奇跡の下で 1





 「大将は死が見えたとき、俺に連れて行かれるのと人として天寿を全うするの、どっちを選ぶ?」
 戯れに投げかけた問いに、彼女は迷うことなく「人として終える道」と答えた。
 間を置くことなく返ってきた答えは、おそらく彼女が日ごろから胸に抱いていた信念のようなものなのだろう。
「永久(とこしえ)は、要らないか?」
 重ねて問う。どこか縋るような声音に思わず自嘲した。
「私は人として、あなたに会えた。だから、別れる時も人としてお別れしたい。でも、いつか人としてあなたが生まれ変わる奇跡が起きて、そして出会えた時はあなたと永遠を誓いたい」
「とんだ奇跡だな」
 肩を竦めていうが、そんな奇跡をどこかで期待し始めている自分がいた。
「こっちに来たいとは思わないのか?」
「私は神様にはなれないからね」
 彼女はまつ毛を伏せ、そして顔をあげる。
「私は、あなたを置いていくの。ごめんなさい」
「なあに。ちゃんと俺っちが見つけるから安心しろ」
 おどけて言う彼に彼女は目を細めて「好きよ」と腕を伸ばす。
 応じた彼は彼女を抱き寄せて口吻けた。
「必ず、迎えに行くからな」






◆◇






 けたたましいアラーム音に文字どおりベッドから飛び起きた。
 時刻を確認するともう八時。
「はあ?!」
 若干キレ気味に声を漏らしてハタと気づく。
「今何時だ?!」
 確認したばかりだというのに、再度確認した。今度は改めて今の状況を冷静に分析するべく。
「やっばい」
 パジャマを脱ぎ散らかし、ワイシャツに袖を通す。
『形状記憶』という謳い文句を信じて購入したのだが、どう見てもこの服撚れている。
「んだよ!」
 今度からメーカーの謳い文句なんて信じない、と決意しながらも替えがないため、これで行くしかない。
 せっかく今日から社会人ということで新しいシャツを買ったのに。実家にいたときに母親が買ってきた二枚でさんきゅっぱの方が良いものだったということか。
 駅まで自転車を暴走させてこれまたはたと気づく。
「定期……」
 昨日、朝は混むだろうからと購入しておいたのにそれをすっかり忘れて家を出た。もう戻る時間はない。
 思わぬ出費にまたしても悪態をついて電車に飛び乗った。
 キオスクで購入していた十秒メシを流し込み、会社の最寄駅で降りて五百メートル走を始める。
 学生時代は陸上部だった。ただし、短距離専門で、五百メートルは正直つらい。
 何とか会社まで完走してエレベーターに向かう。今日は入社式で確か、十階の大会議室がその会場だ。さすがに走って階段を昇れるほどの体力はない。すでにほとんど使い切ってしまった。
「ちょっと待った!」
 転がり込むようにドアが開いているエレベーターに乗り込んだ。
『開く』を押してくれていた人がいたようで、ボタンの前に立っている。
「何階ですか?」
「十階です」
「ああ、新人君」
 息を整えて顔をあげると声を掛けてくれていたのが女性だと気づいた。紺のパンツスーツに長い髪は後ろで一つにまとめている。首から下げている名札には部署と名前が書いてあった。
「私ここまでだから。服、整えておきなさい。身だしなみは大事よ」
 言い置いて彼女は六階で降りた。名札に書いてあった『総括部』という部署は六階にあるのだろう。
 そのまま十階までの短い時間で何とか上着の皺を伸ばし、走って乱れた髪を手櫛で整えて入社式会場へと向かう。



 会社のお偉いさんや、そのほか、どういう関係があるのだろうかという来賓のあいさつが終わり、配属先が発表される。
 発表と言っても、所属部署の上司が迎えに来てくれるというものだ。
 しかし、彼の元は待てど暮らせど上司と名乗る者が来ない。
 会場の片づけが始まってしまった。
 ぽつんと佇んでいる彼に気づいた人事部の者が声を掛ける。
「上司は?」
「え、と。まだ……」
「あー……」
 遠い目をした。あまりないが、時々ある風物詩なのかもしれない。
「名前は?」
「粟田です」
「あわた、あわた……あ、総括部か。六階だから行っておいで」
 持っていた名簿で確認した人事部の者が言う。
「は?」
「大丈夫、行っておいで。総括部には連絡しておくから、中から空けてくれるよ。部署に配置されたらIDカードがもらえるから、その後は出入り自由になるからね」
「え、あ。はい」
「じゃあ、頑張って」
 片づけが進まないため追い出されたらしい。
 廊下に出た彼は深くため息を吐き、そしてエレベーターに向かった。
「総括部?」
 先ほど聞き流していたが、エレベーターで出会った女性の名札にも総括部と書いてあった。
「総括部か……」
 少しきつい印象があったが、悪い人ではなさそうだったのを思い出す。


 エレベーターで六階に降りて、『総括部』と書かれているプレートの前に立った。インターホンのようなものを見つけて押そうとするとドアが開き、出てきたのは先ほどエレベーターで乗り合わせた女性だった。
「ああ、あなたは、え、と……粟田口くん」
「粟田です。口は要りません」
「え? あ、そうなんだ……」
 どうして勝手に名前を変えられたのだろうかと思う反面どこか聞き覚えのある響きで戸惑いを覚えた。
「入って。あまり長い時間ドアを開けっ放しにしてたらアラームが鳴るの」
「あ、はい」
 促されるままに部屋に入る。
「いや、悪いね。すっかりすっかり」
 横幅に大きい、メガネをかけた男が部屋の奥からゆったりやって来た。
「すっかりすっかりじゃないですよ、課長」
 揶揄するように声を掛けられて「あはは」と適当に愛想笑いをした課長は自己紹介をし、ふと粟田の隣に立つ女性に視線を向けた。
「まあ、これも何かの縁だし。君が教育係ね」
「はあ?!」
 頓狂な声を上げる彼女に驚いて視線を向けるとわざとらしい咳払いをして「わかりました」と了承する。その声にはやはり不満の色が見えた。
 どうも彼女のそんな反応は珍しいらしく、背後からそのようなささやきが聞こえた。
 どうしてそんなに嫌がるのか。
 確かに新人を相手にするとなると自分の時間が費やされるし、下手をすれば教育係として連帯責任だ。
「え、と。よろしくお願いします」
 決まってしまったものは仕方ないだろうと思い、彼女に向かって頭を下げると、「よろしく」と声が返ってくる。その声にはもう不満の色は見えない。
 顔をあげて目を合わせると「仕方ないじゃない。誰かがしなきゃいけないことだし」と肩を竦めてみせた。もう気持ちの切り替えが済んだようで感心する。
「あなたの席はこっち。おいで」
 彼女の後をついて歩く。
 入り口すぐの空席が自分の席だったらしい。
「インターホンが鳴ったら対応して。誰が誰に何の用か聞けばいいだけだから。基本的に他部署にはIDカードで入れないの。それぞれの部署に登録されて、その部署と一部の会議室みたいな共用場所のみで使用可能。あなたのIDカードはたぶんデスクの引き出しの中」
 言われて抽斗をあけるとぽつんとカードが入っていた。
「まずは端末立ち上げて。IDはそのカードの番号、初期パスワードは英語でパスワード」
 その後、彼女の指導に基づき、IDカードのパスワードを設定することができた。
「あと、これ。社内略図。必死に覚える必要はないけど、時間短縮のために覚えておいた方がいいかもしれない。じゃあ、絶対にご挨拶をしておかなきゃいけない部署に行こう」
「はい」と返事をして立ち上がる。
「総務行ってきます」
 部屋の中に声を掛けてドアを出ていく彼女の後ろに従って部屋を出た。









桜風
17.1.1


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