| 粟田がチーフを務める仕事が一段落ついた秋の初め、そろそろ定時という時間に彼女が電話を取った。 どうやら知り合いからのようで親近感のある声音で挨拶をしている。 「はい。はい、大丈夫です。十五時ですか? 打ち合わせのためにその三十分前。十四時三十分ですね。……かしこまりました。必ずお伺いします」 どうやら急な出張のようだ。 仕事が立て込んでいないときは、未だに粟田も共に外回りをして勉強を続けている。明日は外回りが入るのだと先ほど彼女が口にしていた時間をスケジュール帳で確認すると空いている。しかし、午前も彼女に付いて会議だ。ということは殆ど会社を空けることになる。 「課長、ちょっと待ってください。ハンコください。何も言わずにハンコ」 丁度終業のチャイムが鳴り、チャイムと同時に帰ろうとした課長を引っ掴まえて彼女が書類を押し付けている。 「これ何?」 「出張申請です」 「ああ、明日遠くに行くの。お疲れ様だね」 判をついて課長は帰って行った。 「ごめん、これ総務に走ってって」 これが『ねじ込む』というやつか、と思いながらも受け取った書類を持って急いで三階に降りた。 インターホンを押すと返事があり、ドアが開く。 「就業時間終わったー」 迷惑そうに応じる社員に頭を下げながら書類を渡す。 「え、明日京都?」 「え?!」 「は?」 書類に目を通していなかった粟田は驚きの声を漏らし、その反応に書類を受け取った社員が驚いた。 「一緒に行くんじゃないの?」 「あ、たぶん。え、京都なんですか?」 時間は大丈夫なのだろうか。午前中の会議が押したらアウトではないだろうか。 「どうかした?」 声を掛けてきたのは経理担当課長だ。 「課長。粟田君がさんの代理で明日急な出張だって今書類を持ってきたんです」 「まあ、急な出張なら書類も急に出てくるよね」と言いながら書類を受け取って眺める。 目を通して「これ、この後何か会合の予定があるのかな?」と問われて「わかりません」と素直に答えた。 「あるかもしれないか……」と呟いた課長は「宿泊もやむなし、って伝えておいて」と言って自席に戻っていった。 「はい」 部署に戻ると残っているのは彼女だけだった。 「怒られた? ごめんね」 「京都だったんですね」 「え? ああ、言ってなかったね。前に仕事もらったところに紹介してもらってたの。電話での話なら結構してたんだけど、今回は会って話をしたいって言われて」 「間に合いますか? 午前中に会議入ってますよね」 「ダッシュは必須だね。地理は覚えてるから迷うことはないけど、タクシーの運転手次第な部分も無きにしも非ず」 綱渡りをしようとしているらしい。 「あ、そうだ。経理担当課長からの伝言です。「宿泊もやむなし」だそうです」 「おっけ! ありがとう。じゃあ、一泊できる荷物も準備してきてね。現地調達でもいいけど」 「わかりました」 しかし、明日は金曜で、宿泊やむなしで泊まれば土日も京都で過ごせる。 ちらと彼女を見れば明日の会議の資料なのか何か書類を作っている。 「何か手伝いますか?」 声を掛けてみた。資料の作り方も彼女からしっかりと教わっている。 「もうちょっとで終わるから大丈夫。ありがとう」 まだ手伝わせてもらえない。 「そういえば、先輩。聞いてもいいですか?」 「難しくない話ならね」 作業しながらのため、なるべく別の事に頭を使いたくないのだろう。 「なんで俺は名前で呼ばれないんですか?」 ふと彼女の手が止まる。 「なんだって?」 「外回りをしているとき、相手が同席しているときは『粟田』と呼びますけど、他の時は大抵『あなた』って名前を口にしてない気がします」 「あー、そうだったっけ?」 どこか動揺を見て取れる。 「元彼の苗字と一緒とか?」 「いいえ」 彼女は首を振る。 「じゃあ、なんで……」 拗ねたように言う彼に「わかったわかった。ちゃんと名前で呼ぶからね、粟田くん」と適当に返して彼女は再び打鍵する。 話しかけるな、と言われているようなその雰囲気に彼は少し不満を持ちながらも「お先に失礼します」と言って部屋を出て行った。 「……うっかり『薬研』って言っちゃうかもしれないからよ。ばーか」 誰もいなくなった部屋で彼女は呟いた。 翌日は彼女が言ったようにダッシュ必須のスケジュールになった。 午前の会議は時間どおりに終わった。というか、彼女が捌ききって終わらせた。 そして新幹線に飛び乗る。昼食は駅弁だ。 窓の外に流れる景色は確かに秋に色づいている。入社してもう半年かと感慨にふけっていると、通路側に座る彼女が舟を漕いでいるのに気付いた。通路にはみ出す豪快なそれに苦笑を零し、自分の肩に彼女の頭を抱き寄せる。 昨日も結局遅くまで残ったのだろう。ひとつ大きな企画に携わらせてもらえているから少しは役に立つと思われていると自負していたのだが、そうではないらしい。確かに、チーフと言いながらも彼女のフォローに助けられることが多い。 彼女としては、自分がフォローできるから任せたと言ったところなのかもしれない。 「あーあ」 出来すぎる先輩が近くにいると中々自信がつかないものだ。 あと数分で京都駅に到着のアナウンスが流れ、彼女を起こす。 「先輩、次もダッシュでしょ」 声を掛けると「うん」とどこか寝ぼけた声の返事がある。 「俺、道がわからないから先輩しっかり起きてください」 彼女が完全に覚醒したのは新幹線が止まった時で、そこからは再度予告どおりの過密スケジュールとなった。 まだ話が具体的になっていないものであったが、彼女は確かな手ごたえを感じていたのか、随分と長い話になった。 半分は趣味の話だったが、こんなマニアックな話について来てくれたのは彼女が初めてだと年嵩の担当に喜ばれた。骨董の蒐集が趣味という知人は少なくないらしいが、あまりに偏っているらしくどうも同趣味の筈なのに話が合わず、寂しい思いをしていたというのだ。 実際、同席していた若手の担当は退屈そうにしていた。 「また話をさせてください」と目を輝かせていう担当に「こちらこそ。仕事の話もさせてくださいよ」と少しからかったように言うと「それはついでで」と笑われる。 この後、食事でもと彼女が誘ったが別の会合があると断られた。 「では、こちらもまたの機会に」と返して応接室を後にする。 「さて、宿泊も可とのことだったけど……会合が無くなったからなぁ」と彼女は腕時計を確認している。終電の時間も頭に入っているのだろう。 「でも帰ると絶対に文句を言われるだろうしな」と呟く声が聞こえる。 「あなたはどう? 明日予定が入っているなら帰ることができる時間だけど」 ふいに視線を向けて問われた。 「泊りかもしれないと思っていたので、特には」と返す。 「選択肢はふたつ。このまま帰るか、自腹になるかもしれないけど一泊するか」 「先輩はどうするんですか?」 「あなたに合わせるよ。私にとってここはあまり珍しい土地でもないし」 「さっき、文句を言われるって呟いてましたけど。誰かに会わなきゃいけないんじゃないんですか?」 「約束はしてないから大丈夫」 「じゃあ、一泊したいです」 「わかった。ちょっと泊まるところ確認してみるね」 部屋が空いているとのことで、彼女が頻繁に使うという宿泊施設に向かった。ネットでの予約を受けていないので知る人ぞ知ると言ったところらしい。 一見民宿だが、離れがあるという。 「ちょうど二部屋あるの」と彼女が言い、「あまり遅くまで出歩けないんだけどね」と付け足した。 荷物を置いた後に食事に行こうと話をしており、ひと息ついてからにしたいからと彼女が時間を指定して隣同士になっているそれぞれの部屋に入っていった。 |
桜風
17.2.27
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