わたしに名前をくれたのは神様でした。




陽 2





 風呂を出た人の子が着替え終わるころには亀甲が指摘したとおりその腹が空腹を主張する。
 腹の虫の鳴き声に亀甲は目を丸くして笑った。
 腹を抑えて赤くなっている人の子に「こっちだよ」と声をかけて脱衣所を出る。


 亀甲は背が高く、人の子は「子供」だった。一歩の大きさが違う。
 亀甲は振り返ることなく歩き、人の子は駆けるようにそのあとを必死についていった。
「亀甲さん」
 行く先に現れたのは小夜左文字だった。
「小夜、どうしたんだい?」
 足を止めて問う彼に小夜は腕を上げ、その背後を指さした。
「追いつけないみたいです」
 指摘されて初めて亀甲が振り返った。
「ああ、そうか。小さいもんね」
 ひとつ頷いた亀甲は人の子に歩み寄り、ひょいと抱え上げて「さあ行こう」と歩き出した。
「君と同じくらいの背丈の子は本丸にもいるけど、置いてけぼりになることがないから気づかなかったよ。悪かったね」
 人の子は首を振り、そして先ほど指摘してくれた小夜に礼を伝えようとしたが、彼はすでに背を向けて廊下の端までたどり着いていた。


 厨に近づくにつれて食欲を刺激する香りが漂ってくる。
 土間に足を踏み入れると手伝っているのか邪魔をしているのかわからない状況の鶴丸がいた。
「おお、それが主が拾った娘か。おもしろそうだ」
「鶴さん、いきなりそんなことを言ったら警戒されちゃうよ。おにぎりで良かったかな?」
 燭台切が亀甲に視線を向けた。
「どうだろう?」
 首をかしげる亀甲に苦笑して燭台切は人の子に白い皿に乗った握り飯を差し出した。
 こくりと唾を飲み込んだ人の子は、しかし動こうとしない。
「ご主人様は?」
 風呂の後は食事。それについて異論はないだろう。拾ったのはこの城の主だ。では、様子を見に来るのだろうと思っていたがその姿がない。
「突然政府に呼び出されたと面倒くさそうに出て行かれました。明後日までお戻りにならないそうで、その間は出陣だけは中止とのことです」
 先に厨に足を運んでいた前田が答えた。
「そうか、ご主人様は留守か」
 少しがっかりしたように亀甲が呟いた。そして、視線を向けた人の子が固まっていることに気づいた。
「どうしたんだい? もしかして、おにぎりが嫌いだったのかな?」
 覗うように燭台切が問うた。
 人の子は慌てて首を横に振る。そうではないと力いっぱい否定する。
「じゃあ、どうぞ召し上がれ。あ、お茶もあるからね」
 そういって急須と湯呑をそばに置いた。
「燭台切、僕にもお茶をもらえるかな?」
 亀甲が声をかけると「オッケー。すぐに用意するよ」とすっくと立ちあがる。
 人の子はゆっくりと、少し恐々と握り飯に手を伸ばした。
 ふっくらとした白飯。海苔も巻いていない真っ白なごはん。稗も麦も泡も混ざっていない白米のみで作られた握り飯。
人の子は一口それに齧りついた。目を丸くし、そのあとは夢中にそれを口に運び、あっという間に皿の上にあった握り飯三つがなくなった。

「いやあ、見事な食べっぷりだな」
 笑いながら鶴丸が呟く。見ていて気持ちのいい勢いだった。
 その声に人の子はさっと青くなり、べたんと額を床板に打ち付けるようにして土下座をした。
「ど、どうした?」
「鶴さん?」
 自分の言葉が原因だと察することができた鶴丸は慌て、燭台切が窘めるように名を呼んだ。
「ぜんぶ、食べてしまいました」
 人の子の言葉に皆は顔を見合わせた。
「うん、あれは君のために握ったおにぎりだからいいんだよ?」
 燭台切が声をかけると覗うように人の子が顔を上げる。
「でも、あんな豪華なおにぎり……」
「豪華? 光坊、何を具にしたんだ?」
「ただの塩むすびだよ。具には好き嫌いがあるかもしれないから何も入れなかったんだ。梅干しくらい入れればよかったかな」
「まっしろいお米だけでした」
 人の子が言うと「ああ、そうだな」と鶴丸が頷く。
「どういうことでしょうか、鶴丸さん」
 鶴丸は前田の問いにひとつ頷いた。
「この娘は白飯を口にしたことがないんだ」
「そうなのかい?」
 亀甲が不思議そうに見下ろせば人の子は頷く。
「この国の人間は米を『銀シャリ』と表現するくらいに価値があるものとしているからな。白米だけの握り飯など豪華な食事なんだろう」
「そういうものなのか」
 亀甲は不思議なことがあるものだといいたそうに相槌を打った。
「ところで、娘。お前さんの名はなんというんだ?」
「そうだね、名前がないと不便だ。教えてくれるかな?」
 鶴丸の言葉に頷いて燭台切も続けて問う。しかし、人の子は首を横に振った。
 二人は不思議そうに顔を見合わせて「言いたくないのかい?」と燭台切が訊ねてみた。
 人の子は再度否定するように首を振った。
「お名前を覚えていらっしゃらないのでは?」
 前田が助け舟を出してみたが、これにも首を振る。
「じゃあ、いつも何て呼ばれていたのか覚えていないかな? それが名前かもしれない」
 燭台切が問いを変えてみると「ごくつぶし」と人の子が返した。
「うん、それは名前じゃないね」
 燭台切が力いっぱい否定した。
「では、そうだな。『ちい』と呼ぼう」
「小さいからかい?」
 鶴丸の言葉に亀甲が問いかける。
「そうだ」
「適当ですね」と前田がため息を吐いたが、鶴丸は「待て待て」と手を振った。
「端っこでも神に名を連ねる俺たちが本気で名を考えて与えてみろ。下手すれば縛ってしまうぞ」
「たしかにそうか。縛られるならまだしも、縛るのは趣味じゃないよね」
 妙な納得をする亀甲に「俺は縛られるのも趣味じゃない」と返して鶴丸は人の子に顔を向けた。
「どうだ、娘。『ちい』と俺たちに呼ばれても嫌ではないか?」
 人の子は目を丸くして固まっている。
 少し待っても反応がないため、「もっと可愛らしいものはどうかな?」と燭台切が提案した。
「好かんか」
 少し肩を落として言う鶴丸に「いいえ!」と人の子は声を出した。
「好きか」
「はい」
「ほら見ろ」と胸を反らせた鶴丸がどこか自慢げで少しおかしくなった人の子はクスリと笑う。
「ですが、この方は主がお連れになった方ですよ。主を差し置いて名を授けるなど……」
 前田の言葉にどこか自慢げだった鶴丸が何やら怯んだが、気を取り直して、「では、仮名だ。主がこのまま『ちい』で構わんと言ったら『ちい』でいいだろうし、別の名を授けるつもりだったのならそちらにすればいい。少なくとも明後日まで主は戻らんし、その間呼び名がないのは何かと不便だろう」と返し、その言葉に皆は納得して主が拾ってきた娘の名前についての話はとりあえず終わりとなった。









桜風
18.5.26


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