めぐり逢ひて 1







 「お世話になりました」

わたしは頭を下げた。そんなわたしにみんなが声を掛けてくれる。

「元気でね」「病には気をつけろ」「食事をちゃんと摂るんだよ」

ひとつひとつに頷き、そして最後、扉を閉める。

こんなに重かっただろうか。

扉の隙間からは、駆けだそうとしている弟を捕まえている姿が見える。

俯いて、雫を零している人もいた。

「さようなら」

震える声で発した言葉が果たして彼らに届いただろうか。

わたしの見ていた幸せな夢は、こうして覚めた。



◆◇



目覚ましが鳴って慌てて飛び起きる。

真新しい制服に袖を通して髪を梳かし、リビングに向かった。

「おはよう」

「おはよう。入学式早々に遅刻かと思ったわよ」

笑いながらキッチンの母が言う。

「さすがにそれは...」

笑って彼女が返した。

朝食を終えて彼女は真新しいリュックを背負う。

先日入学祝に買ってもらったお気に入りのものだ。


「じゃあ、後でね」

母に言われて「はーい、行ってきます」と彼女は頷いて玄関を出た。

エレベータで1階に降りて駐輪場に向かう。

昨日きれいに磨いた自転車が高校生活初日の登校をサポートするために待っていた。

「よし」

そう呟いて彼女は自転車にまたがる。

ペダルをこいでグングン進んでいく。



彼女が通う高校は、中学から大学までの一貫校となっている。

しかし、彼女は高校からの途中入学者だ。数は少ないが、外部入学もできる。

何とか受験勉強を頑張って合格を手にした。

両親が喜んでくれた。

入学式に絶対に行くと息巻いていた父親は、この4月から転勤となった。

彼女が一所懸命勉強して入学の権利を勝ち取ったのを知っている父親は、迷わず単身赴任を選んだ。

入学式に行けないことを悔やみながら新しい勤務地に向かった父を見送ったのは1週間前の話。

自転車通学は学校にすでに申請しており、ステッカーも届いているので、それが許可証だ。

駐輪場の場所ももうチェック済みである。

彼女はまっすぐ学校に向かっていた。

ふと、何気なく向こうからやってくるバスに意識が向いた。

バス停は大学の正門前にある。

大学の正門は先ほど通り過ぎた。だから、すれ違うだけのバスだ。

窓際に座っている男の人と目があった。

向こうは非常に驚いたように目を丸くしている。思わぬところで知り合いに遭ったような、そんな表情だった。

(誰だろう...)

引っかかっている。自分の知っている人のような気がする。

だが、思い出せない。似た誰かなのかもしれない。

高等部の正門が見えてきた。

(よっし!)

気合を入れて正門をくぐる。

高校生活が始まった。



入学式では、理事長や校長の挨拶があり、生徒会長が在校生代表として挨拶をする。

壇上に上がった生徒会長は涼やかな目をして新入生を見渡した。

『あるじ』

マイクを通してはっきり聞こえた単語は“主”だった。

講堂の空気がざわめく中、生徒会長は慌てて咳払いをし、原稿を見ずに在校生の挨拶をする。

落ち着いた声はどこか聞きなれたもののようで、安心した。

「主」と彼が呟いた時、何故か自分が呼ばれたと思った。自分の名前や身分から考えても当てはまるはずはなく、生徒会長を見るのだって初めてだ。主などと呼ばれるはずがない。

入学式が終わり、教室に移動した。

出席番号順に自己紹介をする。

自分の口から出てくる経歴は、どこか薄っぺらく、誰かに用意されたもののようで気持ちが悪かった。

その気持ちの悪さ、違和感は実は起きた時からあった。

ベッドに寝ていたこと。

壁に掛けてあった制服に何気なく手を伸ばしてみたものの、本当は違う服を着るはずなのではと思った。

リビングに向かいながら、手が空いている事にも違和感を覚えた。

何かが違うと思った。


学校行事が終わり、駐輪場に向かう。

自転車に跨り、彼女は学校近くの複合スーパーに向かった。

駐輪場に自転車を置く。

特に用事はないが、何となく寄り道がしたかった。

いつかは友達と寄り道をするようになるのだろうか。

おやつを探していると突然腕を掴まれた。

息が止まる。

驚いて自分の腕を掴んでいる人の顔を見上げた。

整った顔をした男だった。人生初のナンパか、と思った。

腕を掴んでいる男も何故か驚いている。

「あ、ごめん...知り合いに..大切な人に凄く似ていたから...」

バツが悪そうに彼が言う。柔らかい声だ。聞き覚えがあるような気がした。

あの生徒会長に感じたものと同じ懐かしさだ。

ふと、自然に頭に浮かんだ名前があった。

「燭台切さん」

目の前の男が瞠目した。

その瞳から大粒の涙が零れてくる。

「主」

そう言って彼は彼女を抱きしめた。

はらはらと涙をこぼし、ぎゅっと抱きしめる。

周囲を歩いていた買い物客たちは足を止めて物珍しそうに遠目から眺める。

「燭台切さん、ちょっと、あの...周囲の目という」

彼女が訴えると彼はそっと彼女を解放した。

「ああ、そうだね。ごめん」

彼女にハンカチを差し出されて彼は照れ笑いを浮かべる。

「せっかくの再会なのに、かっこ悪いな」

素直にハンカチを受け取って彼は涙をぬぐった。

「洗って返すよ」

「いえ、そのままでいいですよ」

彼女が言うが

「また会える口実がほしいからね」

と言われて彼女は眉を上げた。

「そういえば、燭台切さんはなんでこんなところに...えっと、また誰かに呼び出された、とか。あれ?でも...」

彼女が首を傾げながら混乱している。

「そうだね、ちょっと話をしないとね。僕の住まいはここに近くなんだ。主はどうやってここに来たんだい?」

「自転車です」

「じゃあ、駐輪場に行こう。あ、ちょっと待っててくれる?」

そう言って燭台切はその場から離れた。荷物を見ていてくれと言われたので、大人しくそこに待機する。

(付喪神さんって、自由に人の形がとれるようになったのかな...)

歴史修正主義者の企てを阻止し、彼女は審神者としての任を解かれた。

彼らとはあの城でお別れしたはずだ。

本来なら、自分が元の場所に皆を戻さなくてはならなかったが、彼らが見送りたいと言ってくれた。

時の政府はそれを了承し、彼女の住まいだった城を何らかの術で解くことで彼らも元の場所に戻すという事になった。

だから、彼らの見送りを受けて自分は時代に戻った。

そこまで思い出して彼女はハッとする。

「何で...」

「主、お待たせ。行こうか」

声を掛けてきた燭台切の手には、ケーキショップのロゴの入ったビニール袋が提げられている。

「燭台切さん」

「ん?」

「何で、わたしはここにいるんですか?」

「うん、それを話すよ。少し長くなるし、落ち着いて話がしたいから場所を変えようね」

そう言って燭台切は先ほど自分が持っていた買い物袋を持って彼女に視線を向ける。

「...はい」

彼女は頷き、燭台切と共にスーパーを後にした。



◆◇



「長谷部、どうした?」

声を掛けられて緩慢な動作で彼は視線を向ける。

「こ、コンタクトがずれたか。少し休憩するか」

執成しているのは自分の友人で会計の者だ。

今は生徒会役員の会議中だ。

だが、頭に甦った記憶に、長谷部は知らず涙を流していた。

(やっと...)

この姿を得てからというもの、ずっと虚無感があった。

何処か何か足りない。

自分が此処にいる意味に辿り着いていなかった。そんな感じだ。

子供が駄々を捏ねているような、そんな感覚だったから誰にも話したことがなかった。

「すまない、少し席を外す」

「おう、10分休憩な」

頷いて長谷部は生徒会室を後にした。

「へし切長谷部」

呼ばれて彼は振り返った。

「お前...」

「ああ、やっぱり君もか」

そこに居た者は、遙か昔に背中を預けて戦場を駆けた仲間だった。

「主、僕たちの事を思い出したんだね」

「ああ...」

「今日、入学式で君が“主”って呟いたのを聞いて何か引っかかったんだ。
主、居たんだ?」

「居られた。主だったんだ...」

噛みしめるように長谷部が言う。

「明日1年生のクラス、全部見て回るの?」

「ああ、そうする」

頷く長谷部に彼はため息を吐く。

「くれぐれも“主”って呼んじゃダメだからね」

「極力努力する」

「じゃあ、僕は君が主を見つけたら主に会いに行こうかな」

「教えると思うか」

「分かると思うからね」

彼はそう言って軽く手を挙げていなくなる。

(主...)

最後に見たのは泣きそうだった彼女の顔だった。泣きそうなのに笑顔を浮かべて。

いつも健気だった。優しくて、愛らしくて。しかし、時折こちらが戦慄するような表情を見せる。

彼女に仕えることが自分の誇りだった。

「長谷部?」

生徒会室から顔を覗かせて会計が声を掛ける。

「ああ、今行く」



◆◇



「ご家庭をお持ちですかー」

彼女は目の前の家を見上げていう。かなり立派な建物だ。

「いや、違うよ。ここは僕の住まいだけど、僕の家じゃないから」

若干慌ててそう言いながら燭台切は彼女の自転車を玄関脇に置いた。

スーパーからは燭台切が自転車を押した。

荷物も持つと言われたが、彼女の荷物は背中に背負っているリュックくらいのものだ。

持ってもらうほどではなかったので断り、自転車の籠に彼の買い物を入れるように勧めた。

彼が後で購入したケーキは、彼女が持った。

自転車のハンドルを持ちながらそれも持つのは難しいだろうと彼女が申し出たのだ。

燭台切は渋ったが、頷いた。

そして、ここに辿り着いたのだ。

「今ね、ここはシェアハウスしてるんだ」

「日本で珍しいですね」

彼女が言うと燭台切は頷く。

「元々老婦人が持っていた家なんだけどね。息子は転勤族でこの家を手入れできない。
でも、孫が落ち着ける場所があればいいという事で、何としても残したいって思われたらしい。
僕がお世話になっている人がその老婦人と知り合いで、僕は寮を出なくてはならなかったから、ちょうどここに住むことにしたんだよ。広さの割に安かったし」

そう言って鍵を開けた燭台切がドアを支えて「どうぞ」と彼女を促す。

「おじゃまします」

そう言って家に入る。

玄関も広い。

「ああ、まだ誰も帰ってないね」

がらんと広い玄関を見て燭台切が言う。

靴を脱いで通されたのはリビングだ。

「他の人が帰ってきたとき、わたしがいても大丈夫ですか?気分を害されるとかないですか?」

「大丈夫だよ。...主が大丈夫じゃないかもしれないけど」

どういうことだろう、と首を傾げたが燭台切に迷惑がかからないようなので、取り敢えず彼女は安心することにした。


燭台切はスーパーの食材を冷蔵庫にしまい、「主、コーヒーと紅茶ならどちらが良い?」と声を掛けてくる。

「紅茶で」

「チョコレートは平気?」

そう言って、先に確認しておけばよかったと呟く。

「大好きです」

「良かった」と頷いた彼はケトルを火にかける。

少しして、なんだか高そうな紅茶の香りがしてきた。

「お待たせ。ミルクとレモンどっちがいいかわからなかったから」

両方用意してあった。

「さて、ケーキを食べよう」

「そろそろ、教えてください」

ちゃっかりフォークを構えながら彼女が言う。

「うん、そうだね。
...僕たちは付喪神を辞めたんだ」

「...そう簡単にやめられることなんですか?」

「主は、怒るかもしれなけど。いや、悲しむかな...僕たちは、主の希望を叶えるために存在していた。主は、歴史改変主義者の企てを阻止して、そして、僕たちと「さよなら」を言ってお別れをするのが、希望だったよね。夢というには、寂しいからその表現はしないけど」

燭台切の言葉に彼女は頷く。

「だから、君と「さよなら」と言ってお別れをした。僕たちの目的はここで果たされたんだ。
正直、僕たちは君の上司、お上にはいい思いを抱いていない。君を利用して悲しい思いをたくさんさせた。辛い思いも痛い思いをもたくさん君はしてきた。
それなのに、用が無くなったら監禁だなんて僕たちは承服できなかった。
だから、僕たちは神を辞めた。人となって転生する道を選んだ」

「ちょっと待ってください。転生って..選んだって?」

「末席とはいえ、神様だったからね。不思議な力は持っていた。それを全部使ったんだ。
その代償に、記憶の封印と転生だから、もしかしたら君に会えないかもしれないという..ある意味賭けではあったね」

「わたしに会えないかもしれないって...」

「僕たちは君の側に居たかったんだ。だから、その道を選んだ。ただ、神社に奉納されていた大太刀のみんなは、神であり続けることを選んだけどね。さすがに、自分たちは無理だって」

「...歴史が、かわってしまった?」

彼女が問う。

燭台切は俯いて「うん」と返事をする。

「この世界に、燭台切光忠という太刀はない。へし切長谷部も、小狐丸も、大倶利伽羅も」

燭台切が言う。

「そうですか」

沈んだ声で彼女が言う。

「ごめん」と燭台切は謝罪の言葉を口にした。

「いいえ」と彼女は首を横に振る。

「では、今の燭台切さんは何というお名前なんですか?」

「僕は..長船光忠...だよ」

「刀匠ですね。というか、燭台切光忠を打った方の名前がそれではなかったですか?」

彼女の指摘に燭台切は頭を抱えた。

「だよね。僕は、僕を作った人の名前を名乗っているんだよね!」

「長船光忠さんは、この世界に存在していますか?刀匠の」

「うん。僕..燭台切光忠がないだけだよ。本能寺の変もあったし、秀吉の朝鮮出兵、大阪夏の陣もあった。黒船来襲、大政奉還も」

「つまり、刀が他の、わたしの知っている皆さんではない状態で歴史はそのままだった?」

「細かいところを言えば、やっぱり違うからちょっとずつずれのようなものはあるかもしれない。大筋は、変わっていないと思う」

「そうですか」と彼女は相槌を打った。

「主は?主は..どうなったの?」

「わたしは...」

何から話したらいいのかわからない。

ただ、納得はした。歴史が変わったのだ。

「わたしは、たぶん..改変された歴史にスライドした形になるんだと思います」

「スライド?」

燭台切が問う。

「はい。わたしの頭の中には、わたしがこの年になるまでに歩んだ道があります。でも、それは何処か他人事のような、誰かに用意されたもののように感じていました。
だから、今燭台切さんの話を聞いて、納得しました」

「...君に嫌な思いをさせてしまっただろうか」

覗うように燭台切が言う。

「今は混乱しているので、まだ実感がわかないという感じです。でも、また燭台切さんに会えたのは嬉しいです」

そう言ってほほ笑む彼女を見て燭台切は眉尻を下げた。

「うん、ありがとう」

ふとテーブルに視線を向けると紅茶が冷め切っている。

「淹れなおそうね」

燭台切が言うが、彼女が止めた。

「わたし、猫舌です」

「そうだった?」

「...そういう設定になったみたいです」

「そう。君にも、迷惑かけてしまってるみたいだね」

「いいえ、この程度。大丈夫ですよ。世の中には猫舌の人はたくさんいますよ」

そう言って彼女は紅茶を飲む。

「そういえば、君の名前は以前と同じなのかな?」

彼女の臣下で唯一それを知っているのは彼だけだ。

しかし、彼女は首を横に振った。

「違います。今は」

名乗ろうとしたところで、玄関の鍵が乱暴にあけられている音がした。

「燭台切さん...」

不安そうに彼女が名を呼ぶ。

「大丈夫だよ」

少し警戒をしながら様子を見ていた燭台切はリビングのドアが開いた瞬間「やっぱり」と呟く。

「燭台切!ぬしさまが!!ぬしさまがこの時代におられる!!」

リビングに飛び込んできたのは、元刀剣の付喪神だ。

「...小狐丸さん?」

“ぬしさま”と呼んでいたのは彼だ。燭台切ほど付喪神であった頃の姿とリンクしない。

「あ...」

声を聴いて彼女を見た彼は、呆然と立ち尽くし、そして大粒の涙を流す。

「ぬしさま!」

そう言って彼は彼女に抱きついた。

「こら、ギン君。女子高生に抱きつかない」

燭台切が制止するが、彼は聞く気がなさそうだ。

「ギン?」

「今の小狐丸君の芸名。本名で呼んだら文句を言うから」

「芸名?芸能人さんなんですか?」

自分の腰に抱きついてわんわん泣いている小狐丸を見下ろして彼女が問う。

「モデルをいたしております」

顔を上げて彼が答えた。

「...それって、いつもの口調ですか?」

今の時代だと古風に感じる。

「いいえ。しかし、ぬしさまにお会いできて、私は...」

そう言って腰にぎゅっと抱きつく。

「主、蹴ってもいいんだよ」

「苦しくなったら考えます」

苦笑してそう返す。

彼女は腰に小狐丸が抱きついているのにもかかわらず、ケーキを一口大に切って口に運ぶ。

「美味しいですね。ここの、良く買うんですか?」

「たまにだよ。でも、今日は主がいるからね」

そう言った燭台切は「ギン君、コーヒー淹れてあげるから、一緒に食べよう」と誘う。

「ぬしさま、いつまでこの家におられるのですか?」

そう言われて彼女は時計を見た。

「あ、えと。ケーキを頂いたら、もう帰らなきゃ...」

気が付くともう6時になる。

親が心配する。

「そういえば、燭台切さんはなんでわたしが高校生だってわかったんですか?」

先ほど“女子高生”と言っていた。

「生徒会長と知り合いだからね」

「...長谷部さん?」

「うん、そうだよ。長谷部君のクラス写真とか見せてもらって制服を知ってたからね」

「ぬしさま、ぬしさまは今おいくつでおられますか?」

「今日、高校の入学式でした」

「なんと!おめでとうございます。長谷部と同じ学校というのは聊か、いや、甚だ気に入りませんが...」

「外部入学かい?」

そう言いながら燭台切が戻ってきた。

コーヒーとケーキがある。

「はい。何だか、当時のわたしは頑張ったという事になってます」

苦笑していう彼女に燭台切は少しだけ悲しげに睫毛を伏せた。



帰宅すると玄関脇に知らない自転車があった。

(新しく買ったのか?)

そう考えたが、彼らはそれぞれ足があるし、それを使わないときは歩きだ。

玄関を開けて「ただいま」と言う。返事がない。

見慣れない小さなスニーカーがあった。自転車はこのスニーカーの持ち主のものなのだろう。

自分以外の誰かの客か、と思った。しかし、彼らの交友関係を考えればスニーカーでやってくる者は居ない気がした。

(しかし、縁があるというべきか...)

記憶がよみがえると、今この家に住んでいる者全員が過去、同じ城で過ごしていた者たちだったと知る。

「ただいま」

リビングのドアを開けた。長谷部はこれ以上ないくらい目を見開く。

「あるじ」

呟いて膝をついた。

「え、長谷部さん?」

彼女は慌てて立ち上がり、彼の元に向かった。

膝をついて顔を覗きこむ。

「長谷部さん、大丈夫ですか?」

「主!」

そう言って彼が彼女を抱きしめた。

「離れろ!」と小狐丸が、「長谷部君、ちょっと落ち着きなって」と自分を棚に上げる燭台切がそれぞれ声を掛けた。

「長谷部さん、ちょっと離してください」

目いっぱい抱きしめられるとさすがに彼女もつらい。

「申し訳ございません」

恭しく頭を下げる長谷部は、相変わらずの長谷部だ。

「ぬしさま、大丈夫ですか」

そう言いながら小狐丸が彼女を抱き上げた。

「長谷部君、ケーキがあるよ。お茶にしよう」

燭台切にそう言われて長谷部は頷き、「御前失礼します」と言ってリビングを出て行く。

「大丈夫かい?」

「まあ、はい。熱烈歓迎は3人目ですし」

彼女がそういうと燭台切は視線を逸らした。

最初の熱烈歓迎は自分だ。


間もなく着替えた長谷部が戻ってきた。

紅茶を一口飲み、「先ほどは取り乱して申し訳ありません」と頭を下げる。

「ああ、いえ。...慣れました」

「主は、適応能力高いよね」

誤魔化すように燭台切が言う。

「それで、さっき話の途中だったんだけど。主の今の名前は何というんだい?」

「“”です」

「なんと美しい響きでしょう」

隣に座っている小狐丸が声を上げた。

「そうですか?」

困ったようにが言う。まだしっくりきていないのだ。

「長谷部さんは?」

「俺ですか?俺は、長谷部信重と言います」

「...織田信長さんと長谷部国重さんの合体って感じですね」

「まあ、そこの刀匠そのままに比べれば」

半笑いで長谷部はそう言った。

「やめて!」

頭を抱えて燭台切が言う。

そうしては小狐丸を見た。

「私は申せませぬ」

心底嫌っているらしい。

「でも、長谷部さんが長谷部さんでよかったです」

の言葉に長谷部が「恐縮です」と言う。

「どうしてだい?」

「長谷部さんが今更別の名字なってたら、わたし、呼べませんよ」

「お好きなように呼んでください」

長谷部の言葉に「そういうわけにはいきません」と彼女が言う。

彼は心底不思議そうに首を傾げる。

「先輩と後輩ですよ。しかも、生徒会長さん」

「ええ、俺は構いません」

どうしよう、とは助け舟を求めて燭台切を見た。

「そういうわけにはいかないでしょう。主が学校でいじめられてもいいのかい?」

「主を?いじめる?俺が成敗して見せますよ」

優しく微笑まれて困った。

「えーと、とにかく。まず、長谷部さん。学校で“主”って呼んではいけませんからね」

「では、なんとお呼びすれば?」

「...名字?」

「では、様と」

「できれば、呼び捨てかなー?」

困ったように彼女が言う。

「じゃあ、僕はちゃんって呼ぶね」

「私もちゃんとお呼びしてもよろしいでしょうか」

「構いませんよ。燭台切さんは長船さんですか?」

の確認に「...光忠の方で」と言われた。刀派を名乗るのは少し抵抗があるらしい。

「わかりました。小狐丸さんは、ギンさんですね」

「はい、お願いいたします」

「そういえば、僕が主に逢った最初なのかい?」

燭台切が問う。

「そうですね」と彼女が言いかけて言葉を飲んだ。

「歌仙さん...」

(またか)

(本当、彼は引きが強いね)

(邪魔だ)

などと彼らの心の声は届かず、「そうだ、歌仙さんだ」と彼女は納得した。

「話はしなかったのかい?」

燭台切が問う。

「はい。歌仙さんはバスで、わたしは自転車ですれ違っただけでしたから」

「バスですか?隣の大学なのかもしれませんね」

長谷部が思案しながら言う。

「たぶん、そうだと思います」

彼女が頷く。

「じゃあ、近々高等部に来るかもね」

燭台切が言うと彼女は「そうですね」と同意する。


ふいにどこかからか音楽が聞こえてきた。

「主、リュックから聞こえるよ」

燭台切が言う。

「え?あ、まさか!!」

そう言って彼女はリュックの中からスマホを取り出した。

しかし、彼女は固まって動かない。

「通話ボタン押して。これだね」

「はい」

ボタンを押して電話に応じる。帰るのが遅かったので母親が心配して電話をしてきたようだ。

通話を切り、は一息ついた。「びっくりした」と呟く。

「...ぬしさま、お使いになったことはないのですか?」

「えーと、高校入学を契機に買ってもらったっていう設定のようで」

気恥ずかしそうに彼女が言う。

(設定?)

長谷部は首を傾げた。

「長い時間引きとどめちゃったね、ごめんね」

燭台切がそう言い、「連絡先の交換させてもらえるかな」と言った。

「いいですよ」と頷いた彼女はまたスマホを手にしたまま固まる。

「ロック画面を解除して」

「はい」

「パスワードは?」

「...何だろう」

「初期設定のままでしたら、0を4回です」

「はい。あ、初期設定のままでした」

「あとで変えた方がよろしいですよ」

「はい」

(おかしい...)

はそう思った。

自分の記憶にある彼らは、横文字の単語を思わず口にしたら態々言い直さなければ通じなかったのに、今は彼らが何を言っているかがわからない。

「主、少し貸してくれるかい。僕たちで登録しておくよ」

「...お願いします」

「使い方は、また学校でお教えしましょう」

「...お願いします」

過去も彼らに色々と面倒を見てもらったが、今でもそうなるのかと思い、彼女は気が重かった。









桜風
15.6.7