初めてあの人が笑ったのです。




陽 4





 人の子がこの本丸で生活をするようになって二十日が経った。
 最初は戸惑いが大きかったちいも、随分と慣れたようだ。箸の使い方もかなり上達した。


「あ、ちい。ちょうどいいところに」
 部屋の前を通りかかると加州に声をかけられた。
「はい」
 足を止めて要件を聞く姿勢を見せる。
「ちょっとおいで」
 手招きされて部屋に入る。
「じっとしてなよ」と言われて大人しくしていると「できた」と上のほうから声がした。
「何を……?」
 加州が触っていたのは髪だ。手を伸ばすと捕まれる。
「こっち」と渡された手鏡で見てみるとかわいらしいリボンで髪が結ってある。
「これ、どうしたんですか?」
「ん? こないだ誉ポイントがたまったから主とデートしてきたの。その時に見つけてね」
「デート?」
「逢引き」
 いたずらっぽく言い直されてちいは目を丸くした。
「内緒だよ」というと、彼女は神妙な面持ちで頷く。
「ははっ」と笑う加州に「ありがとうございました」と頭を下げて慌てて部屋を後にした。
「あんまりからかっちゃだめだよ」
「かわいいねー」
 同室の大和守に窘められたが、加州は気にする様子はなく、ちいが出て行った廊下を眺めて笑った。
 ちなみに、この本丸で「デート」と表現する場合「主と二人で出かける」ということで本当は「逢引き」とはニュアンスが若干異なる。



 いつも面倒を見てくれている亀甲や前田はそれぞれ遠征と出陣で不在だ。彼らがいなくても不便のない生活にはなっているが、少し不安を覚えることはある。
 人が少なそうな場所を探して歩いていると煙の臭いがした。
 ちいは駆けだす。
 火事が起これば住む家をなくす。この本丸に連れてこられる前の生活では、そういった状況を頻繁に目にしていた。
 この本丸は居心地がよく、何より皆いい人なのだ。彼らが困るのは悲しい。
 廊下の角を曲がると縁側に一人座って紫煙を燻らせているこの城の主の姿が目に入って慌てて回れ右をしたが、走ってきた勢いを殺すことができずにバランスを崩して傍にあった柱に腕を伸ばした。

 パシンと音がして視線を向けると廊下から落ちそうになっている小さな子供の姿が目に入る。
 思わず立ち上がろうとして足が言うことを聞かず体を乗り出すことしかできなかった。
 子供は何とか落下することなく姿勢を戻せたが髪を結っているリボンがするりとほどけてしまった。
「あ!」と彼女が手を伸ばしたそれは風に運ばれて紫煙を燻らせている老婆に向かって飛んでいく。
 彼女は器用に杖でそれを掬った。
「来なさい」
 この城の主にそう言われて傍に行かないわけにはいかず、ちいは緊張した面持ちで彼女に近づいた。
「ここに座りなさい」
 足を開いて股の間に座るように促され、ちいは言われるままに座った。
「櫛がないから上手くはいかんだろうが……」
 そういって優しい手つきで髪を梳かれる。
「いや、指どおりがいいな。この香りは、乱のシャンプーを使わせてもらっているのか」
「わかるんですか?」
「頭を動かすな。やりにくい。乱のシャンプーは私が政府に呼ばれたときに買ってくるからな。今使っているものが生産中止になったらしく、同じ香りのものはもうないんだが……そうか、かわいがられているんだな」
 どこか安堵したように呟いた彼女は咥えタバコをしながら器用にちいの髪を結っていく。
「ほら、できた。しかし、お前の髪はさらさらし過ぎでこの素材のリボンだとすぐに解けてしまうぞ」
 終わりの合図として肩をポンと叩いた彼女の声に頷いてちいは立ち上がる。
「加州に自慢してこい」
「どうして?」
「そのリボンは加州のだろう? この間出かけたときに熱心に選んでいた」
「ありがとうございます」
「ああ。それと、歌仙には会うなよ?」
「歌仙さん?」
「ああ。ここのことは皆に内緒だ」
 重々しくいう彼女にちいは頷いてその場を離れた。



 彼女に言われたとおり加州を探していると遠征から戻ってきた亀甲を目にした。
「おかえりなさい」
「ただいま。どうしたの、それ。かわいくできているね」
 まだ自分で見ていないのでどのようになっているのかわからないが、褒められて満更でもない。
「あのおばあさんが」
「おばあさん? ああ、ご主人様にかい? よかったね。羨ましいよ」
「亀甲さんも髪を結ってもらいたいんですか?」
「うん、縛ってもらいたいね」
 こてりと首を傾げる。髪を結ってもらう話をしたのに。何より、亀甲の髪の長さだと結ってもらうのは難しい。
(ああ、だから、縛るって言い方……)
 ちいは納得した。
「ご主人様はどこに?」
「えっと……」
 皆に内緒だと言われた。
 言いにくそうにしているちいを見て何かを察した亀甲は頷き、「もう少し後にしようか」と少し大きな独り言を零した。
 ほっと胸を撫で下ろしているちいの姿にやはり、と納得した。きっと口止めされているのだ。ちいから少し煙のにおいがしている。またタバコを吸っていたのだろう。主には長生きしてもらいたいからできればタバコをやめてもらいたいとは思っているが、本人が辞めたがらないのだから仕方ない。
「それで、ちいはどこに行く予定だったんだい?」
「あ。加州さんのところです」
「では、お供しよう」
 ちいについて歩いていると彼女はさっと自分の背後に隠れた。行く手に見えるのは歌仙だ。
「何かあったのかい?」
 ふるふると首を振るちいに首を傾げ、歌仙に視線を戻した。
「おや。遠征から戻ったのかい。主に報告は?」
「少し立て込んでいるようだからあとで報告するよ」
「立て込んでいる? 僕が把握していない用事でもあったのかな?」
 腕を組んで思案する歌仙は亀甲の背後に隠れているちいの姿に気づく。
「ちいは、どうして隠れているんだい?」
「君のことが嫌いなんじゃないかな?」
 しれっという亀甲に「違います」とちいが反論した。
「では、どうして……ちい、主はどこだい?」
 僅かだが、不本意にも馴染んでしまった主のタバコの匂いがした。
「君は犬か何かかな?」
「うるさいよ。ちい、主はどこだい?」
 ちいは二、三歩後ろに歩いてくるりと反転して駆けだした。
「待ちなさい」
「人の子をいじめてはだめだよ」
 ちいを追いかけて行った歌仙にそう声をかけて亀甲もそのあとをゆっくり追った。


「ねえ、さっきちいが歌仙に追いかけられてたんだけど」
 止めるべきか悩み、何かあったら主が叱るだろうと思って止めなかった加州が亀甲に声をかけた。
 彼もあの二人を追っているように思えたからだ。
「うん、大人げないよね」
「まー、主がらみなんだろうけど」
「そういえば、さっきちいは加州に会いに行く途中で歌仙に捕まったんだよ」
「俺?」
「うん。ご主人様に髪を結ってもらったみたい。それを見せに行こうとしたんじゃないかな」
「主に? え、見たい。俺も追いかけよっと」


「主」
 縁側に腰かけてゆったりと過ごしていると息を切らせている近侍の声がして視線を向けると小脇に人の子を抱えていた。
「ああ、捕まってしまったのか」
「ごめんなさい」
「ちいは悪くない。主、僕に黙ってまたタバコを吸ったね」
「たまの趣味だ見逃せ、流せ。それとも、申告すれば許可が下りるのか?」
「君はもう高齢だ。体に良くないと何度言えば聞いてくれるんだい?」
「あー、悪かった悪かった。あと、ちいを下ろしてやれ」
 小脇に抱えていたことを思い出した歌仙はそっとちいを下ろした。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
 どうしてか、その場の空気が固まった。
「ちいくらいの年齢からみたらご主人様はおばあちゃんだよ」
 追いついた亀甲が不意に会話に加わる。
「第二部隊、先ほど遠征から戻りました」
 改めて報告する。
「もうそんな時間か。では、第一部隊も戻ってきそうだな。ちい、お前は悪くない」
「そうだよ」と歌仙が合の手を入れる。
「どのみち、部屋に戻った私の服についた匂いで歌仙に叱られる。どこで叱られるかの違いだ」
「叱られないようにするということはできないのかな?」
「私の数少ない趣味だ。見逃せと何度言えばわかる」
「主、俺もちいと同じ髪にしてよ。アレかわいい」
「これから部屋に戻るからリボンを持って来なさい」
「やった!」


 歌仙に手を借りて立ち上がってちいのそばに足を向けた。
「ごめんなさい」
「お前は悪くない。むしろ、いやな思いをさせて悪かったな」
 頭をなでてそういう。
「おばあちゃんって言ったことも」
 それについて謝罪されると思っていなかった彼女はきょとんとして笑った。
「いや、いい。はじめて言われたからびっくりしただけだ。私はお前の主ではない。だから主と呼ばせるのは変だからな」
 ちいにじっと視線を向けられた彼女は首を傾げる。
「おばあちゃんって笑うんだ」
「私だって可笑しければ笑う」
 目を丸くして彼女が返した。
「笑ったところ見たことなかったから、怖い人だと思ってた」
 まっすぐな一言にまたしても面喰い、彼女は言葉を失った。
「まあ、愛想は悪いほうかな?」
 歌仙が頷く。
「ご主人様はきれいな人だからね。近寄りがたいところはあるかも」
「お前ら黙れ」
「おや、照れているのかい?」
「歌仙。お前の言葉のどこに照れる必要がある」
「主ー、はやくー」
 部屋に行くとまだ彼女が戻っていなかったため迎えに来た加州が急かす」
「ああ、今行く」と返して彼女はちいを見下ろした。
「ではな」
 目を細めて声をかけた彼女は、杖をつきながら自室へと向かっていった。









桜風
18.6.9


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