月 3





 亀甲は、のいない本丸を初めて体験した。
 どこか沈んだ空気を重く感じる。
 彼女はとりわけ明るく賑やかというわけではない。どちらかといえば落ち着いて物静かな性質だ。
 短刀と鬼ごっこをするわけでもなく、大太刀と宴会を開くでもない。ただ、この本丸に在る唯ひとつの存在で、彼女を中心にこの本丸は動いている。
 その中心が今は存在しないのだ。どうしても皆の心は沈んでしまうものなのだろう。
「ご主人様は、ご実家に戻られると長いのかい?」
 出陣以外はいつもどおりの生活となるため、掃除や洗濯の当番振り分けは行われる。
 その日の亀甲は洗濯当番だった。
 軽く水洗いで汚れを落とし、石鹸を使って染みなどになった頑固汚れを落としてあとは濯ぐ。
 本丸で生活している者が多いため、洗濯も重労働だ。当然、当番となる者も多い。
「決まってないみたいだな。家の方の用事で帰るらしいから、その用事によるって歌仙から聞いたことがある」
 洗濯板を使って着物を洗う同田貫が作業の手を止めることなく答えた。
「ご実家の用事とはなんだろう」
「さあな。こっちを放ってまで戻らにゃならん何かなんだろう。ほら、こっちの濯ぎを頼む」
「あ、うん」
 泡塗れの着物を受け取った。
「ご主人様が一人いないだけでとてもさみしい場所になるんだね」
 ポツリと呟いた言葉に返事はなかった。



 いつもどおりの生活がいつもとは違う。とても不思議で、しかしどこか納得していた。
 昨日までは庭で遊んでいた短刀たちの姿が見えない。彼らの遊びは遊びではなくどこか鍛錬めいたものがある。
 だから、混ぜてもらっていた。早く出陣したかったから。主の役に立ちたかった。
 出陣するまでに大抵はひと月以上かかると聞いていたが、それを何とか短縮したいと焦りがあった。
 大広間に行くと何人かそこにいた。
「亀甲さんもお茶どうですか?」
 声を掛けてくれたのは堀川国広だった。彼の側には片膝を立てて気だるげに庭を眺めている和泉守兼定が居た。
「いただくよ」
 亀甲の返事に頷き、堀川は茶を淹れる支度をする。
「ご主人様は頻繁にご実家に戻られるのかい?」
「あー……いや、そうでもないな」
 応えて和泉守は茶を一口啜る。
「そう。ご主人様のご実家はどんなところなんだろうね」
「歌仙に聞けば分かるんじゃないか。主とずっと一緒だったのが歌仙だ」
「初期刀というって聞いたよ」
「そうみたいですね。主さんたちの界隈だと特別な存在のようですよ」
 亀甲に茶を出しながら堀川が応じた。
 ――特別な存在。
 素直に羨ましいと思った。
 人の体を得てからは喜怒哀楽、妬み僻み、その他もろもろの感情も得た。それは醜いもののようで、しかし、主にもあるものだと思うと理解したいとも思う。
「そういや、こないだ短刀と手合せしたんだって?」
 ふいに和泉守に話題を振られ、少し驚きはしたが頷く。
「うん、まだまだ歯が立たなかった」
「短刀……五虎退くんと手合せしたんだったっけ? あの子もここでの生活が長いからね」
「短刀の殆どは最初の頃にこの本丸にやって来たって聞いてるからな。戦闘経験は本丸の中では多い方だ。充分に揉んでもらえ」
「兼さんも相当揉んでもらったもんね」
 和泉守の言葉に合いの手を入れる様に堀川がいう。
 慌てる和泉守に亀甲と堀川は笑った。その笑い声に呼び寄せられたように、数人が大広間にやってくる。
 少しだけあたたかい時間を過ごすことができた。



 陽がとっぷりと沈み、本丸は夜の静寂に包まれた。
 ふと目が覚めた亀甲は体を起こす。隣では物吉が静かな寝息を立てていた。
 一度体を横にしてみたが、眼が冴えてしまったらしい。どうも眠れそうな気配がない。
 隣でもぞもぞとしていては物吉の眠りを妨げるかもしれないと考え、そっと部屋を出た。
 新月だった。
 真っ暗な庭の向こうでチカチカと小さな灯りが明滅している。
 蛍というには時期が早い。ちょうど柱の陰になっているのか、その灯りの正体が判別できない。打刀である自分は夜目に自信があるが障害物があるとなると話は別だ。
「何だろう……」
 立ち上がって確かめる暇もなく、その灯りは消えてしまった。






「帰ってくるなら連絡しておいてくれればよかったのに。ちゃんと出迎えた」
 枕元で声が聞こえて目をあける。
「おはよ」
 挨拶をする彼女に「おはよう」と近侍が返した。
 先ほど自室から主の部屋に赴くと昨日彼女が着ていた洋服が投げてあったため、取り敢えず畳んでおいた。それから寝所を覗くと彼女がすやすやと寝息を立てているのだ。少しだけ驚いた。
「主、またタバコ吸ったね」
「一本だ。許せ、見逃せ」
 ゆっくり体を起こしながら彼女が返す。
「この匂いがなければ見逃してあげることも吝かではないんだけどね。主、早く寝間着を着替えてくれないか。洗って、僕の合わせた香を焚くから」
「臭くなるだろう」
「タバコよりはいい」
「それは主観だ」
 うだうだと反論しつつもは布団から出たため寝所に居た歌仙が一旦下がる。歌仙が寝所から出て行ったのを確認して寝間着を脱いで部屋着に着替えて寝所を出た。
「お家はどうだった?」
 から寝間着を受取ながら歌仙が問う。彼女が実家に戻った翌日のいつもの会話だ。
「あの家は、私に厭味を言うために私に御足労を願う家だ」
「厭味? 君のように立派な審神者を捕まえておいてかい?」
「私のように立派な審神者以上に立派な審神者が理想なんだ」
 ここまでが、が実家に戻って帰って来た日に行う会話のセットである。
「しかし、君の一族は見事に正しき人間だね」
 歌仙の言葉の意味を計りかねたは視線で意図を問うた。
「欲にキリがない」
「なるほど。そういう意味では、ウチの一族は正しく人間だな」
 笑って返すの表情に疲れの色が見える。
「今日は休むかい? 元々今日帰ってくる予定だったんだ。今日は主の仕事の予定は入っていないよ」
 提案されて彼女は思案し、「のんびり過ごすことにしよう。ここの生活は気が楽でいい」と返す。
「わかった。朝食はどうする? 皆済ませているけど」
「あまり物はないか?」
「主にあまり物を出せるはずがないだろう。少し待っていなさい。何か作ってこよう」
「胃に優しいものが良い。昨日は肉攻めだった」
「わかった」と返した歌仙はふと思い出したように「そうだ」と零す。
「なんだ?」
「短刀から文を預かったよ。あと、物吉からも。文机の上に置いているから」
「そうか。確認しておく」
 歌仙は頷き、彼女の寝間着を抱えて部屋を出て行った。


 小鳥の囀り、風でこすれる木々の葉の音。
 外界と同じ時間の流れなのに、ここはどこかゆったりと時が流れているようで、心地よい。
 審神者の中には、本丸の空気はきれいすぎて逆に心地悪いという者も在るが、はここの空気が好きだった。


「主、二度寝かい?」
 壁に背を預けて目を瞑っていると声を掛けられた。
「起きている」
「茶粥なら食べられるかい?」
 ぱちりと目をあけて机に付く。
「遠征の編成に入れても?」
 先ほど置いていた文は机の端に移動していたことに気づいた歌仙が問う。
「合格したらしい。少しローテーションを考えなければな」
 彼女は避けておいた短刀たちからの手紙を歌仙に手渡した。
「最初は近場の遠征にするんだよね。ここ最近は遠くの遠征ばかりにしているから、場所の選定からか」
 手紙に目を通しながら呟く歌仙に「誰を付けるかも考えなければな」とが応じる。




 翌日、朝食の席で主から亀甲貞宗の初遠征の発表があった。









桜風
17.4.22


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