりを受け取りながらそう返すと「ふっふっふ」とが笑う。

「何だ?」

「それ、お母さんの作品じゃないの」

「帰りに胃薬を買って帰らなきゃな...」

「何だと!」とが拳を振り上げ、ひょいと避けると悔しそうに俺を睨んだ。

「ま、胃薬の世話にならないことを祈っておくよ」

軽くそう言うと

「明日、両膝をついて掌を合わせて『ありがとう、』って言っても知らないよ」

とムキになったが言う。

「それはないな」

そう返して家の中に戻る。

冷蔵庫にどんぶりを突っ込んで家を出るとまだが立っていた。

「まだ何かあるのかよ?」

「ううん、頑張ってねーって言おうと思って」

そんなことを言われて苦笑する。

の頑張っては結構力が抜ける。

「ああ」と返してジムに向かった。


今の平和な世の中、自分の拳を誰かを守るために使うってのは中々ないだろうけど。

けど、俺はやっぱり思うときがある。

これで..俺の拳であいつを守ることが出来るだろうか、と。

守りたいものがあれば強くなれると言うけど、その逆も聞いたことがある。

あいつは俺みたいにボクシングをしてないのに、強いと思うし、時々自分が守られているかのような錯覚に陥るときもある。

あながち、錯覚でもないだろうが。

当たり前にあるものが当たり前の形のまま傍にあり続けるのは難しいことかもしれないけど。

それでもやっぱりその当たり前は俺にとって大切なものだったりもする。



翌朝、インターホンが鳴り、玄関を開けるとが立っていた。

「どうだった?」

目を輝かせて言うに「まだまだおばさんにゃ勝てないな」と返しておいた。

もちろん、膨れたの頬はいつものように潰したのは言うまでもない。









桜風
11.11.1