月 11





 いつも床に就く時刻になっても同室の物吉は布団に入ろうとしなかった。
「早く寝ないと」
 亀甲が促す。彼は頷き、布団に潜っていった。
 亀甲は本体を手にして本丸の中をゆっくりと歩く。主の過去を聴いた場所。派手にこけた庭。春は桜の枝を折って主に献上したら近侍に叱られた。枝振りが悪くなるとかなんとか。主が喜ぶならなんだっていいじゃないかと思った。
 冬にうっかり足を滑らせて池に落ちたこともあった。寒くて震えている自分を見た主は「ばかだな」と笑った。
 本丸の外にも思い出はある。主と買い物に行った。暴漢に襲われたとき、彼女を守った。かっこいいと思ってくれただろうか。
 たくさん、たくさん思い出がある。
 ぽたりと雫が廊下の床板に落ちた。右目から零れる涙は止まらない。
「あ、あれ……」
 泣きはらした顔を見せるわけにはいかない。主はあれで優しい人間だ。心を痛めるかもしれない。
 じくりと眼帯の下の左目が疼く。
 この左目は名誉の負傷。誰もが気づけなかった主への凶弾を防いだ証拠。あの近侍でさえ反応できなかった。


 主に告げられた時刻の少し前に鍛刀部屋にたどり着いた。
 一度深呼吸をする。
「ご主人様。亀甲貞宗、参りました」
 部屋の中に声を掛けると「入れ」返ってくる。
「夜中にすまないな」
 顔を向けた彼女を見て亀甲は瞠目した。
「ご主人様、前髪」
「ちょっと邪魔になりそうだからな」
 彼女は前髪をピンで留めていた。いつも隠している左目がよく見える。
 ろうそくの灯に照らされる瞳の片方は少し青みがかっていて、月明かりを連想させる、優しい静かな色を湛えている。
「ご主人様、三冊目がいっぱいになったんだ」
 誉ポイントカードを彼女に渡した。
「もう少しかかると思っていたが、ああ、本当だな」
 ポイントカードの中身を確認して彼女が頷く。
「四冊目を用意するから待っていてくれ」
「……うん。ねえ、ご主人様。ご褒美を頂いても良い?」
「今は諸々持ち合わせはないぞ?」
「ご主人様の御名前を教えてほしいんだ」
「名前?」
 彼女は首を傾げる。
「駄目かな?」
 演練時によその本丸の刀剣男士と話をしたことがある。
 人間は神に名を知られると拙いと考えているらしいと笑っていた。ほとんどの審神者は刀剣男士に自身の本当の名を告げていないらしいという噂も耳にした。
 仲間に聞いてみても、彼女の本名を知っている者はいなかった。誰も困らないから気にしていないという。
 最期に彼女の名を口にしたいと、それが亀甲の願いだった。
 彼女が言ったように、ポイントカードがいっぱいになるには少し時間がかかるだろうと思っていた。
 しかし、先日の出陣で受けた負傷が癒えないことを知った仲間たちが押していった。
 初めてのポイントは、ご祝儀だった。指摘されなければ気づかなかった。
 だが、今回のは誰に指摘されることなく気づいた。これは餞だ。主に刀剣男士としての任を解かれる自分に対する最後の贈り物といったところだろう。
だ」
「へ?」
「ん? だから、私の名だ。氏も要るか? 氏は正直私を縛る呪いだが……」
「え、いや、氏は良いよ。待って。いいの? 教えても」
「お前が知りたいと言ったんじゃないか」
 心外だと言いたそうな表情で彼女が返す。
「秘密だったんじゃ……」
「秘密というか。最初この本丸に赴任して、色々と忙しくて、時間に追われているうちに何人かを迎えていて、その時にふと気づいたんだ。私自身、皆に名を名乗っていないと。だが、初期刀の歌仙に名乗っていないし、今更自己紹介をしてもなと思ってタイミングを逃していただけだ」
「神隠しを恐れて名乗っていないとか……」
「ああ、そういう審神者もいるらしいが。私は別に……ウチに来た刀剣たちが私をわざわざ隠すとは思えないからな。なんとなく、だが」
 あっけらかんと返されて亀甲はぽかんと口をあける。
 意を決しての願いだったのに、普通に頼めば教えてくれる内容だったらしい。
「ふふふ」
 思わず笑いが零れた。
「亀甲?」
「なんでもない。ねえ、様」
「なんだ?」
「僕は、この本丸に来てたくさん思い出ができた。痛いものとか、苦いものもあるけど。僕は、貴女に呼ばれて、貴女の声に応えて良かった」
「そうか? そういってもらえると私も気が楽になる。もっと若くてぴちぴちした審神者のところが良かったと言われたらそれは少し困るからな」
「僕たちからしたら、様は若くてぴちぴちしてるよ。……ぴちぴちって何? 魚?」
 亀甲の言葉に彼女は声を上げて笑う。
「さて、前置きはここまでだ。亀甲、そこの祭壇の下段に座ってくれ」
 刀剣の魂を降ろす際に媒介となる刀剣を置く場所。そこに座れといわれた。
「うん、様。今までありがとうございました」
 深く頭を下げて言うと「ああ、なるほど」と彼女が呟く。
様?」
「お前は盛大な勘違いをしている。が、まあ、説明している時間がない。とりあえず座ってくれ」
「うん」
 頷いた亀甲は彼女に指示された場所に座った。刀は少し離れた場所に移動させてある刀掛け台に置く。
「眼帯を取って目を瞑れ。私が良いと言うまでそのままだ。決して目をあけてはいけない。いいな?」
「はい」
 神妙に頷き、目を瞑る。
 彼女は『盛大な勘違い』といった。期待してしまう。まだここにいてもいいのだろうか。だとしたら、ここに呼ばれたのはなぜか。
 ふと、左瞼に何かが触れた。耳元で微かな声が聞こえる。歌うような音。声。
 心地の良いそれに耳を傾けていると左瞼に触れた何かが無くなる。
「……いいぞ」
 ゆっくり目をあけると暗闇から光のある世界に戻る。眩しくて一度目を閉じた。再度ゆっくりと瞼を明けていく。
「どうだ、見えるか?」
 暗かった左側もよく見える。
様! ……ッ」
 驚いて彼女に視線を向けた亀甲は息をのむ。
「お前の眼帯は要らんだろう。私が使う」
 言いながら彼女は自身の左目に眼帯を当てていた。
「待って、様。その眼」
 彼女の左目は洞となっていた。何も嵌っていない。少し青みがかった、月明かりにも似た光を湛えるそれが彼女の顔から消えていた。
「私たち審神者は、実のところ、刀剣男士という神に捧げられた贄なんだ。私は、贄として神に供物を捧げただけだ。人間の私には合わなかったが、付喪神の亀甲になら合うだろうと思った。正直賭けだったが、適合したみたいだな。だが、二、三日は無理をするな。距離感を掴めないかもしれないからな」
様はそれでいいの?」
「今更だ」と彼女は笑い、言葉を続ける。
「まあ、私はこうして右足も不自由になった。左目は元々隠していたから視界不良という状況は変わらん。何かあったとき、この本丸の誰かが助けてくれるだろうし、気にするな。私の愛刀に鈍はない。全て名刀だ」
 彼女は誇らしげに名刀という。鈍となった自分をまた名刀にした目の前の人間が自分の主だ。
 亀甲は刀掛け台から本体を取ってきての前に膝を付いた。
 不思議そうに見下ろす彼女にすらりと刀を抜いて見せる。
「亀甲貞宗、この刃に懸けて様をお守りすることを誓います」
「大げさだな。だが、これからも頼むぞ」



 解かれると思っていた亀甲が翌朝も朝食の席に着いたのを見て皆は驚きの色が隠せなかった。何より、瞳の色がこれまでのそれと異なっていたのだ。
 そして、最後に大広間にやって来た主の姿を見て皆は察した。亀甲がなぜここに在るのかという理由がそこにあったのだ。

「ところで主。恨み言を口にしても良いんだよね」
 部屋に戻る途中、歌仙が口を開いた。
 今朝、主を起こしに行くと、すでに起床しており左目に眼帯を当てていた。その様子ですべてを察した。
 正直、亀甲に対して思うところがないとは言えないが、それでも主が選んだ方法だと一応は納得した。
 納得したが、やはり思うところが消えず、彼女の厚意に甘えることにする。
「遠慮したいが、まあ、初期刀のお前は殊更思うところがあるだろうな。どうぞ」
「事前に話してもらいたかった。そうすれば、君の瞳をこの目に焼き付けていたのに」
「亀甲のを見ればいい。色合いは変わらんはずだ」
「御免被るよ」
「……すまなかったな」
「君が業腹だったのは、この本丸に在る刀に対する『鈍』という評価だったんだ。それを解消するための方策を君は持っていた。……仕方ないよ」
 おそらく、あれは亀甲貞宗だからというものではない。彼女は、他の誰であっても、たとえ両の目の光を喪ったとしても光を与えただろう。
 覚悟とかそういうのではなく、彼女にとって、それは当たり前の行為なのだ。



 その二日後には道場に向かった。
 手合せをしている者たちの様子を見に来ることはあったが、ここ最近はご無沙汰だった。
 彼女は、隣に立つ歌仙を見上げた。
「まあ、僕が進言したんだしね」
 溜息をついて歌仙は壁に懸けてある木刀を手にした。
「亀甲貞宗、手合せを申し込む」
 道場の中にいた者たちの動きがぴたりと止まった。息を潜めて様子を見守る空気が漂う。
「いいよ」
 休憩していた亀甲が頷いて木刀を手に立ち上がる。
 歌仙が離れたの隣には五虎退が座った。
 審判を買って出た山伏の合図で二人は打ちあう。
「まだやってるのかい?」
 一時間ほど経って道場に顔を覗かせてきたのは燭台切だった。
「昼食か?」
「うん、準備できたんだけど。どうしようか」
「わかった」と彼女が頷き、「そこまで!」と声を張った。
 ぴたりと二人の動きが止まった。
「時間切れだ。亀甲、ポイントカードの四冊目は近々準備する。待っていろ」
 それは亀甲の出陣の許可を意味する言葉だ。
「わかったよ」
 弾んだ声が返ってくる。
「二人は汗を流してからおいで。主は僕が見てるから」
 燭台切が声を掛けるが「ぼ、ぼくが……」との隣にいた五虎退が名乗りを上げる。
「そうかい? じゃあ、五虎退君に任せよう。主、五虎退君にわがままを言って困らせてはいけないよ」
「なぜ私がわがままを言う前提の話をするんだ」
「そうだね、ごめんごめん」
 軽く流して燭台切は道場を後にした。配膳の準備をしに行くようだ。
「お前たちはちゃんと汗を流してから大広間に来い。食事は先に始めておくからな」
 に言われて歌仙と亀甲は顔を見合わせた。確かに随分と打ち合っていた。
「えっと、じゃあ。あるじさま、虎くんに乗ってください」
「おお、これは楽だ」
 道場の扉付近で会話をしている二人に視線を向けてまた顔を見合わせた。
「とりあえず、決着はお預けのようだね」
「主のお許しも出たし、これからもよろしく頼むよ」
 どこか棘のある会話を交わした二人は、主の言いつけどおり風呂で汗を流して大広間へと向かった。









桜風
17.6.17


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