香
清々しい朝の空気に不似合いな、本来濁点がつかない音が悲鳴として響き渡った。
寝間着のまま本体と大切な布をひっつかんで近侍は審神者の寝所に飛び込む。
「主、無事か!」
「あ、ごめん。ちょっとびっくりしただけ」
審神者の頭はその性格を表しているように髪が自由気ままに跳ねている。
その傍らには、政府からの遣いとしてたびたびこの本丸にやってくる管狐の姿があった。
近侍はため息を吐いてその管狐をひと睨みする。
「何度も言わせるな。主に話がある時は、近侍の俺を通せ」
「お、マネージャーみたい」と茶々を入れたのは審神者で、近侍はそちらもひと睨みした。
むんずと管狐を掴んで「身だしなみを整えてから出てこい」と審神者に声を掛けた近侍は寝所を出て行った。
審神者の寝所の外には、先ほどの汚い悲鳴を聞きつけて心配になった者たちが集まっていた。
「寝起きにこれを見て驚いたらしい」
先程確保した管狐を軽く掲げると彼らは安心したのか去っていった。
この本丸の近侍は山姥切国広だ。本丸設立以来一度も変わっていない。
執務室で待っていると障子戸が開き、ジャージ姿で「おはよー」とあいさつをしながら審神者入ってきた。その髪はまだ好き勝手跳ねている。
「身だしなみを整えてこいと言っただろう」
「櫛を通してみてこれだから諦めた。無駄なことはしない」
言いたいことは色々とあるが、とりあえずいつものようにため息を吐いてやり過ごした山姥切は管狐に視線を向けた。
これが来るときは大抵ろくなことではない。
「んで、こんちゃん。今度は何したらいいの?」
「はい。今度はとある本丸の様子を探っていただきたいのです」
「とある本丸? 何やったの? 横領?」
「いえ、そうではなく。どうも、審神者の様子がおかしいそうです」
審神者は目を瞑って少し考えた。
「あのさ、こんちゃん」
「何でしょう」
「審神者って大抵どこかしら様子がおかしいと思うんだよね」
「自分で言うな」
うっかりツッコミを入れてしまった。静かに聞いていようと思ったのに、と山姥切は肩を落とす。
「ええ、それは否定しません」
管狐も同意した。
「とはいえ、急に、いつもと様子が異なるということなのです」
「……近侍はなんて?」
審神者の問いに管狐は俯く。
「あ、交代制導入本丸か」
ならば誰に何を聞いて良いかわからないのは理解できると頷いた審神者に「いえ……」と管狐が返した。
「違うの?」
「はい。今回、情報提供してきたのは、宗三左文字なのです。彼はその本丸の近侍ではありません」
「へー、宗三」
感心したように審神者が繰り返す。
「おかしいと思いませんか?」
「うーん、でも宗三って結構情に厚いからね。特に同派の兄弟に何かありそうだったら自分の身を危険に晒してでも動くよ」
ケロッと返されて管狐は少し言葉を失った。
「で、では。その情報提供を取り下げたことに対しては?」
「まあ、順を追って説明してよ。ねえ、山姥切。おなかすいた」
「俺を追い出して話を聞こうとするな。終わったらいくらでも食べさせてやる」
肩を竦めた審神者は管狐に視線を戻した。
とある本丸がある。
その本丸では二か月前に近侍が変わった。その本丸も設立以来、審神者が初めて選んだ刀剣が近侍だった。しかし、その本丸の近侍が折れたというのだ。
以降は別の刀剣が近侍の任を負っている。
また、近侍交代の前に五振りその姿を消した。
その本丸の宗三左文字から情報提供があったのは一か月前。しかし、政府が情報収集している間にその情報は誤りとして取り消された。取り消された、と表現しているのは政府の側でその宗三は初めからそんなものはないと言ったのだ。
政府は困惑し、初めからなかったという宗三の言葉を受け入れようとしたが、だとしたら消えた刀剣はどうなのかという別の疑問が浮上した。
政府は各本丸に所属している刀剣男士を把握しており、増減は政府のシステムに反映されるようになっている。
そのため、この本丸で『何か』はあったという結論になり、その本丸の現状を探って整理しようということになったのだ。
ちなみに、政府に過度に監視されていると反発する審神者が出てくることは目に見えているため、政府が刀剣男士の増減を把握していることは最高機密のひとつである。
「そんで、政府はウチに何をしろって?」
「先ほども申しましたように、その本丸の様子を探ってください」
「んー、探る、ねぇ……」
気が進まないと審神者の顔に書いてあるが、管狐はそれを酌む気はない。
「明日、その本丸と演練をしていただくように手配しております」
「明日?! え、ちょっと待って。ねえ、宗三って確か遠征……」
「帰ってきましたよ」
廊下から声がした。
山姥切が障子戸を開けると遠征から戻ってきたばかりの宗三左文字の姿がある。
「おかえり」
「宗三左文字以下五振り、無事帰還しました。それで、僕に何をさせたんですか?」
「うん、色々整理してまた後で話をするんだけど。明日からちょっとよその本丸でスパイしてきて」
「スパイ……間諜のことですよね」
ため息を吐きながら、凄く面倒くさいという表情を向けて宗三は確認する。
「そう、それ」
「……決まったら声を掛けてください。あと、その髪どうにかしてはどうですか」
「いや、トサカ立ててる宗三に言われたくない」
笑いながら言うと宗三から冷ややかな視線を向けられて審神者は黙る。
「では、失礼します」
「あの本丸の宗三左文字から提供された情報は、端末に送っておきますのでご覧ください」
足音が聞こえなくなって管狐が話を戻した。
「うん、わかった」
「ところで、審神者様」
「なに?」
「朝ご飯は、いなりずしということはありませんか?」
キラキラとかわいらしい瞳を向けてきた管狐に審神者は苦笑する。
「仮にそうだったら、たぶんもうないよ。こんちゃんがウチに来てるのみんな知ってるもん。わたしの朝ごはんも含めてみんなのお腹に突っ込み終わったごろじゃないかな」
「そうですか……では、次回に期待します」
「うん、そうだね。明石なら「ぶぶ漬けは、いかがです?」て言ってくれるかもね」
「茶漬けよりもあぶらげがいいです」
「だろうね。まあ、今回の件については聞きたいことができたらまた連絡入れるからって担当官に伝えといて」
「はい、では失礼します」
ぽん、と管狐は姿を消した。
「……だーから、おなかすいたって言ったのに」
山姥切に視線だけを向けて審神者が呟く。せっかくこの話から遠ざけようと思ったのに、彼はそれを拒否して居座った。結果、あまり気持ちのいい話ではない内容を耳に入れることになった。
「折れた、というのは……例えば遡行軍の襲撃があったのだろうか。主を守るために、という事情があったんじゃないか」
「おそらく、審神者が折ったんだよ。遡行軍の襲撃なら政府が把握しているはずだし、審神者界隈でも噂になる。でも、最近そういう話は聞かない。ということはその線は消える。それに、情報提供っていう言い方してるけど、たぶんその本丸の宗三からの情報っていうのは救助依頼のようなものだったんじゃないのかな」
ぐぅ、と腹の虫が鳴く。
「あー、もう限界。ご飯食べたい」
「そうだな。こんのすけも帰ったし、まずは朝食だな」
審神者の言葉に山姥切は頷き、立ち上がった。
審神者の中には、審神者を監視する審神者として政府に協力している者がいる。
大抵は、何かをやらかした審神者がそれを政府に弱味として握られてそうならざるを得ないのだが、この本丸の審神者はそうではない。
そういう『家』の出身なのだ。ずっとその時の政府に仕えている。
このため、審神者となった今でも政府への協力は拒むことはできず、こうして面倒くさいことを依頼されるのだ。
特別手当でもあれば、と零すことはあるが、基本的にはそういうものはない。
ただ、通常の審神者よりも政府からの情報が多いため、遡行軍への対策がしやすいという利点だけはある。
とはいえ、その分危険なことをさせられるためこの本丸に顕現した刀剣男士たちには申し訳ない気持ちがある。とりわけ、審神者自ら選んだ最初の一振りへの申し訳なさは大きい。
朝食はご飯に味噌汁、そして卵焼き。少し大きな梅干しも添えてある。
「わお、美味しそう」と弾んだ声を漏らして自分の席に座り、「いただきます」と手を合わせる。
「主、今日も見事な髪型だね」
燭台切光忠が笑いながら味噌汁の入った椀を持ってきた。
「あー、諦めって大事だと思うんだ」
「そうは思わないよ。後で整えてあげるからね」
「よろしくー」
身だしなみ、特に髪型について本人はまったく気にしないが周囲が気にする。
ならば、気にする者が何とかしてしまえばいい。
本人が嫌がるわけでもなく、されるがままなので彼らもそんなに強く言わない。
「ところで」と声を潜めて燭台切が話を続ける。
「彼、どうかしたの?」
視線の先は山姥切。もそもそと食事をしている姿は心ここにあらずという様子だ。
「初恋をした」
「ふーん、何かあったの?」
「何、その反応。もうちょっと乗ってくれてもいいじゃん」
「今朝、あの管狐が来ていたと聞いたよ」
「そういうこと」
「なるほど。僕にもお役目はあるかい?」
「今回はないかな。ありがとう、ごめん」
「いいよ。君が好きで選んだんじゃないし。お替り欲しかったら声を掛けてね」
そう声をかけた燭台切は食器を片付けるため、その場を離れた。
食事を済ませた審神者は「先に戻っとくね」とまだ食事中の山姥切に声を掛けて執務室に戻っていった。
暫くして部屋にやってきたのは髪を整えると言っていた燭台切だった。
彼に髪を触られながら端末に送られてきた情報を確認する。
「難しい話?」
背後から声を掛けられて審神者はため息を吐いた。
「ウチに話が来てる時点で大体拗れてる」
「そういえば、そうだね」
何度かこういう任務に駆り出されたことがある燭台切は苦笑しながら同意した。
「いつも悪いね」
審神者が零すと「気にしなくていいよ。僕も楽しんでる」と返されて「こっちは?」と審神者は端末を指さした。
楽しんでいるのは髪を整えることを指しているはずだ。
「お役目だと思っているからそっちも気にしなくていいよ」
「もっと気楽に、歌を歌いながらお菓子を作れるような本丸に顕現出来たらよかったのにね」
「歌を歌いながらのお菓子作りならいつもやってるから心配しなくていいよ」
「たまにすごくきれいにハモってるよね。音源売ったら結構な収入になりそう」
「じゃあ、その売り上げでオーブンと新しい冷蔵庫、あと……食洗器を増やしたいな」
「どれだけ儲けるつもりなんだか」
審神者の言葉に燭台切は笑い、「はい、できた」と言いながら鏡を渡す。
「これまた、手の込んだ……」
「かわいいでしょう?」
燭台切の言葉に頷いていいものかと悩んでいたところに、「遅くなった」と言いながらた山姥切が部屋に入ってくる。審神者の髪を見て目を丸くした。
「かわいいだろう?」
審神者が言うと彼は言葉を探したように「これまた……」と呟いただけだった。
手の込んだ、と言おうとしたがその言葉は何となく飲んだ。
「じゃあ、僕はこれで」と燭台切が席を外し、山姥切は審神者の傍に腰をおろした。
「情報、これ」
端末に送られた情報を山姥切に見せると彼は黙読する。
ひととおり読み終わり、「で。どうするんだ?」と審神者の考えを問う。
「態々政府の方で演練組んでくれたんだから、接触してとっとと終わらせろってことなんだろうね」
翌日、審神者は山姥切と宗三、他四振りを伴って演練のために政府庁舎に向かった。
今回の調査対象本丸は、『美濃-菊-LS11348』と呼ばれている。
最初の地名のような名称は、その本丸が出来てどれくらいかを測る目安になる。あとの花の名前および記号は規則的に付けられているものではないらしい。
その本丸は最初期ではないが、審神者制度が出来てそう間を置くことなく出来たというのがわかる。つまり、審神者はキャリア的に中堅といったところだ。刀剣男士の練度も低くはないと見て間違いはないだろう。
予想どおり、相手部隊には宗三左文字が編成されていた。審神者の姿はない。演練には原則審神者も同席となっているため、欠席理由の記載されている届出書類は出されているのだろう。
演練は、こちらの勝利で終わった。
「どう思う?」
「手を抜かれたということはないだろうな」
あまりにも手ごたえがなかった。だが、相手が手を抜いたという印象もない。
「怪我してんのかな?」
「そうは見えませんけど?」
「例えば、今宗三と山姥切が殴り合って骨を折ったとする。わたしは君たちを直せない。刀の傷ではないから。どうしても急ぐなら、刀を傷つけてしまえば手入れ出来る」
「つまり?」
「昨晩も言ったけど、宗三は自分の身の安全確保を第一に。いいね、約束だからね」
「ええ、わかっています」
「じゃあ、ちょっと窃盗してくるわ」
不穏な言葉を口にした審神者は、調査対象本丸の宗三左文字に声を掛けに行った。
彼は足を止めて審神者と会話をする。仲間たちには先に行くように話したようで、共に留まる者は居なかった。
審神者は懐から紙片を取り出してそれを宗三左文字に当てると、彼の体の力が抜けてそのまま崩れていく。
「おーもーいー」
何とか支えようとしている審神者も一緒に崩れそうだ。
「気を付けて行け」
「ええ。では、また」
審神者を支えるために山姥切が足を向け、宗三は先ほどの調査対象本丸の刀剣たちを探しに行った。
調査対象本丸の刀剣たちと合流して宗三は帰還した。
本丸の敷地に足を踏み入れた途端、悪寒が走った。本丸の、建物のつくりはどこも微妙に違うというのは審神者から聞いている。以前、別の本丸の調査に向かったことがある仲間に話を聞いても同じように言われた。
だから、建物がどうであっても驚くことはないと思っていたが、これは、少し拙いと思った。
空気が淀んでいる。停滞し、澱が溜まっている印象。言葉を変えれば、『穢れている』という状態なのだろう。
建物の中に足を踏み入れ、注意深く観察をしていると「早く来い」と部隊長のへし切長谷部が声を掛けてくる。
この本丸は帰還の報告を全員でするのかと感心しながら「ええ、今行きます」と返して彼らについていく。
「主、へしきり長谷部です。ただいま帰還いたしました」
長谷部が廊下に膝をつき、皆もそれに続く。
「首尾は?」
「申し訳ございません」
暫く長い沈黙が下り、部屋の中から小さく舌打ちが聞こえた気がした。
「もういい、下がれ」
「はっ」と返してへし切長谷部は本体を部屋の前に置く。他の者たちも同じように本体を置いた。
場合によっては、敵しかいない場所で本体を手放すのは避けたいと思うが、この本丸のしきたりなのだろう。これに反すれば調査もできないまま捕縛される。
「遅かれ早かれ、宗三が調査対象本丸の宗三左文字ではないというのは、バレる。だから、バレる前にある程度情報を掴んでトンズラしてもいいし、バレたら緊急事態だって知らせてくれたらいい。必ず助けに行く」
昨晩審神者に言われた言葉だ。宗三は懐に入れている木片とお守りに手を当てる。
何か緊急事態が起きて、逃げられなかったらこの木片を割れと言われている。これが割れれば宗三に何かあったと審神者が把握できるというのだ。
他の者に倣って本体を廊下に置き、宗三は本丸の中を探索することにした。
消えた刀剣はいずれも大太刀だった。どうして大太刀が消えたのか。
ふと、目に入った姿に知らず口元が緩む。
「お小夜」
小夜左文字に対しては、他所の本丸の刀剣であってもどうしてか親近感を覚える。同派だからだろうかと思いつつ、彼に向かって足を向けた。
「宗三兄様は?」
「僕ですが?」
彼は首を横に振った。
早々にバレてしまった。さて、どうしたものかと思っていると手を引かれる。
近くの部屋に連れてこられた。気配を探ってみたが、他に誰かがいる様子はない。
「ここは、元々大太刀の部屋だったんだ」
「そう、でしたね」
どこまで芝居が必要かわからないが、知っている風を装うと「宗三兄様は、逃げられたの?」と問われた。
「逃げる?」
「宗三兄様は、この本丸の、主の変化を政府に訴えたんだ。そうしたら主に見つかって……この本丸の前の近侍は主に折られた。だから、次は僕だと脅されて兄様は政府への訴えはなかったことにしてそのあと」
「折檻されましたか」
こくりと頷く小夜左文字は小さく震えていた。
「ありがとうございます、僕を信じてくれて。あなたも、随分と頑張っているのですね」
膝をついて彼をそっと抱きしめて言う。先程ちらと彼の体に痣があるのが見えた。
「嫌な思いをさせると思います。ですが、この本丸のことを聞いてもいいですか?」
小夜左文字は頷いた。
宗三は言葉を選びながらこの本丸の現状を確認する。
言葉に詰まりながら、それでも小夜左文字は宗三の質問に答えていった。
「お小夜」
優しく名を呼ぶと彼は宗三に視線を向けた。
「あなたは僕を信じてくれました。だから、僕もあなたを信じます。あなたが、この本丸を変えたい、どうにかしたいと思ったらこの木片を割ってください」
「割ったら、どうなるの?」
「そうですね、粗野な壊し屋が慌てて助けにやって来ます」
「壊し屋?」
「壊すことが得意な、まっすぐで優しくて少し間抜けな僕の主です。この本丸に来て驚きました。空気が淀んで悪いものが溜まっているような、そんな感覚を覚えました。大太刀が不在、ということはこの空気をどうにかできそうな者たちはお払い箱となったということなのでしょうね」
宗三の言葉に小夜左文字はこくりと頷く。
「大太刀も折ったのですか?」
「大太刀は、刀解された。それを諫めて……」
「彼は、最後まで『近侍』だったんですね」
ふと、外が騒がしくなった気がする。
「小夜左文字は僕に会っていない。いいですね」
そういって宗三は部屋を出ていく。
手渡された木片に視線を落とした小夜左文字は「本当に、助けてくれるの?」と小さく呟いた。
「待て」
背後から声を掛けられて宗三は足を止めた。振り返るとへし切長谷部が鯉口を切っていた。
「おや、本体を?」
「主命だ」
「何と?」
「この本丸に外部の者が紛れ込んでいる。洗い出して捕縛し、目的を聞き出せとのご下命だ」
「それで、どうして僕に?」
「お前だけではない。今回演練に出た者全員を洗っている。服を脱げ」
「そういう趣味が? というか、あなたがその外部の者ではないという証拠でもあるのですか?」
返しながら宗三はへし切長谷部に足を向けた。
「俺は外部の者ではないと、主自らご確認された。止まれ、宗三左文字」
制止を聞かず、宗三はへし切長谷部のシャツに手を掛けた。釦が飛んでいく。シャツで隠された肌は痣だらけだった。恐らく、この本丸で審神者からの折檻を受けていない者は居ないのだろう。
「ああ、だからあんなに弱かったんですね。そうですよ、僕はこの本丸の宗三左文字ではありません」
目を細めて言う宗三の表情は穏やかだった。これから拷問を受ける者の表情とは思えない。
「同行すればいいんですか? 審神者の元へ行くんですか? それとも、あなたが僕を拷問するんですか? こう見えて僕は口が堅いんですよ」
「俺が」とへし切長谷部が唸るように答えた。
「わかりました。地下牢ですかね。できれば、最初は清潔だといいのですか」
「当分誰も入っていない」
「掃除が行き届いていないということですか」
ため息を吐いた宗三の手を掴んだへし切長谷部が「来い」と強く引く。
「ええ、大丈夫ですよ。本体を取られているのに逃げ切れるはずがないじゃないですか」
ああ、そうかと今更納得した。この本丸の審神者は本体を取り上げて誰も自分の元を去れないようにしているのだ。
「臆病ですね」
「何か言ったか」
「いいえ。何からですか? 鞭打ち? 爪を剥がすやつですかね。他に何がありますっけ?」
「うるさい、ついて来い」
「これは……酷い。当分誰も入っていないって言ったじゃないですか。最近使用した感じですよ。誰ですか、ここで折檻されたのは」
「宗三左文字だ」
「なるほど。気の毒ですね。流石に同情してしまいます」
「宗三左文字はどこだ」
「僕も間違いなく宗三左文字ですよ。写しでも贋作でもない。本物の宗三左文字です」
「この本丸の宗三左文字は何処だ」
「長谷部、忘れているようですから言いますけど。僕たちは物です。置き引きにでも遭ったんじゃないですかね」
左頬に衝撃があり、目の前の星が飛んだような錯覚を覚え、気が付くと体が床に転がっていた。
見上げたへし切長谷部が怒りで息が上がっている。
ああ、揶揄い過ぎたかと思ったが次の瞬間またしても痛みを感じる。
彼は刀を鞘に納めたまま殴打し始めた。
そういえば、殴っただけの傷は審神者でも直せないと言っていたことを思い出す。
「後で本体を傷つけておこう」
ぽつりと呟く。この痛みは持続したくない。
そして、ふと気づく。どうやら自分は、主が助けに来てくれると信じているのだ。何とも幸福なことだ。
思わずこぼれた笑みがまたしてもへし切長谷部の癇に障ったらしく殴打された。
それから数日、毎日宗三はへし切長谷部に折檻された。拷問と呼ぶには単調で、彼は優しすぎた。
いつも地下牢を後にする際に一度振り返り、後悔の色を滲ませて去っていく。
「あなたも大変ですね。僕から情報を引き出せなかったと審神者から折檻されているのでしょう?」
「うるさい」
「あの審神者は、前からああだったのですか?」
「以前は、慈悲深い方だった」
「何かきっかけがあって?」
「わからん」
「いつからああなったんですか」
「二か月……三か月前あたりか。そういえば、宴会にご出席された。それから少しずつ変わったような……」
「宴会? お土産とかなかったんですか?」
「色々あったな。酒は俺たちに振舞ってくださった。あとは……」
「香炉」
宗三の呟きにへし切長谷部は瞠目した。
「なぜ……」
「何となくの勘です。それ、取り上げることはできないんですか。物凄く怪しいですよ」
「だが、主がとても大切にされているものだ」
「そうですか。ま、今日も僕は口を割りませんのでお帰りください」
「また明日来る」
朝食を摂っていると宗三の噂が耳に入った。
どうやら、今いる宗三左文字はこの本丸の者ではなく、どこかの誰かが送り込んできた者らしい。主は、今日宗三左文字を折ることにした。
小夜左文字は思わず立ち上がった。
「お小夜?」
歌仙兼定が不思議そうに彼を見上げる。
「ダメだ……」
「だけど、君の、この本丸の宗三ではないんだよ」
「助けて……あの人を、主を助けて」
譫言のように呟いて小夜左文字は駆けだした。
「小夜、どこに行く?」
身体が固まった。いつも部屋にいる審神者が出て来ている。
白い布で顔を隠していて表情が見えないが、その声を聴いただけで体が竦む。
「お前は、あの宗三左文字がこの本丸の宗三左文字ではないと知っていたのか?」
「ぼ、僕は……」
「お前が、宗三を逃がしたのか?」
「ち、がう」
「では、今私の宗三は何処にいるのだろうね」
「知ら……ない」
「本当に? 嘘をついていない? 私を落胆させない? 私を裏切ってはいない?」
審神者が伸ばしてきた手から逃れるように駆けだし、部屋に向かう。
宗三から預かった木片は部屋に隠している。落としてはいけないと思ったのだ。何の変哲もない木片に見えるから落としたらもう見つけられないかもしれない。
「小夜左文字を追え」
あまり大きな声ではないのにはっきりと耳に届いた主の声に心臓を握り潰されたような痛さを覚えた。
背後から迫ってくるのは短刀たち。皆、恐怖にひきつった顔をしている。
ここで逃してしまえば自分たちが折檻される。
小夜左文字は何とか部屋にたどり着き、木片を取り出した。
「それはなんだ」
「それをちょうだい」
「ください」
「それを渡したら、きっと主が赦してくれる」
ふるふると首を振って拒否した小夜左文字に短刀たちはわっと飛び掛かった。彼は慌てて手の届くところにあった置物を木片にたたきつけた。
その置物は、この本丸の宗三左文字が主から頂いたものだと言って大切にしていたものだった。
まさか、本丸に白洲があるとは思わなかったと思いながら縄で縛られた宗三は感心し、先客があることに驚いた。
「お小夜……」
「ごめんなさい」
「いいえ、あなたは何も悪くありませんよ」
木片がどうなったのか気になるが、ここで口にするのは拙い気がした。
「さて」と姿を見せた審神者は白い布で顔を隠している。審神者の中には、刀剣男士を直視することに躊躇いがあり、同様な手段で視界を鈍らせているものがいる。宗三も演練の時に何度か見たことがあるが、この審神者の布はその意味とは違う気がした。
「これから、この本丸に紛れこんだ宗三左文字及び私を裏切った小夜左文字を処断する」
逃げられては困ると思ったのか、この本丸に在る刀剣たちが二人を囲っている。
「まずは、宗三左文字」
そういって取り出した打刀を見て宗三は腰を浮かせる。
「お待ちなさい」
「取り押さえろ」
審神者の静かな声に反応して傍にいた刀剣たちが宗三を抑え込んだ。
「あなたが手にしているのは僕ではない。へし切長谷部です」
「どちらでもよいことだ。私がこれを宗三左文字と言えば、宗三左文字だ」
「違う! 長谷部、どうして何も言わないのですか。あなたが折られるかもしれないのですよ」
「主の、思うがままに」
「バカじゃないんですか! あなたは近侍でしょう。主が過ちを犯したらそれを諫めるのがお役目。あなたの前の近侍は、正しく近侍だった。あなたは、あなたの主の愚かな行為を是とするのですか」
「では、始める」
「おやめなさい!」
宗三の叫び声と同時に、ズドンと大きな音が鳴り、冬から春に変わるときのような大風が本丸の中を吹き抜ける。
刀剣たちは、本来自分が装備している刀のある箇所に手を運んでいた。
「な、なに?」
混乱するように呟く小夜左文字に「来ましたよ、僕の主が」と宗三は笑みを見せた。
「であえー、であえー。曲者だぞー」
「態々呼ぶな!」
「え、だって。せっかくじゃん。第一、アレで隠密行動できるとか思ってる?」
「出来るわけないだろう。もう少し静かにできないのか」
「んー、苦手」
「努力しろ」
「はーい」
気の抜けるような会話が聞こえてきた。
「主、おさがりください」とへし切長谷部が警戒の色を見せた。
白い着物に白い袴のその姿は、時折審神者自身がまじないとして使用する人型のようだった。
「お、宗三はっけーん」と言った審神者の表情は、振り返った彼の顔を見て変わる。
駆けだして彼の背後に膝をつき、縄を解こうとしたが、きつく縛ってあり審神者はため息を吐いた。
「ダメだ……宗三、本体は?」
「あの部屋の中にあるはずです」
「ちょい待っててね。山姥切、縄斬ってあげて。隣の小夜左文字も」
宗三の言った部屋に向かうと「止まれ」と声を掛けられた。ちらと視線を向けるとこの本丸の審神者が打刀をこちらに向けている。
「止まらねば、この宗三左文字を折るぞ」
「好きにすれは? それはあんたのへし切長谷部だ。ウチの宗三じゃない」
冷ややかに言った審神者は部屋の中に無造作に置いてある刀剣の中から宗三左文字を取り出した。
縄を斬られた宗三は審神者から本体を受け取った。
「どうしてそんなになるまで助けを呼ばなかったの」
「僕にもいろいろと事情があったんです」
審神者は何かを言おうとして、代わりにため息を吐いた。
「そうだ、ちょっとこれ食べて」
審神者が懐から取り出した包みを見ながら「何ですか、それ」と宗三は警戒の色を見せる。
「お団子」
「どう見ても餅の大きさですよね。しかも、鏡餅の上に乗っているくらいありません?」
「お団子」
「ちょっと、これ生ぬるいんですけど」
「わたしの胸の谷間で温めておきました」
「ないでしょ、あなたにそんなもの」
「うるさい、いいから食べて」
不承不承に審神者の言うところの団子を口に運ぶ。
「味がないです」
「いいからー。白米と思って食べて」
色々と文句を口にしながらも完食した宗三は瞠目した。身体の傷が癒えている。
「審神者の力では、本体に傷がついていなければ直すことができないと言いませんでしたか?」
「言いました。とはいえ、そのままでいいと思っていなかったので、政府を誑かして開発させたんだよ。特に、ウチはあんたのところの用事で刀剣男士の身体に怪我を負わせやすいんだからって」
「……他には?」
「『きっとガッポリ儲かるよ』が決定打」
「……なんとまあ、人間の鑑みたいな集団ですね」
「傷は塞がった?」
「ええ、おそらく。ただ、痛みが残りますね」
「了解。それは報告しておこう」
「これは、完成品だったのでは?」
「いや、今の宗三はモニター。もっと意見があったら言って。味がないんだっけ?」
「僕を実験台に使わないでください」
審神者の頬をつねりながら宗三は笑顔で要望を口にする。
「だって、百個くらい寄越せって言ったらモニターになれっていうんだもん。たぶん、宗三怪我してるし、刀剣男士の身体に悪影響はないという話だったから」
「百個?」
「要るでしょ?」
「他にもあるんですか?」
「うん、さすがに団子百個持った状態で戦闘は無理だろうから向こうで堀川に控えてもらってる」
「それを早く言ってください」
「僕が案内しよう。さあ、小夜左文字くん。一緒に来てくれるかい?」
小夜左文字はこくりと頷き、燭台切と共にこの場を去っていく。
彼の姿を見送り「では、主。ついてきてください」と宗三はこの本丸の審神者の自室へと足を向けた。
「貴様、何者だ!」とヒステリックに声を上げるのはこの本丸の審神者で「政府の狗、ってやつかな? わんわん」と軽い口調で返す。
「待て! どこに行く!」
「それ、押さえてて。ちゃんと力加減してよ。あと、部屋の中に刀剣があるからそれも確保。たぶん、ここの全員分だ」と自分の連れてきた刀剣男士に指示して審神者は宗三についていく。
「何があるんだ」
山姥切の言葉に宗三は「見てはいないのですが」と言って明言しないまま部屋に案内した。
部屋の前でいったん止まった宗三は審神者を見下ろした。
「あなたは、穢れに強いんでしたっけ?」
「そんじょそこらの穢れに負けるようなやわな造りじゃない」
「その言葉、信じましょう」
宗三は障子戸を開け、奥の部屋に続く襖を開けた。
ぞぞぞと鳥肌が立つ。
「あ、これは呪もあるけど、普通に薬も使われてる。薬はちょっと私もやばい。空気入れ替えて」
審神者の言葉に従い、彼らは窓を開けた。
部屋の真ん中にはとても大切そうに香炉がひとつポツンとある。
袖口で口を覆いながらそれにそれに近づいた審神者は、「これだね」と頷いた。
「主」と声を掛けてきたのは石切丸で「これは酷い」と感心する。
「四方、皆で祓って来たよ。それは?」
「証拠品として押収すべきもの。山姥切、木箱で回収するからちょっと取って来て」
「わかった」と彼は駆けて行った。
「こちらの僕は?」
「堀川の傍にいるから、無事小夜左文字と再会できたはず。これは、いつどこで? 宗三は知ってる?」
「三か月くらい前に宴会の土産として持ち帰ったとへし切長谷部から聞きました」
「宴会かー……。ま、この先は政府の仕事だから首を突っ込むのはやめよう。面倒ごとに巻き込まれる」
「そうしてください」
「じゃ、この本丸の後始末だね」
さやさやと風が葉を揺らす。
「はぁーーーーーーー」と長いため息を吐いた審神者は徳利に手を伸ばした。
大体政府のあれこれに巻き込まれた日の夜は縁側に出て一人で酒を飲んでいる。後味が悪いことが多いのだ。
「注ぎしましょう」
声を掛けられて見上げると寝間着姿の宗三がいた。
「寝ないの?」
「ええ、寝ますよ」
そういって音もなく審神者の隣に座って猪口に酒を注ぐ。
「時間がかかりそうですね」
何の話か察した審神者は「そうだね」と頷いた。
あの後、調査対象本丸の審神者の処遇について、その刀剣男士たちに問うた。
基本的に、審神者と刀剣男士の間に結ばれた縁により刀剣男士が審神者を害すことはできない。
ただし、その縁を切れる者がいる。それが、自分だと言って話をした。
「主は、どうしてこのようになられたんだ」
へし切長谷部の問いに、審神者は自分の推測だという前置きをして話をした。
「三か月前にこの本丸の審神者が出席した宴会の土産の香炉は呪の道具だった。それが効かない人間もいるかもしれないということも考慮して精神に作用する薬も使われていた。だから、この本丸の審神者は心身ともにぼろぼろの状態で、被害妄想が酷かったのだと思う。けれど、だからと言って、刀剣男士たちに行った行為は赦されるべきだなどというつもりはない。許せないというなら縁を切って刀剣男士の手で命を奪うこともできる。どうするかは、一番ひどい目に遭ったみんなで決めてもらいたい」
「主は元に戻るのですか?」
「薬がどれだけ抜けるか、どの程度の期間を要するのか今はわからない。仮に、『正気』に戻ったとして、自身の手で近侍を折ったことを思い出した時、心が耐えられるかもわからない」
「じゃあ、この本丸の審神者をやめさせることはできるのか?」
「できる。けれども、次の審神者が決まるまではここは政府直轄の本丸となってしまう。生活が制限されるね」
その場では彼らの答えは出なかった。
「殺したいって言うと思う?」
「言わないでしょう。言うなら、あの場ですぐに出た結論です。元々、随分彼らに慕われていたようですよ」
「初めて政府に協力した時、縁を切ってほしいと言われて切ったんだ。そしたら、近侍がすぐさま審神者だった人間の首を切り落とした。コロコロと転がる首を見ながら皆が喝采を上げた。ああ、これがわたしの辿る末路かって思った」
「……残念ですけど、僕はあなたの脂で僕の刃を汚したいとは思いませんよ」
「せめて『血』で」
「肉を斬れば脂も斬ることになります。同じことですよ」
宗三の言葉に審神者はため息を吐く。
「今回は、悪かったね。根拠なく、これは宗三にお願いするもんだって思ったから」
「結果、正解だったと思いますよ。あなたの直感は大抵間違いではありませんから」
「もっとさー、こう……のほほんとできるような本丸に顕現出来ればよかったのにね。こういうの、まだまだあるよ。この本丸が進むのは修羅の道だ」
「見くびらないでください。僕は魔王の刀ですよ。修羅の道ならとっくに経験済みです。何なら、僕の方が修羅の道の先輩です。敬ってください」
「パイセーン」
「それに、どの本丸も遡行軍と殺し合いをしているんです。どこに顕現しようが修羅の道には変わりないですよ。それなら、この本丸は、まあ悪くないと思います」
「うん、ありがとう」
「さて。僕はもう寝ます。主も、あまり深酒をしない方がいいですよ。明日、朝から山姥切の説教なんて聞きたくないでしょう?」
「ところがどっこい。最近は『聞き流す』というスキルレベルがマックスになってしまった」
「伝えておきます」
「やめてください」
「では、おやすみなさい」
「うん、おやすみ。ありがとう」
さやさやと風が葉を揺らす。
「ねよっか」
呟いた審神者は立ち上がった。
桜風
20.2.23
(22.5.8再掲)
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