| 彼女の願いを叶え、そして僕たちの戦が終わった。 彼女は自分の時代に戻らなくてはならなかった。ここに留まり続けると歴史が変わってしまうかもしれないから。 彼女の未来を取り上げておいて、歴史が変わることを否というお上の身勝手さに腹立たしさを覚えたが、彼女が納得して受け入れていたから僕たちはそれに従った。 本当は行かないでと叫びたかった。 短刀の、彼女を姉のように慕っていた子たちは僕が飲んだ言葉を叫んでいた。 彼女の時代に変えるための道の入り口に立った彼女は振り返り、「ありがとうございました」と泣きそうに笑った。 彼女を止めるすべは、僕が唯一持っていることを知っていた。 でも、僕はそれが出来なかった。 彼女が僕に向けていた無償の、絶対の信頼を裏切ることになるから。 ねえ、気づいていたかい。僕は、ずっと君の名を呼びたかったんだ... ◆◇ 「――」 口の中で過去に彼女に教えてもらった名を呟いた。胸が締め付けられてツンと鼻の奥が痛くなる。 とても大切なものだ。 今となっては彼女を縛るものにはならない。 だが、自分が特別であったことの証拠だ。 勿論、彼女はそんなつもりがなくて、あの彼女の名を知ったのは偶然の産物だった。 それでも、それが特別なことであることを、彼女は遅まきながら知っていて、そして、彼に何も命じなかった。 ただ言ったのは「わたしの名前は皆さんに知られてはいけなかったらしいので、内緒にしてくださいね」という一言だった。 「忘れなさい」とは言われなかった。 それは、彼女の誠実だったのだろう。彼女は彼に名を教えると約束して、それを果たしただけなのだ。本当はその約束は反故しなくてはならないほど重いものだったというのに。 彼が彼女の名を知っていたと知ったら、仲間たちはどんな反応をしていただろうか。 間違いなく、何人かには命を狙われていただろう。 彼女の真名は、今世彼が“長船光忠”として生きていて、ずっと引っかかってい名前だった。 女の子の名前だというのはわかった。親に問うてみるとそんな名前の知り合いはいないと言われた。 「あなたが前世で好きだったこの名前かもしれないわよ」 母がそう言ってからかったこともあった。 あながち間違いではなかったのだと、今更に納得した。 人となるときに、魂に刻み込んだのかもしれない。その時の記憶をなくしても、彼女と再会した時にすぐにわかるように。 結局その名で彼女を思い出したわけではないが、結果思い出せた。 彼にとってあの名は“愛おしい”を意味する単語になっていた。 電車に乗って3つ隣の駅で降り、バスに乗って大学構内に入った。 研究棟に向かい、自分の在籍している研究室のドアを開ける。 「おはよう」 研究のために泊まっていた者がいた。 「おー、おはよう」と目の下に隈を作っている友人はコーヒーをすすりながらパソコン画面を見ている。 「実験進んだ?」 バッグを置きながら燭台切は彼に声を掛けた。 「まあまあ。でも、上手くいかないところがあってさ」 以前も、そして今世も器用な方に分類される燭台切は友人たちによく頼られる。 頼られるのは嫌いじゃない。ただし、利用はさせない。 完徹をして実験を進めたという友人の話を聞きながら燭台切は改善点について考える。 「なあ、長船」 「ん?」 記憶が戻ると長船と呼ばれるのは少し抵抗があるが、実際今の名なので拒むのはおかしい。 「何かいいことあった?」 「どうして?」 「目に見えてご機嫌」 指摘されて思わず視線が泳ぐ。 「あー、俺も帰っておけばよかった。そしたら、彼女ができたかもしれない」 目の前で嘆く友人に苦笑して「別に彼女ができたわけじゃないよ」と言う。 「お前、今彼女いない歴何年?」 「1年ちょっと..かなぁ?」 3年まで付き合っていた子がいたが、就職活動で忙しくなるからと振られた。向こうは燭台切も就職すると思っていたらしいが、そうではないと知るとあっさりと別れ話を出したのだ。 まあ、良い彼氏だったかと聞かれたら頷けない。 何せ、彼にとって重要だったのは家の方だったから。ハウスシェアしている他人に負けていたことに彼女のプライドは傷ついていたのかもしれない。 就職すればそこから出て行く可能性もあったが、進学と言っていたのでとっとと見切りをつけたのだろう。 ドロドロするよりもよっぽど気楽でいい。 「でも、何で彼女欲しいの」 実験データを見ながら燭台切が問う。 (あ、ここがおかしい) 実験がうまくいっていない原因と思われる箇所を見つけた。 「セックスができる」 「そういうお店に行けば?」 友人の一言に燭台切は静かに冷たく返した。 コイツにはの話は絶対にしないと心に誓う。 焦がれていた子に会えたんだと言ったとしよう。おそらくそれを聞いた途端次は体の繋がりについて興味をもたれる。 不快だ。 「お前、こういう話は淡泊だな」 「興奮して話すほどの歳でもないでしょ」 燭台切が返し、「ここ」とデータを指差す。 「ん?」 「たぶん、ここの方法を変えたらもっと良いデータ取れると思う」 「んー?あ、あれ?」 何やら慌てだした。どうも自分が当初計画していた手順と変わっていたらしい。 「頭が働かないなら睡眠をとってしまった方が効率がいいと思うけどね」 そう言いながら燭台切は白衣に袖を通した。 「ホントだなぁ...ちょい寝てくる」 「教授にはこのデータ渡しておくよ」 「頼むわ」 フラフラしながら仮眠室に向かう友人に「おやすみ」と声を掛けて彼も自分の研究の準備を始める。 燭台切はこの研究棟に泊まりこむことは今のところない。 昨年から在籍している研究室ではあるが、卒論の作成時も泊まらずに書ききった。 とはいえ、家の事は多少おろそかになったが、長谷部が「気にするな」と言ってくれていた。 食事は燭台切が作っていたが、その他の洗濯や掃除などは空いた時間に長谷部ともう一人の同居人が片づけてくれていた。 小狐丸は碌に働かなかったが、家に多く金を入れることでそういう事は免除した。 彼が同居するようになって、家計が楽になったのだ。 しかし、流石に研究を進めていく中、いつかは泊まり込みをするようになるのだろうとは思う。 出来れば今年は避けたい。長谷部が受験だ。 あの家のオーナーの孫が受験なのだ。別にそこまで義理はないが、数年、――もっと遡ればもう少し長くなるが、共に過ごした友人が勝負の時を迎えるのだ。 出来ればサポートしてあげたいと思う。 それが、おそらく恋敵であろうと。 (...いや、絶対そうだよね) 彼の忠臣っぷりは、忠義を通り越していた。その時の記憶がよみがえり、そして昨日のあれだ。 間違いないだろう。 (困ったなぁ...) 本当に困っているわけではないが、一応困った。 「長船、そろそろ帰らなくていいのか?」 友人に声を掛けられて時計を見る。 思いのほか遅い時間だった。今日は研究が捗りすぎて時間を忘れてしまった。 「じゃあ、僕はこれで」 「おー、またなー」 燭台切は大学を後にした。 昨日彼女に再会したスーパーに寄ってみることにした。 あわよくば、彼女に再度会えないだろうかと思ったのだ。 しかし、世の中そう上手くはいかない。 苦笑を漏らして帰宅した。 「ただいま」 リビングに入って声を掛けるとげんなりした表情の長谷部と挑むような表情をした小狐丸がいた。 「ただいま」 もう一度声を掛けると 「おかえり」 と長谷部が返し、 「早く。ぬしさまは今日はどのようなお召し物であった。どのように笑ってどのようなお声で囀られた」 と燭台切の存在を意に介さない小狐丸が長谷部に迫っていた。 (ああ、なるほど) 正直、あとで自分もちょっと話を振ってみようかなと思っていたが、小狐丸のこの態度で長谷部は辟易しているようだ。 着替えて手を洗い、リビングに戻ると「俺も手伝う」と長谷部が声を掛けてきた。 逃げ場として選ばれたらしい。 苦笑して「頼むね」と燭台切はそれを受け入れた。 「長谷部!」 「あのな...お召し物は制服だ。どのように笑っておられたか、俺も知らん。どのようなお声で囀られたかもだ。学年が違うんだ、さほど接点はない」 パシッと言いきられて小狐丸は大げさに驚く。 「なんと!ぬしさまが傍におられるのに、お前はぬしさまと共にありたいと思わないのか!」 「出来ることとできないことはある」 「留年すれば良いではないか」 「俺が今留年したとしても3年のままだし、主はまだ1年生だ」 長谷部もむきになってきた。 燭台切はため息を吐き、 「ギン君、仮に長谷部君が主と仲睦まじくしていて、その話を事細かに聞きたいの?」 と声を掛ける。 「それは面白くないから聞かない」 きっぱりと言う小狐丸に「だろうね」と燭台切は頷いた。 「じゃあ、まあ。あまり細かに聞かない方がいいんじゃないの?少なくとも、長谷部君は僕たちより主の近くにいるんだから、面白くない話もあるかもしれないよ」 燭台切の言葉に納得したのか、拗ねた小狐丸はソファで丸くなった。 体が大きいのではみ出ているが、取り敢えず静かになった。 「助かった」と長谷部が小声で言う。 「ううん、本当は僕もちょっと聞きたかったんだけどね」 そう言った燭台切を長谷部がチラを見上げる。 「鶴丸に会った。歌仙にも。あと、岩融がウチの学校で教師をしていた。今剣は中等部に入学してきたらしい」 彼女の話ではないが、周囲の話をした。 「あと、主は剣道部には入られないそうだ」 「それは..残念だね?」 長谷部の気持ちを慮って言うと彼は苦笑して首を横に振る。 「俺は、主に厳しくできないだろうからちょうどいい。他の者に示しがつかなくなるところだった」 「ぬしさまと話しているではないか!」 声を落として話していたのに、小狐丸の耳に届いたらしい。抗議の声が上げられた。 「少し話しただけだ」 「主は、部活動はするのかな?」 燭台切がこぼすと 「たぶんな。体育会系だろうとは思う」 と長谷部が頷く。 「何故?」 小狐丸が首を傾げた。 「ひとりでできることが増えたと仰られていた。体を動かしたいのだろうと思う」 なるほどね、と燭台切が頷く。 「しかし、体育会系と言えば、うさぎ跳びやタイヤ引き。ぬしさまに厳しすぎる!」 「いまどきそんな体育会系はないぞ。ウチの剣道部もそんなことはさせない。適度な休憩と水分は摂らせている」 ため息交じりに長谷部が返すが小狐丸は自分の想像の中に入って行ってしまった。 「ねえ、長谷部君」 「何だ?」 「主は、お弁当なのかな?」 燭台切に問われて長谷部は首を横に振った。 「わからん」 「僕がお弁当を作ったら迷惑かな。まあ、君経由で渡してもらうことになるけど」 「俺経由というのは構わんが、ご母堂がお作りになっているんじゃないのか?」 そういう長谷部に「ご母堂って、あまり言わないよね」と燭台切は苦笑した。 「ん?」 「まあ、いいけど。そうかー...また主に食べてもらいたかったなー」 「機会があれば聞いておく」 「うん、ありがとう」 「燭台切、腹が減った」 小狐丸が言う。 妄想の中の彼女を救いでもしたのかもしれない。 「あと30分待って」 燭台切の言葉に再び拗ねたようにソファの上で丸くなった。 |
桜風
15.9.24
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