いちさに 03
| この城の敷地の隅には小さな庵がある。 小ぢんまりとした厨とその続きの部屋である囲炉裏のある板の間、そして奥の間と寝室。 この庵から煙が上がるのは7日のうち2日ほど。 「いち兄、そろそろ朝餉の支度ができるよ」 「義姉上を起こしてきてください」 朝食の支度を手伝ってくれている弟たちに促され、「では」と一期は厨を後にした。 寝室に辿り着くと規則的な寝息が聞こえて一期は目を細める。 「入ります」と声を掛けて襖を開けると案の定まだ布団は小さな山を作っていた。 「おはよう」 声を掛けても反応がない。 毎回の事とはいえ、少しくらいは気づいてほしいなどと思う一期は、これまた毎回のことではあるが、彼女の耳元に唇を寄せて「起きてください、私の奥さん」と囁く。 大抵これで起きるのだが、疲れているのか、彼女は「うん」と返事とも寝言とも判断の付かない声を漏らして身じろぎをしただけだった。 「仕方ない」と呟いた一期は彼女の唇に口吻けを落とした。 ゆっくり目を明けた彼女の目前には一期の整った顔があり、彼女は目を丸くして、そして固まった。 「おはようございます」 予想どおりの反応に一期は上機嫌になり、再び口吻けを落として「起きてください。そろそろ朝餉の支度が整います」と声を掛けた。 「はい!」と真っ赤になって返事をする彼女に一期は「着替えはそちらに置いております。手伝いましょうか?」とからかい、断られたため部屋を後にした。 一期は彼の主と所謂「夫婦」となっている。 と言っても、これは正式なものではなく、城の中では公然とした事実だが、政府が認めたわけでもなく、そういう制度があるわけでもない。 しかし、互いに想い合い愛しているなら夫婦になってもいいではないかとこの城の皆が言ってくれたため、祝言を挙げ、そしてこの庵を建てた。この庵で夫婦として過ごすのは7日のうち2日ほどしかない。 この城では彼女が週休二日制を主張し、それが採用されているので、その休日は彼女の個人的な時間として認められており、その時間をこの庵で過ごしている。 週休二日制も公認の制度ではなく、この城独自のルールではある。 ただし、審神者は城の中のルールを決める裁量があるため、これに関しては政府の承認は必要ない。 このルールを採用した当初、皆は少し困惑していたが、慣れると楽だと好評だ。 この庵では夫婦水入らずで、と気を遣ってくれる仲間たちがいる一方、弟たちは彼女に会えるので必ずやってくる。これについては、一期もさほど気にした様子はない。 「おはようございます」 身支度を整えて彼女が板の間にやってきた。 既に膳の支度が整っており、彼女は慌てて自分の席に着く。 「では、頂こう」と一期が言い、皆は手を合わせて食事を始める。 「義姉上、今日は一緒に碁を打ちませんか?」 「えー、ボクと遊んでくれるんだよね」 「歌留多など如何でしょうか」 義弟たちに声を掛けられて彼女は少し困ったように眉を下げた。 「こらこら。私の奥さんは、私と共に市に行く約束をしているのだから、困らせてはいけないな」 一期の言葉に「えー!」と不満そうな声を漏らす彼らに「ごめんね、随分前から約束していたの」と彼女は申し訳なさそうに断る。 「ま、そういうことなら諦めようや、兄弟」 苦笑して薬研がそう言い、「はーい」と皆はやはり不満そうながらも了解した。 食事を済ませ、弟たちが片づけを請け負ってくれたため、一期と彼女は市へと向かった。 市は早めに行かないと良い品はすぐになくなってしまう。 クスリと隣を歩く彼女が笑った気配があり、「どうかしましたか?」と一期が問う。 「いいえ、なんだか。うん」と彼女は曖昧に答える。 「教えていただけないのですかな?」 顔を覗きこんで一期が言い、彼女は顔を赤くした。 「『奥さん』って言葉、意外と破壊力があるなと思って」 少し早口に彼女が言うのを聞いて「そうですか」と一期は首を傾げた。 夫婦になっても彼女は名を告げてはくれなかった。それが出来ないようになっているらしく、だから何と呼べばいいのかと一期が問うた。 「わたしの時代だと、「嫁さん」とか「奥さん」とかですかね。第三者には、妻とかも言いますけど、相手を呼ぶ時にはそんな感じです」 なるほど、と一期は少しだけ考えて「では、私の奥さん」と彼女を呼んでみた。 面白いほど赤く染まった彼女の顔を見てじわりと胸の内が温かくなったものだ。 自分にとっては温かな言葉であっても、彼女にとって不快なら改めたほうがいいと思い、「別の呼び方が良かったでしょうか」と問う。今更な質問ではあるが、改めるに越したことはないだろう。 だが、彼女は慌てて首を横に振る。 「いいえ、そういう意味で言ったんじゃないです。何か、こう……実感するって言うか。嬉しいけど、恥ずかしいというか。少し複雑なんです。嫌じゃないですよ」 見上げて微笑む彼女に、つられて一期も笑みを浮かべる。 「安心しました。それでは、改めて私の奥さん。今日は貴女に何を贈りましょうか」 一期が問うと彼女は悪戯っぽく笑って一期を見上げた。 「いえいえ、わたしの旦那様。わたしが貴方に何をお贈りしようか考えているところなんです」 一期は目を瞠って彼女を見降ろしていた。夫婦となっても彼女はこれまでと変わらず「一期さん」と呼んでいたので、今の呼び方は不意打ち極まりない。 「……たしかに、これは、破壊力がありますね」 口元を手で覆いながら言う一期に「でしょ?」と彼女は笑って返した。 「では、互いに贈りあいましょう」 一期が手を差し出してくる。 「そうしましょう」 その手を取って彼女は笑った。 |
桜風
(15.10.26初出)
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