| とんとんとんと軽快な音が部屋の中に響く。 ふいに背後からにょきっと手が伸びてきてその音が止まった。 「危ないっスよ、さん」 包丁をまな板の上に置いて黄瀬は体をひねった。 「なんで涼太が当然のようにうちの台所に立ってんのよ」 にょきっと手を伸ばしてきた彼女はぎゅっと黄瀬に抱き着く。 「俺、腹減っちゃったんスもん」 「私も減ってる」 「んじゃ、問題ないじゃないっスか」 どうも納得いかないようで、彼女はぐりぐりと黄瀬の腰のあたりにぐりぐりと頭を押し付けている。 「くすぐったいよ、さん」 言いながら彼女の手をほどき、黄瀬はくるりと振り返った。再び彼女の腕を自分の体に回して今度は黄瀬も抱きしめる。 「どうしたんスか」 「どうもしない」 「メイク、落とさなくていいんスか」 「涼太がいるからやだ」 「なんでー。スッキリしたいんじゃない?」 「やだ。すっぴんは不細工だから」 「誰がそんなこと言ったんスか。俺がびしっと文句を言ってやるっス」 「お母さん」 「……」 「お母さん。電話しようか?びしっと言う?」 繰り返し言われて黄瀬はうなだれた。これにはびしっと文句は言いづらい。 そんな反応にはクスリと笑った。 「何スか?」 自分が笑われたのは明らかなことで、黄瀬は憮然として問う。 「いいねぇ、かわいいねー」 「かわいいはいやだっていってるじゃん。意地悪っスねー」 「意地悪だよー。八つ当たりだよー」 大抵彼女が甘えるときは仕事で疲れているときだと知っている黄瀬は、だから甘やかす。 「お仕事大変っスか?」 「いわなーい」 「言ってくれていいのに。愚痴くらいなら聞くよ」 「やだー。子供に愚痴るなんてみっともない」 「もー!それ禁句。俺、すごく気にしてるんスからね」 ぶーと頬を膨らませて抗議する黄瀬には目を細めた。 黄瀬の腰に回している腕をほどいて彼の頬に向けて伸ばす。 「ぶっ」と音がした。彼女が黄瀬の頬を潰したのだ。 「まあまあ。もうちょっとしたらかっこいいオトナの男になるんでしょ?」 「今がいい」 「ははっ、ムリムリ。今のうちしかないんだから青春楽しんじゃいなって」 軽やかに笑う彼女に黄瀬は少しだけ表情を柔らかくする。 笑った、と。 ふいに腹の虫が鳴る。黄瀬のではなくて、の。 彼女は恥ずかしげに俯き、黄瀬は「ははっ」と笑った。 「笑うなー」 「じゃあ、さんは待ってて。俺がおいしい物作ってあげるから。今からアピールしとくっスよ」 「何の?」 「何でしょう?」 とぼけた黄瀬にも肩を竦めて応じる。 「まあ、いいや。早くねー。おなかすいた」 「腹の虫が鳴くくらいだもんね」 「それを言うな!」 「はいはい」と返事をして黄瀬はに背を向けた。 「涼太」 「んー?」 「ありがと」 「……どういたしまして!」 にぱっと笑って黄瀬は鼻歌を歌い始める。 とんとんとんと規則的な、先ほどよりも少し軽やかな包丁の音が部屋に響き始めた。 |
桜風
16.2.5
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