| その日、わたしは神様に拾われたのです。 |
| ざあざあと雨が降り、ひどくぬかるんでいた道の端には黒い塊があった。 女は足を止め、その塊を見下ろす。 「主?」 供を務めていた青年が不思議そうに声をかけた。その問いかけに女は答えることなく、自信を支えている杖を逆さに持ち、その塊、人の子の顎に持ち手を当てて顔を上げさせた。 「主?」 再度供の青年が不思議そうに、その意図を問うように声をかけた。 「歌仙、これを持って帰るよ」 女はそう言って人の子の顎に充てていた杖を持ち直し、歩き出す。 「犬や猫じゃあるまいし」 歌仙と呼ばれた青年はため息を吐きながら返すと「犬や猫なら連れて帰らん」と少しだけ振り返って女が返した。 傘をさしていたのは歌仙だ。つまり、いま「主」と呼ばれている女は雨に濡れている。 「主、待ちなさい。傘を差さずに歩くと濡れるだろう」 歌仙は声をかけて人の子をひょいと抱え上げて急いで歩き出した。 突然視界が高くなり、人の子はにわかに驚いたような反応を見せた。 「主、待ちなさい!」 耳のそばで歌仙の声を聴いた人の子はその視線の先を見た。 歌仙が追いかける「主」の姿。杖を突いて歩くその先には雲の切れ間から一条の光がさしていた。 それは、その人の子が初めて目にする美しい光景。これまで日常的に目にしていた憎悪と悪意。暗く、ひたすら降り続けるやまない雨。 ――神様だ。 人の子は、この初めて「希望」を目にした。 女に追いついた歌仙が傘をさしかけてそのまま会話をせず歩いた。歌仙は自分が抱えている人の子も濡れてしまわないように気にかけていた。 ふと、突然景色が変わった。 山の中を歩いていたはずなのに、背後には門があり、目の前には大きな屋敷がある。 歌仙は抱えていた人の子を降ろし、傘を閉じた。 それを待つことなく女は屋敷に向かっていた。 「おかえりなさいませ、主。少し濡れておいでですね。手拭いをお持ちしましょう」 「ああ、いい。部屋に戻って着替える」 人の子は屋敷の中と歌仙を見比べた。自分はこの先どうしたらいいのかわからないのだ。 「歌仙、それを風呂に入れてやれ」 「僕がかい?」 女の声に少し不服そうな声音で返した彼に「お前が拾ってきたんだ」と女が返した。 「主が持って帰ると言ったからね」と負けずに返す。 人の子は俯いた。再び捨てられると悟ったのだ。雲の隙間から射した一条の光に希望を見出し、そのすぐ後に絶望を味わうのだろうと覚悟した。 「頼んだぞ」 一方的に女がいい、言われた歌仙はため息をつく。 「承知した」 もう聞いていないかもしれないが、それでも彼は了承を口にしたのだ。 人の子は驚いて彼を見上げた。 「さて、風呂に入ろう。確かに、これだけ濡れていれば人は風邪をひいてしまうだろうからね」 苦笑を浮かべた歌仙はそう言い、人の子を抱え上げる。 「あの……」 人の子が初めて言葉を発した。多少驚きを滲ませた視線を向けた歌仙が目にしたのは俯いた人の子だ。 「どうしたんだい?」 「着物が汚れて……」 「ああ、気にしなくていい。すぐにきれいになるからね」 風呂は屋敷に入ってすぐのところにあった。 外から帰ってきた者たちがすぐに汚れを落とせるようにということだ。 歌仙は人の子を降ろして服を脱がせる。帯を解いた彼は固まった。 すっくと立ちあがり、「主!」と慌てて風呂を後にした。その声音はどこか責めているようでもあった。 困ったのは人の子だ。全裸となったはいいが、世話をしてくれるはずだった歌仙がいなくなったのだ。 風呂に入っていいものか悩む。そもそも、風呂などに入ったことはない。 引き戸が放たれたまま脱衣所で呆然としていると「おや?」と声が耳に届く。 視線を向けるとこれまたきれいな青年だった。白い服を着た彼は左右で瞳の色が異なっていた。 「見ない子だね?」 脱衣所に入ってきて人の子を見下ろした彼は首を傾げた。 膝をつき、視線を合わせる。 「名前は?」 人の子には名乗る名がないため、首を振ることしかできなかった。 「ああ、そういえば。先ほどご主人様が人の子を拾ってきたと聞いたね。ということは、歌仙が君の面倒を見るように言われていたんじゃないかい? 歌仙はどこだい?」 人の子は再び首を横に振る。歌仙がどこに向かったかなど知らないのだ。 「そうか。では、君は何をする予定だったのか、て。聞くのも野暮だね。風呂は慣れていないのかな?」 上着を脱いで腕まくりをしながら彼は人の子を浴室に促した。 浴室に足を踏み入れた人の子は怯んだように一歩下がった。 聞いたことはある。風呂というものがあると。 だが、こんなに潤沢に湯が張られた浴槽など想像したことがなかった。桶も底に穴が開いていない。 「風呂は初めてなのかな?」 そういいながら彼は人の子を見たこともない道具の前に座らせた。 「これは、シャワーと言ってね。便利なんだよ。ご主人様の時代にあるものらしいんだけど、仕組みを聞いた陸奥守が作ってくれたんだ。さすがのご主人様も驚いていたな」 思い出したようにくすくすと笑う彼の声は柔らかい。 シャワーから湯を出し、人の子の頭にかけた。雨に打たれた身体がじんわりと温かくなっていく。 「うーん、ご主人様が拾ったと言っていたし、今回は許してくれるかな」 頭上の呟きに人の子がそろりと顔をあげてみると「俯いて目をつむってて」と言われ、慌てて俯き、ぎゅっと目を瞑る。 頭にシャンプーが垂れてきてびくりと身体が反応した人の子に「ごめん、冷たかったかな」と彼が声をかける。 わしゃわしゃと音を立てて泡立て、人の子の髪を洗い、シャワーで流した。 灰色の泡が排水溝に流れていくのを見た彼は少し悩み、「もう一回」と言ってシャンプーを頭に垂らし、再び髪を洗って湯で流してみた。泡の色は少し灰色ががっていたものの、ずいぶんと白に近かったため、シャンプーはこれくらいにしておくこととした。あまり中身が減っているとシャンプーの持ち主、乱がうるさそうだから。 「じゃあ、身体は……手ぬぐいがいるね」 大抵の者は自分用の手拭いを持って風呂にやってくるのだが、来たばかりの者のために脱衣所に誰のものでもない手拭いが用意されている。 共用手ぬぐいを持って再び浴室に戻った彼はそれを十分に濡らして石鹸をしっかりつけて人の子に渡した。 「背中は僕が洗ってあげるから、前は自分でしてね」 手拭いを渡された人の子は体をこすってみると、石鹸の泡が泥のように汚い色をしていて手が止まる。 「もっと強くこすってもいたくないと思うよ。人の子の体はわからないけど、短刀の子たちはもうちょっとしっかりこすってた気がする」 彼に言われて頷き、再び手拭いで体を拭うとやはり汚い泡が流れていく。 手が止まったのを、ひとまず前は洗い終わったという合図だと思った彼が「じゃあ、後ろは僕がしてあげるよ」と手を出してきた。 人の子がおとなしく手拭いを渡すと、彼は一度手拭いをすすいで再びたっぷり石鹸をつけて人の子の背をこすり始める。 「痛かったら言ってね。人間の子供の背中を流したことなんてないんだ」 「だい、じょうぶ」 少し痛く感じていたものの、人の子はそう答え、「それならよかった」と背後の様子に気を向ける。 ざばんと背中を流され「よし、きれいになったかな」と満足げな呟きに人の子は頷いた。 「失礼します」 戸の向こうから声がして彼が「前田かい?」と応じる。 戸が開き、人の子と同じくらいの子供が姿を現した。 「亀甲さん?!」 成り行きで人の子の面倒を見ていた男の姿を見て前田が声を上げる。 「うん。たぶん、歌仙が放ったらかしにしたんだろうね。服を脱がされたまま脱衣所で呆然としていたから風呂に入れさせてみたんだ」 「なるほど。そうでしたか。それについては、歌仙さんは主に叱られています」 「だろうね」 どこか愉快そうに亀甲は頷いた。 「それで、前田はどうしてここに? 君も風呂かい?」 「歌仙さんが叱られているので、僕がその方のお世話をしようと参ったのです。着替えも必要でしょうから、一度部屋に戻ってきましたので、遅くなりましたが……」 「そう。あとは湯船に浸かって身体を温めるだけだから。そうだ、厨に行って何か食べるものを用意しておいてくれるかい? お風呂から出たら腹ペコに気付くはずだ」 「わかりました。下着は如何しましょうかと主に相談したのですが、「今は布でどうにかしてくれ」と返されてしまいまして……」 「わかった、どうにかしよう」 苦笑しながら亀甲が頷き、「では、よろしくおねがいします」と前田は戸を閉めた。 「さあ、体を温めて次はごはんだ」 風呂の湯気で少し眼鏡を曇らせていた亀甲はニコリとほほ笑んだ。 |
桜風
18.5.18