奇跡の下で 6






 ざあざあと雨の音がする。
 そういや、寝る前にぽつぽつ来ていたなと思いながら目を明けると、闇の中にぼんやりと白いものが浮かんでいた。
 裸体に白い寝間着を羽織っているだけの女が窓辺に座っている。
 閉めたはずの雨戸を少し開け、外を眺めているようだった。
「大将、風邪ひくぞ」
 声を掛けるとぴくりと肩を震わせて振り返る。
「寒い?」
「いいや」
 言いながら体を起こし、脱ぎ散らかした寝間着を羽織って彼女の元に足を向ける。
「何を見てるんだ?」
 彼女の隣に座り、窓の外をそっと覗いてみた。
「雷」
「鳴神が珍しいのか?」
「稲妻は珍しいかな?」
 ピカリと外が光る。
 女の肌が照らされ、胸元に散っている赤い痕が浮かび上がった。先ほどまでの行為の証だ。
「なに?」
 満足そうに目を細めている彼に問うと「いや、綺麗だなと思って」とにやりと笑い、赤い痕に唇を寄せた。
「ちょっと?!」
「これだけ鳴神がドンドコと太鼓を鳴らしてるんだ。大将がいくら啼いても皆には聞こえないぜ」
 腕を伸ばして雨戸を閉め、ゆっくりと彼女に体重をかけていく。
「……そ、の、言い、かた、完全に悪役。……っ」
 外では稲光の後の雷鳴、落雷。そして雨音。
 しかし、部屋に響くのは二人の呼吸の音と呼び合う声。
 夜は静かに激しく更けていく。



◆◇



「おはようございます!」
 溌剌とした声が部屋に響く。
「やけにご機嫌じゃないか」
 いつもより早く来た粟田に近くにいた先輩が声を掛けてきた。
「はい」とはにかむ彼に「どうした、彼女ができたか」などとからかいの言葉が投げられる。
「いや、何か。夢を見たようで」
 ははは、と笑いながら彼は返す。
「見たようで、ってどういうことだよ」
「俺、年に何回か夢を見た後凄くこう……幸せな気分になるというか。そういうのがあるんですよ。中身全く覚えていないんですけど」
「んだよー。まあ、どうせエロい夢だ。そうに決まってる」
「それはどうっスかね」などと返していると「おはようございます」と地の底からはい出たような声が聞こえて思わず振り返った。
 ものすごい顔をしている。
「先輩?」
「んー?」
「二日酔いですか?」
「飲まないのにね」
 否定の言葉とも、肯定の言葉とも取れるひと言を返して重そうな足取りで彼女は自分のデスクに向かっていく。
「あの人も年に何回かあんな風になるんだよなー。企画部に潰されてるのかな?」
「……どういうことですか?」
 元の所属部署に潰されるなど不穏な発言に彼が問う。
「ん? ああ、企画部の仕事のヘルプも入ってるから、あの人」
「ヘルプ?」
「企画部って企業発表会とかにも出席するわけね。広報部と一緒に。そんで、そういう発表会の場が増えてきて、そんで我らの腕のおかげで仕事も増えている。当然そうなれば人を増やせばいいのに、うちの会社は中途採用をあまりしない。殆ど戦力にならない新人を獲っている。となると、ベテランが抜けたら中堅が頑張るしかない。新人の教育も含めて」
 色々と胸に刺さる言葉が発せられて聞き続けるのが少し辛い。
「そんで、企画部はベテランがたくさんいたんだけど、ちょうどごっそり退職してな。元々、あの人は企画部でエースだって言われていたらしいけど、まあ、あの性格で上司とのそりが合わずに追い出された。しかし、下っ端とは結構話が合ったし、知らない仲ではない。というわけで、こっそりヘルプに入ることがある。こっそりって言っても暗黙の了解なところがあるんだけどな。オレが知ってるのがその証拠」
 ちらと彼女に視線を向けるとやはり調子が悪そうだ。今日の夜は大きな仕事に関する接待があるが大丈夫だろうかと心配になる。
「大丈夫ですか?」
 声を掛けると何か言いたげな表情を浮かべたが「午後には立て直しておく」とだけ返された。
 普段はあまり大きな額の仕事は取りに行かないのに、今回のは今まで見た中で一番大きい。周りが言うには、年に一回大きなのを獲る人らしい。
『年に一度大きいのを獲る』というのは、すごいことなのだろうと思う。




午前中は本当に調子が悪そうな様子が続いたが、午後になるとその言葉のとおり彼女は復活していた。
「コツとかあるんですか?」
「慣れみたいなところはあるけどね」
 肩を竦めていう彼女は少しいつもと違っていた。
「なに?」と彼の視線を訝しんで彼女が首を傾げる。
「緊張してるんですか?」
「どうだろ。でも、何か今日は調子がおかしいからね」
「大丈夫ですか」と心配する彼に「体調面ではないのでご安心を」と返す。
「俺に出来ること、あったら言ってくださいよ」
 同席させてもらうが、仕事の話なのであまり口出しができない。基本的には見学して学ぶというのが目的なのだ。
「そうね。その時はちゃんと声を掛けるから。あなたは私の守り刀だしね」
 いたずらっぽく笑って言う彼女の言葉が彼の胸の奥で熱を持つ。
「はい!」
 頷いた彼に彼女は笑い、「いざ、戦場へ」と会食が予定されている料亭へと向かった。




 仕事の話をしてみたが、どうも今回で話はまとまりそうにない。
 彼女の表情からそんな感触が見られた。
 ならば、話を続けても仕方ないと食事の運びとなったが、雲行きが怪しくなってきた。
「君も飲みなさい」
「ありがとうございます」
 傾けられた酒はすでに四杯目だ。酒に弱いと言っている彼女の顔色がどんどん悪くなっている。
「もう一杯」
 そう言って傾けられた酒を受けようと彼女が猪口を差し出すとそれを横から取り上げられた。
「君、なんだね」
「酒は私が受けます。仕事の話ができなくなると困りますので」
「ちょ……!」
「俺、守り刀ですよ」
 彼女は眉間に皺を寄せた。辛そうに。
 しかし、目の前の取引相手は不愉快そうだ。
 次々に、それこそ息つく間もないまま彼に酒を注いでいく。
「社長、少しペースを落としてください」
「この仕事がほしいんだろう?」
「先輩、大、丈夫ですから」
 俺にはこれしかできません、と続ける。
 少しずつ血色が無くなっていく表情を見て「社長」と訴えるが、相手は彼女の言葉を、訴えを聞く気がないらしい。
 彼女は立ち上がって「帰ろう」と彼の腕を引く。しかし、彼は動けない。すでに意識は朦朧としているようだ。
「薬研、返事をして」
 顔を覗き込むと「たいしょう」と微かな声音で返事がある。
「水を飲みなさい」
 自分の水の入ったコップを渡す。
 ゆっくり嚥下するのを確認して「まだいる?」と確認すると首を緩く振られた。
「会社と所属言える?」
 彼が口にしたのは間違いなく彼の勤務先の情報だ。
「君!」
「薬研、帰るよ」
 腕を引いて立ち上がる。彼の腕を自分の肩に掛けさせて二人分のバッグに手を伸ばした。
「君! 仕事がほしくないのか!」
「仕事は欲しいと思っていました。ですが、この子の命の方が大切です」
「命だなんて大げさな! それに、代わりなんているだろう。新入社員なら大して仕事もできない」
「あなたの子供、孫が同じように他人から言われたことを想像してください。許容できるならこのまま 続けてください。でも、私はそれを許容できません。今回のお話はなかったことにしていただいて構いません。いくら積まれてもうちの子を失うわけにはいきませんから。失礼します」
 言い捨てて彼女は「重い」と声を掛けながら部屋を出て行った。



 女将に支払いについては会社が持つ旨を告げて料亭を出た。
 タクシーを呼んでもらってもよかったが、車に乗せると吐瀉するかもしれないので、とりあえず少し外の空気にあたった方がいいと判断したのだ。
 以前は自分よりも体が小さかった。それが今ではどうだ。頭一つ分大きな彼に思い切り体重を駆けられて重い。
 体が小さかった彼はその体格に似合わないくらいの力持ちだったが、今の彼はそうではないだろう。
 ポツリポツリと雫が顔にあたってくる。少しアスファルトの匂いがすると思っていたが、やはり降ってきてしまった。
 タクシーを拾おうにもこうなってしまっては拾えないだろう。
 少し歩いて視界に入った建物にため息を吐き、足を向けた。
 ブティックホテル。所謂ラブホテルがそこに建っていたのだ。この際、贅沢は言っていられない。仕方ないと諦めた。


 木を割くような音がして慌てて飛び起きる。
 気持ち悪さがこみ上げてきた。
「ああ、起きた?」
 声の方を見れば、白いガウンを着た彼女が窓際の椅子に座っている。ふと何かとフラッシュバックする光景に困惑する。懐かしい気がした。
「え、あ……」
 ハッとして自分の衣服を確認する。着ている。なぜかずぶ濡れだが着ている。一夜の過ち的なものかと思ったがどうも違うようだ。
「どこまで記憶にある? ああ、でもその前にシャワー浴びておいで。使い方わかる?」
 確認されてコクリと頷く。
 体を動かすたびに頭痛がする。
「先に水飲みなさい」
 その様子を見た彼女が冷蔵庫からペットボトルを取り出して渡す。
「すみません」
「こちらこそ」
 彼女の返答に違和感を覚えたがひとまず喉の渇きを潤した。
「えっと、あれから話はどうなりました?」
「ぶっ壊してしまいました。ごめんなさい」
 深々と頭を下げる彼女に「へ?」と彼が首を傾げる。
「あのままだとあなたがアルコール中毒で接待どころじゃなくなりそうだったから。ぶった切ってきた」
「……俺、役に立てなかったってことか」
「違う。ちゃんと、役に立った。守り刀だった。でも、あれ以上は無理だった。私が」
「うん」
 頷いて水を一気飲みする。
「ちょっとシャワー浴びてくる」
 肩を落としてバスルームに向かって行った彼の背を見送り、ため息を吐く。
「先輩」とバスルームから声がした。
「なに?」
「ブラジャーがある」
「ぎゃーーー!」と色気のない悲鳴を上げて彼女はバスルームにそのまま突っ込み、雨で濡れたため干していた下着を回収していった。
 バスルームで声を上げて笑う彼の姿に半眼になったが、とりあえず、明日会社でどう説明したものかと悩む。本当は彼の前で説明をしない方がいい。
 会社的にはどうしても欲しかった仕事のはずだ。だが、それが取れなくなった。理由は酒を断ったから。
 理由自体がくだらないから仕事獲れなくても仕方ないねと言ってくれる上司ならいいが、少なくとも、自分のところの上司は違う。
 詰りや誹りは受けるだろう。自分は聞き流せるスキルを身に着けているが、彼がそれを見ると自分のせいだと考えてしまうかもしれない。
「困ったね……」
 窓の外を眺めながらポツリと呟いた声は、シャワーの音が止まった部屋の中で意外と大きく響いた。







桜風
17.2.3


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