奇跡の下で 5






 その日の外回りは少し早く終わった。しかし、帰社するには遅い。
「直帰しちゃおうか」
 営業先の最寄駅で腕時計を見ながら彼女が呟く。
「直帰? って何ですか?」
「会社に戻らずに家に帰ること。たまに、こういう半端な時間に終わると直帰させてもらってる。戻らなきゃいけないことがないならここで解散にしようと思うけど、大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、ちょっと会社に電話するね」
 二、三歩離れて彼女はバッグから携帯をとりだし、会社にダイヤルを始めた。
 ふと、駅に貼られているポスターが目に入った。沿線博物館で日本刀の特別展示があるらしい。
「へー……」
「お待たせ」
 戻ってきた彼女が声を掛け、彼の視線をたどってみる。
「先輩、この後時間あります?」
「あるけど……」
 正直に言うと、これに行こうと思っていた。
「これ、行きません? 今から行っても一時間くらいは見ること出来そうだし」
「いいけど。おもしろいかどうかわかんないよ?」
「先輩、日本刀好きだって言ってたじゃないですか。教えてくださいよ」
 彼女はため息を吐き、「わかった」と頷いた。



 博物館でチケットを購入しようとした彼を制して彼女がチケットを出す。

「なんですか、それ」
「年間パスの特典」
「年間パスなんて持ってるんですか?」
「そうよ。常連さん」
 チケットを一枚渡して入口に向かうと、彼女の言葉のとおりらしく、職員に声を掛けられている。顔を覚えられるほど通っているらしい。
 特別展示室に入った途端、ざわりと鳥肌が立った。いつもの事だ。
<どうした、三日前に来たばかりだろう。もう来ないと思っていたぞ。今日は、『休みの日』というものではないのだろう?>
 ふっと隣に何かが降りてくる気配がして、頭の中に声が響く。彼はおそらく人の入りから想像したのだろう。
(今日は早く仕事が終わったから来たの)
<そうか。いつも早く終わればいいのにな。ところで、主よ。あれは薬研ではないか?>
(そうだと思う)
 彼女の言葉に<そうだと思う?>と疑問が返ってくる。
<あれは、薬研藤四郎だ。まさか、あやつは覚えていないのか?>
(そのまさか。たぶん、今、一生懸命話し掛けてる厚の声も届いてない。宗三なんて拗ねちゃったみたいだし)
<ふうむ>と隣に立つ男が顎に手を当てた。実際は彼女には姿が見えないが、気配で、そして記憶でその仕草の想像がつく。
<辛いな>
(皆まで言うな、って感じ)
<主、あれは何なのですか。僕の声を無視するなんていい度胸ですよ>
 もう一つ加わった声は憤りをあらわにしている。憤りというか、拗ねていると言った方がいいかもしれない。
(あの子は、薬研と思わない方がいいよ。私の事も、一か月半前に『初めまして』だったし)
 彼女の返事に息をのむような気配がした。
<あなたにでさえ、ですか?>
 コクリと彼女は頷いた。
「先輩」
 振り返った彼が呼ぶ。
<『先輩』……。はぁ、僕はもう寝ます>
(うん、おやすみ)
「見ないんですか?」
「そうね、見ようか」
 応えて彼女は展示ケースに足を向ける。先ほどまで自分の隣に在った気配も消えた。彼も眠るのかもしれない。
「これ、見てくださいよ。『粟田口吉光』って書いてあるんです。先輩、これで俺の事最初に『粟田口』って言ったんですか?」
<大将! 薬研が変なんだ。俺が声を掛けても聞こえないふりをするんだ。酷いと思わないか?!>
「そう。粟田口吉光は短刀作りの名手って言われてるんだって。藤四郎って名前の短刀が全国に在るの」
(この人は薬研だけど、薬研の記憶がないから別人。声も無視をしているんじゃなくて聞こえていないの)
<え?>
(ごめんね、連れてきて)
<まさか、大将の事も?>
 こくりと頷くと、厚の気配が消えた。諦めたのだろう。
 彼女も諦めたように彼に刀の解説を行う。自分の頭にある知識は殆ど彼ら本人から教えてもらったものばかりだというのに。
 その後まもなく閉館のアナウンスが流れ、早足で展示物を見た。
「しかし、先輩って含蓄あるよな」
「ん?」
「いや、着物の事とか。お茶とかお華も知ってるだろう? 取引先ですらすらと話してたの見てすごく感動した」
 このタイミングで口調が先輩・後輩でなくなるのはちょっと勘弁してほしい。ただ、業務時間外で、しかも他の人がいないという以前示した条件を満たしているので文句は言えない。
「まあ、昔知り合いにそういうのにめちゃくちゃ詳しくてさらに口うるさいのがいたからね」
 かの刀剣の付喪神は風流を解す文系名刀と自称していた。
「へー」と他人事のように相槌を打つ姿は、結構来るものがある。
「ああ、そうだ。前に約束した回らないお寿司、今日行っちゃう?」
 話題を変えるための提案だったが、結局この後も一緒にいる状況を自分で作り出したことに気づいてしまったが、後の祭りだ。
「給料日前だが、いいのか?」
「いいよ」と頷く。もう引けない。意地だ。
「じゃあ、そうだな」と彼も頷き、彼女の馴染みのすし屋に向かう。
 馴染みの、と言っても普段使いをしているわけではなく、接待の時に使っている店だ。顔なじみで気が楽なため、その店を選らんだ。



「いらっしゃい!」と威勢のいい声に続いて「おや?」とからかいを含んだ声がある。
「デートですか?」
「この子、今年入ってきた子なんですけど。前にちょっと手間を掛けさせてしまったので、顔見せをかねてお礼をと思って」
「お礼に回らない寿司っていうのはいいねぇ」
 声を掛けられて彼は首を竦めるように頭を下げる。
 カウンターに案内された。座敷は予約が入っているというのだ。
「本当に何でもいいんですか?」
「いいよー」
「会社の経費で落とすんですよね、さん」
 からかうように職人が言う。
「しない。経理からの信頼落としたら動きづらくなるんで」
 彼女の言葉に「ですが」と声を潜めて職人が「会社の人、やってますよ」という。
「ああ、あれは経理にバレているので、他の事で全く融通効かせてくれていないんですよ。あと、告発されたら横領ですしね。そんな危ない橋を渡ってまで自分の見得と腹を満足させたいと思いませんから」
 彼女の言葉に「さすがですねぇ」と職人が唸る。
「さて、先輩が御馳走してくれるというんですから、どんどん頼んでくださいよ」
「トロ行ってもいいんですか?」
「いいよ」
「イクラとかウニも」
「いいよ」
「時価のやつも」
「次に確認したら、玉以外ダメって答えるよ」
 あまりにしつこく財布の中身を確認されるものだから、彼女は半眼になって抗議する。一々返すのが面倒くさい。
 彼は一旦口を噤み、壁に掛けてあるタネの値札を一瞥した。
「ああ、でも。ここの玉は美味しいから一回は食べておいて損はない」
 言っている間に彼女の前に玉子が置かれた。
 注文していないのに、と不思議に思っていると「いつも玉からなので」と職人が言う。
「じゃあ、俺も」
 暫くは職人ひとりだったが、客の入りが増えた頃に大将がカウンターに立つ。
「お久しぶりです」と彼女が声を掛けると気難しそうな顔をした初老の人が「いらっしゃい」と返した。
「そちらは?」
「今年入ったばかりの後輩です。いつかお客さんを連れだって来ることがあるかもしれないので、その時にはよろしくお願いします」
「わかりました。さて、何を握りましょう」
「大将、仕入れには関わってるんですよね?」
「それはもちろん」
「じゃあ、大将のおススメで」
 彼女の言葉に頷き、さっそく握り始める。
「大将、最近体調を崩されていて店にはあまり顔を出さなかったんですよ」
 職人がこっそりと彼に教えてくれる。
「へー……」
 じゃあ、自分もと思い、彼が「大将」とカウンターの中の職人に声を掛けると「なにー?」と隣から返事がある。
「へ?」
「あ?」
 粟田が声を漏らし、彼女も変な声を出した。
「なに?」
「いや、大将に……」
「え? あ、ああ。『大将』にね。うん、大将」
 カウンターの中の大将は苦笑している。
「お疲れなんですね」
「あー、何か。返事しちゃいましたね。ごめん、聞いてなかった」
「ああ……」
 本来、違和感を覚えてしかるべき状況だったにもかかわらず、なぜか違和感を覚えなかった。その状況に違和感を覚える。
「若い人、ご注文は?」
 促されて彼は慌てて注文する。



 食事を終えて会計をしていると背後がにぎやかになる。座敷を予約していた一行が着いたようだ。
「このお店でこんな騒ぎ方してる人たちって珍しいですね」
 カードでの支払いをしながら彼女が言うと「申し訳ありません」と大将が頭を下げる。
「そうなんですか?」
「うん。接待の時は、落ち着いて話ができるからここを選んでるんだもん」
 背後をちらと振り返ればどうやら若い集団のようだ。
「あなたみたいな新入社員かもね」
 からかいの言葉に「……気を付けます」と彼が返す。
「学生の頃と違って少しお高い外食ができるようになるのは嬉しいことかもしれないけどね」
 支払いが終わり、「ちょっとお手洗い行くから」と彼女が席を立つ。
 口紅を直して外に出ると、先ほどの若い集団の一部がいた。
 狭い通路に数人溜まっていて正直邪魔だ。かといって「邪魔です」と言ったら揉めるだろう。
「通してください」というと一人がにっと笑う。
(あ、面倒くさいやつだ)
「俺たちと一緒に飲まない?」
「飲みません」
 つれなく返し、なんとか通れそうな隙間を見つけてそこを抜ける。
「いやいや、ちゃんと話そうよ」と腕を掴まれそうになったが「うちの連れが何か?」と、別の手が出てきてその腕を掴んだ。
 普段はかわいい後輩だが、中身、その本質に持っているのは戦国時代に在った刀だ。そんじょそこらのガキンチョが対抗できるものもなく、「あ、いや……」と逃げるように立ち去った。
「大丈夫ですか?」
「うん、助かった。ひとんちで暴れるわけにはいかないだろうし、どうしようかと……」
 困ったように笑う彼女に彼はため息をひとつ吐いて「今日は送ります」という。
「は?」
「家まで送られるのが嫌だったら、近くのコンビニまでにしますから」
「いやいや。私、飲んでないから大丈夫だって」
 断りはしたが、彼はそのまま彼女のバッグを持って「また来ます」と大将たちに声を掛けて店を出る。
 彼女は慌てて彼の後を追った。
「ねえ!」
「先輩自覚ないみたいだけど、別嬪なんだからな」
 彼の返しに彼女はグッと言葉を飲んだ。一度大きく息を吐いて「言い方が古めかしいね」とからかいの言葉に替える。
「え?」
「ん?」
「俺、何て言った?」
「別嬪」
「べっぴん?」
 本人も無自覚だったらしい。何とも性質の悪い。
「で? 私の家の近所まで来たいの?」
「残業で遅くなってるときはタクシーだって言ってたけど、今くらいの時間なら電車だろ?」
「そうね。でも、無意識に言葉を発するというのは、疲れている証拠だと思うわ。ここ最近外回りが多かったし、あなたも早く帰った方がいいと思う」
 指摘されたことに咄嗟に反論できず、言葉に詰まっていると手に持っていたバッグを取り上げられた。
「じゃあ、また明日ね」
 ひらひらと手を振って彼女は最寄りの地下鉄に降りて行った。
「別嬪……」
 彼女の背が見えなくなり呟く。どこか言い慣れた表現のように感じた。だが、今まで誰にも言った覚えはない。
 学生時代に付き合っていた彼女への褒め言葉は大抵「可愛い」とか「きれい」とかだったと思う。
「あ、年……?」
 本人が聞いていたら満面の笑みで握り拳を作りかねない言葉を呟き、ため息を零した。
 先ほどの博物館では、部屋に入ったとたんに耳鳴りが酷かった。美術品を保管するために部屋が特別に気圧を調整しているのか知らないが、軽く頭痛を覚えたほどだ。
 一緒に展示品を見ていると思っていた彼女は壁に背を預けて少し悲しげにしていて、その表情を見て焦燥感を覚えた。何かをしなくてはならないはずだ、と思った。
 しかし、何をしなくてはならないのかわからず、残ったのは焦燥感だけだった。
 博物館の刀剣を思い出すと胸がざわめく。
「大将」という単語に返事をした彼女に驚いたと同時にどこかしっくりきていた。何かあるのだろうか。前世など不明確なことは信じない。だが、彼女と自分の間に何かあるような気がしてならない。
 しかし、思い出そうとしても自分の記憶にはないものとしか思えず、再びため息を吐いて気持ちを切り替える。考えても答えが出そうにないことだ。
わかったとき。
 いつかわかった時に彼女に話してみよう。もしかしたら何かを知っているかもしれないから。









桜風
17.1.29


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