政府預かりの薬研藤四郎 3
先日、初めてのボーナスが出た。夏はもう目の前となっている。
役所は窓口業務などもあるため、一斉に休みとなることはない。
このため、民間企業のような『夏休み』はないが、夏休みとして取得できる休暇がある。
好きな日に休みを入れることができるのだ。
大抵は、家庭のある人が優先という暗黙の了解があるが、全くぴったり合うことはないだろうとは気にしていなかった。
室内のコーヒーサーバーの前にあるカレンダーを眺めながら夏の過ごし方の算段を取っていると「くん」と課長が手招きする。
「はい」と返事をしてカップは隅に置き、急いで課長の傍に向かった。
「同じメールが届いていると思うから確認してね」
端末のモニタを指さしているその先を見た。
『研修』という単語が最初にあり、次の文字を見ては息をのんだ。
「これって……」
「まだプロジェクトチームじゃないよ」
ほっと息を吐く。
課長も審神者の適性がある職員だ。色々と知っている。一時的に本丸に赴いたこともあるという経験豊富なところが心強い。
「該当者は全員必須の研修。本当、基礎の基礎。座学しかなかったと思うよ」
そんな説明なかったけどな、と思いながらも「はい」と返事をする。
カップを取りにサーバーの傍に行くと同期が「なんかした?」と揶揄う。
「ううん、研修の連絡が入ってるみたい」
「へー、私にもいつか入るのかな?」
「どうだろう? そうかも?」
実際どうなのかわからない。
自席に戻って落ち着いてメールを確認する。
自分以外に、参考にと審神者適性のある同僚にも送られているらしい。該当者はだけだ。
時間と場所を確認する。
敷地内だが、庁舎が異なる。第三庁舎だ。
そういえば、この建物以外に足を運んだことがない。
何せ、この建物の中ですべて片付くのだ。
同僚の中には、昼食のためによその庁舎に足を延ばす者もあると聞く。
必要なものを確認して、自分の予定表に研修を書き込み、夏を迎えた。
大体の庁舎は背が高い。確実に十階以上ある。だが、この庁舎は三階までしかない。
そして、少し古ぼけているように思える。
同僚でもこちらに足を運ぶ者はないという。元々用事はないし、おそらく意識に上らないのだろう。
入口には、自分の通っている庁舎と同様に警備員の姿はあるが雰囲気が違う。
ここに在るようで無い。そんな感じだ。
IDカードを通してゲートを開けて、印刷したメール文を見ながら指定された会議室に向かう。
「え、ちょっと待って……」
刀剣の付喪神がたくさんいた。
恐らく、本丸所属の審神者に連れられてこちらにやってきているのだろう。
たくさんの神気が充満しているところに無防備に入り込んだ自分に呆れる。
いや、こんなに神気が充満しているとは思っていなかった。普通の、役所の庁舎だと思っていたのだ。
(まずい……)
身体が動かない。
膝をつく。立ち上がろうにも力が入らない。両手をついて体を支えた。
「おい、大丈夫か?」
膝をついて顔を覗き込んできたのは、刀剣の付喪神。これまで何度か言葉を交わした政府預かりの薬研藤四郎だ。
だらだらと脂汗を掻いているが握っている紙を取って広げた。
「……文句は言うなよ」
一言言い置いて薬研藤四郎は彼女を抱えて研修室に向かう。
引き戸だったため、足で開けると室内の者に緊張が走った。
「薬研藤四郎様。その娘は?」
「神気に当てられたんだろう。少し休ませてやってくれ。この研修ってのに来る予定だった役人だ」
彼女の手にあった紙をこの研修の担当者に渡す。
「ああ、なるほど。確かに」
「じゃあ、俺は行く。この建物のことはちゃんと教えてやってくれ」
苦笑して部屋を出ていった薬研藤四郎を担当者は軽く頭を下げて見送った。
少し落ち着いてきたが部屋を見渡すと数人の同期の姿がある。
「大丈夫?」と声を掛けられて頷いた。
「薬研藤四郎様に運ばれてきたのを見て驚いちゃった」
「あ、ああ。あの薬研藤四郎様は初登庁の時に会って。そのあと、何回かお話させていただいたから」
「やっぱり短刀って世話焼きなのかもね」
「そう……なのかな?」
「落ち着いたか」
研修の担当に声を掛けられた。
「はい。大変ご迷惑をおかけしました」
「いや。そちらの課長からこの庁舎の話があると思って説明を怠った。では、研修を始める」
研修の内容は、課長が言っていたとおり座学だ。
「審神者とは」から始まりこの制度の歴史や現状について説明があった。
現状については、外部に漏れると拙い情報が含まれているようで、凄くざっくりとした内容だった。
昼休憩を告げるチャイムが鳴った。
昼食はどうしようかと悩んでいたが、同期に誘われてこの庁舎の食堂に向かってみた。
中々気軽に足を運べる場所ではないとわかったのだ。機会があるなら体験しておきたい。
部屋を出る際に「大丈夫?」と同期に声を掛けられたが頷いてドアを開ける。
場所の特性がわかっているなら大丈夫だ。
食堂に向かうと神気が濃くなる。
「そういえば、刀剣男士も身体があるから食事をとるみたいだよ」と言われて少し驚いた。
彼らは物であり神であり、そして妖だ。
例えば、神に供え物をしてもそれを物理的に食べることはない。実体がないから食べられないという説もあるだろうが、神はその供え物に添えられた人々の信仰の気持ちを糧にすると聞いたことがある。
「お腹空くのか……」
「ああ、はらぺこだ」
不意に声が聞こえてと同期は同時に振り返った。
胃のあたりに手を添えている薬研藤四郎が立っている。
「もういいのか、えっと……」
「はい」と頷くものの、としては名前を憶えられてしまったことに後悔というか、緊張感を覚える。
たった一度、定期券を落とした際に彼が目にした彼女の名前。ありふれた名前で特に憶えやすいものでもないと思っている。
「どうした、まだ調子が悪いのか?」
問われて慌てて首を振った。
調子は悪くない。気持ち悪いのはなくなった。
そして、ふと胃に手を当てている薬研藤四郎の姿を改めて見る。
「ああ、そうだ」
「どうした?」
「先ほどのお礼に、昼食をご馳走させてください」
隣に立つ同期が息をのむ気配を感じる。
何か拙いことを言ったかと内心慌てたが、目の前の薬研藤四郎は「ははっ」と軽やかに笑い、「いいな、それ」と頷いた。
「あの、でも。下っ端役人のお財布事情も考慮していただけると助かります」
の言葉に再び薬研藤四郎が笑い、「承知した」と頷いた。
食堂のラインナップを見ては瞬きをした。
なんだ、この豪勢なあれやこれやは……
自分の庁舎の食堂よりもこちらの方が充実している。しかし、その分お値段も若干高めだと思った。
「薬研藤四郎様は何を召し上がりになりますか?」
「そうだな、カツ丼だな」
何とお財布に優しい!
「特盛で」
「特盛?!」
思わず声を上げた。
「ん? 拙いか?」
「いえ……」
このひょろっとした体のどこにそれが入るというのだ。
「では、食券を購入してきますので」
「俺にもやらせてくれ」
「……構いませんけど」
不審に思いながらは薬研藤四郎を連れ立って食券機の前に立つ。
「ここに金を入れるんだな?」
「はい。特盛なので……900円か」
が900円コインを入れた。
すると複数のボタンが光る。
「へー」と声を漏らした薬研藤四郎がボタンを押す。
取り出し口に紙片が出てきた。
「これを係の者に出せばいいんだな?」
「はい」
「じゃあ、行ってくる」
「はい」
薬研藤四郎の背を見送っても食券を購入した。日替わり定食にした。
ちなみに同期は、薬研藤四郎とともに行動すると決まった時点で「じゃ! 私は売店行くから」と即行逃げた。
「、ここだ」
定食を持って席を探してると薬研藤四郎が手を振ってきた。
ああ、やはり一緒に食事をとるということか。
納得しては足を向ける。
「先に召し上がっていただいても良かったんですよ」
「まあ、冷めると言ってもそんなに時間はかからんだろう。あんたは何を食うんだ?」
「日替わり定食です。今日はチキン南蛮。タルタルソースもたっぷり……なにこれ、なんでこんなにたっぷり? ウチの食堂となんでこんなに違うの?」
途中から自問自答というか、愚痴になっている。
「まあ、いいじゃないか。さあ、食おう」
手を合わせて「いただきます」といった薬研藤四郎がガツガツと天丼を飲み込んでいく。
そう、飲み込んでいくのだ。
ただ、雑な印象はなく、上品にガツガツ食べている。
山盛りのカツ丼はあっという間に空になった。この細い身体のどこに収まったのか。
ブラックホールでも飼っているのかもしれない。
「凄い……」
「ん?」
テーブルの上の爪楊枝に手を伸ばしながらの言葉に反応を示す薬研藤四郎に「いいえ」と一旦言葉を仕舞った。
しかし、気になってやはり問う。
「どうして、カツ丼を?」
「そうだな。あの見本で一番食い応えがありそうだったから、か?」
食品サンプルで最もおいしそうに見えたというのだ。
「なるほど……それで、どうでした?」
「美味かった」
目を細めてに向かって言う。
「……美味かったんだ」
もう一度零した言葉はこれに対してのことではない、きっと。
はそう察して「そうですか」と相槌を打つにとどめた。
が食事を終えるころには昼休憩もそろそろ終わりという時間となった。
「では、薬研藤四郎様。これにて」
深々と頭を下げると「薬研」と薬研藤四郎が言う。
顔を上げて首を傾げるに彼は苦笑を向ける。
「長いだろう? 『薬研』だけでわかる」
「……では、薬研様」
少し沈黙を落として「それでいい」と彼が頷いた。
まあ、そんなに頻繁に会うこともないだろうしともさほど気にせずに「ありがとうございます」と礼を口にして午後の研修に向かった。
桜風
19.9.14
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