花冠をあなたに






「歌仙兼定」
 不意に名を呼ばれて「なんだい?」と視線を向けると、心ここにあらずといった表情の主の姿がある。
「燭台切光忠……薬研藤四郎、髭切、膝丸…………包丁は違うんだっけ? えっと、三日月宗近もか」
「その者たちを連れてくればいいのかな?」
 近侍に声を掛けられて審神者は「ん?」と頬杖をついたまま顔を向けた。
「やはり無自覚かい? 君は、先程から僕たちの名前を口にしていたよ」
「あ、声に出てた」
 手に載せていた顎を上げて姿勢を正した審神者は「ごめんごめん」と続ける。
「何かあったのかい?」
「うーん……。名前って、その人の人となりを示したものじゃない?」
「人間はともかく、僕たち『物』はそういうことが多いね」
「特に刀剣って、名前に由来があるものが多いなって思って」
 先程口に出していたのは、名前の由来が何かを斬ったとかその姿を表したものだ。
「ただ、その由来が本当かどうかは定かではない場合もあるよ。多くは言い伝えだ」
「それはそれでいいと思う。だって、物が語るから物語。物を語るから物語なんでしょう?」
「なるほど」
「人が最初に親からもらうものって名前なんだよね。こういう人になってほしいとかそういう希望や願いがこもっている。少なくとも、態々付ける名前にマイナスの思いを込めることは少ないと思う。せめて『期待はしないけど』くらいの感情じゃないかな」
「それで?」
「どうして、名前を捨てたんだろう」
「ああ、かの太刀の話か。随分と気にしているようだね。妬けてしまう」
「ご冗談を」
 最近この本丸に押しかけて所属した太刀がある。彼は、有名な名を持っていたが、それを名乗らなかった。審神者は、その有名な名を知っていたためどうして名乗らないのかという疑問がずっとついて回っている。
「刀剣男士は、伝承や逸話などの物語がその存在の裏付けとなっている。本当か嘘かわからなくても伝説として人々の間で『そうだ』と信じられたらそれはその刀剣男士を形作るひとつの要素になる。本体が実在するかどうかは、この際大きな問題じゃないでしょ?」
「本体がある方が、物語の裏付けが強くなるとは思うけどね。語られる機会が多い」
「それはまあ、否定できない、かも……」
「それに、かの太刀の場合それを否定したのは人間の方じゃないか」
「否定したのは確かに、人間だよ。というか、人間以外否定のしようがないよ。でも、でもだよ。刀剣男士の その存在の核となるのは、さっき言った伝承や逸話などの物語なら、今名乗っている名前よりも物語で描かれた名前の方が遙かに人々の間に浸透しているんじゃないかな」
「君が知らないだけじゃないのかい?」
「ぐぅ」
「本人に聞けばいいじゃないか。どうして『菊一文字』と名乗らないのかと」
「デリケートな問題だったらどうするの」
「君が悶々と一人で考えを巡らせるよりは余程答えに近づけるよ。この際、不躾と思われても仕方ない覚悟で尋ねれば問題解決だ」
「他人事だと思って」
「妬けてしまうと言ったよ」
「気を付けまーす」
 審神者は立ち上がり、執務室を出ていった。廊下に一歩足を踏み出して「さっむ」と零し、そのまま部屋から遠ざかる。梅の蕾がほころび始めたとはいえ、日が傾くとやはりまだ冬の気配が濃くなる。

 この本丸の審神者は、所謂初期勢だ。まだ歴史の浅い『審神者』という立場で日夜歴史修正主義者からの現在の歴史に対する侵攻を抑えている。
 まだ成年ではない彼女はそれでも大人顔負けの度胸と冷静さでここまで無事に本丸を率いてきた。彼女の将としての才能は刀剣男士たちの認めるところであり、政府からの評価も高い。しかし、彼女は、政府からの評価の高さを厭うている。
「誰かに褒められたくてやっているんじゃないのに、褒められたらそれを目的にしているように思われて嫌だ」というのがその理由だ。少し、天邪鬼で気が強いところがある。
 審神者は自室に戻り、本棚を眺める。
 今の時代、物語は基本的に電子機器で表示し楽しむものだ。紙媒体の書籍は珍しい。
 しかし、彼女は紙媒体の書籍を多く所持している。電子機器で表示する文字はどこか味気ない。情報を得る目的の書籍なら電子機器で表示する方が便利だとは思う。しかし、物語は違う。紙媒体だとこの物語があとどれだけで終わってしまうかなど内容以外にも楽しめる部分がある。彼女は本棚から一冊の本を取り出した。随分と昔に描かれた時代小説。何度も何度も読み返しているため、他の本に比べるとずいぶんと草臥れている。大まかな歴史の流れに沿ったフィクションだ。天才肌の少年剣士が菊一文字という刀剣を使って戦っていく。書籍が発行された当時、とても人気があったときく。だからこそ、この少年剣士が使った刀剣が菊一文字だと多くの者が認識した。それが史実だと誤認されていたくらいだ。否、史実ではないという明確な証明もされていない。万が一、億が一にもその可能性はまだ残っているのではないだろうか。今でもそんなことを思っている。

「名前? 主はまだ気にしているのかい?」
 夕食を作るため厨に向かった歌仙が雑談として先程彼女が気にしていたことを話してみた。一部の間では彼女がかの太刀の名を気にしていたことは周知の事実で、いまだに気にしていることに驚きを覚える者も少なくない。
「主は、名前を大切にしているからね」
 本人が口にしたとおり、名前は、彼女の中では親からもらった大切なものなのだ。名付けた親が死別していることが、より一層彼女が名前に執着する理由となっているのかもしれない。
「そういえば、そろそろご実家から手紙が届くんじゃないかな?」
 彼女の実家からは毎月手紙が届く。このご時世に手紙というのは何とも古風で一周回って新しい。
 彼女が本丸に赴任したときから一度も欠かさず毎月一日に手紙が届いている。その手紙が届くと彼女は万屋に行き、返事を書くための料紙を買い求める。季節感があったほうが良いという理由で、手紙が届いてから買い求めているため、毎月上旬に必ず彼女の供として誰かが万屋に赴いている。
「だったら、今回の供をあのじじぃに指名したら?」
 夕食の配膳を手伝っている加州が言う。
「たしか、まだ万屋に行ったことがなかったはずだし、ちょうどいいじゃん」
 不躾に直球で訊くことができるかどうかは彼女次第だが、今のように悶々と考えるよりはいいだろう。少なくとも、そろそろかの太刀と交流を深めてはどうか。
 大抵、刀剣男士がこの本丸に所属すると彼女は話を聞きに足を運ぶ。だが、今回の一文字則宗とはまだ話をしていないようで、同室の山姥切長義に確認をしてみても、かの太刀を尋ねて彼女が部屋に来た様子はないとのことだった。
 彼女の元に手紙が届いたのはそれから三日後のことだった。
「明日万屋に行きたいけど、大丈夫かな」
 手紙を読み終わった彼女が近侍に声を掛けると「わかった」と返事がある。
 翌日の執務が終わった後、着替えた彼女が門の前に行くと、そこには一文字則宗がいた。
「ん?」
「やあ、主。今日は僕が供を仰せつかった。よろしく頼むぞ」
「ん?」
 昨日「わかった」と言ったのが歌仙で、大抵は歌仙が供になるため彼が待っていると思っていたのに、違う者が供になるという。諮ったな、と思ったが特に大きな問題でもないため「よろしく」と彼女も返した。
門を出て城下町を歩く。
 どの時代のどこなのかは政府から教えられていないし、知らなくても問題ないという。実際に存在していた町ではなく、審神者のための町。人々の営みもあり、現実と虚構が綯交ぜになった不思議な空間だ。街並みの様子は、江戸時代と呼ばれる時代のものに似ていると誰かから聞いた。
 しばらく歩いて到着したのが、目的地の万屋だ。
「毎月手紙が届くらしいな」
「監査官殿はそういうの知らないの?」
「山姥切長義はどうかわからんが、僕はそういう細かいところは調べていない」
 本丸に在る元監査官二振りは随分と性格が違うようだ。
 審神者は毎月足を運んでいる一画に向かい、料紙を選ぶ。今回は梅の花の紋様の透かしが入った薄紅色のものにした。
「一文字則宗は何か欲しいものある?」
「欲しいものはないが、見て回ってもいいか?」
「勿論」
 彼の興味を引くものが多くあったらしく、暫く店内を歩いた。
 万屋は基本的には審神者が必要とする道具を販売している。お守りや手形などだ。しかし、それ以外にも日用品が多く陳列されており、時折「どうしてこんなものがあるのだろうか」と足を止めてしまうこともある。
 一文字則宗は気になったものがあれば審神者に使用方法や用途などを尋ね、彼女はわかる範囲内で答える。知らないものは「知らない」と返してみたが、彼は特に気分を害すことはなかった。
「ふむ」と彼が足を止めた。
「満足?」
「ああ、とても」
「欲しいものはなかった?」
「今はな」
「じゃあ、お会計済ませてくるね」
 そう声を掛けて審神者は店主に声を掛けに行った。
 店を出ると遠雷が耳に届いた気がして振り返る。
「どうかしたか?」
「雷の音が聞こえた気がしたから」
「ああ、確かに聴こえたな。だが、あんなに山がはっきりと見える。雲の流れは違うんじゃないか?」
 一文字則宗が扇子で指した山は確かにはっきりと稜線が見える。たしかに、雨が降るときは、大抵あの山に雲がかかっている。彼女は納得してひとつ頷いた。
「寄り道する?」
「いいのか?」
「歌仙が一緒に来てくれる時は、大抵まっすぐ帰るけど、時々陶器屋さんに寄ってる。他にも寄り道が大好きな人とかいるから」
「では、遠慮なく」
 万屋に向かう途中、一文字則宗は随分と楽しそうに周囲を見渡していた。特に変わったものがあったとは思えないが、政府庁舎で過ごしていた時よりは開放感があるのだろう。長義も本丸に所属して暫くしてそんな風に零したことがある。
 一文字則宗が足を向けたのは扇子屋だった。
「何本も要るの?」
「お前さんだって気分で服を変えるだろう?」
 そんな風に言われれば何となく納得した。実用ではなくオシャレなのだ。
 店内に入ると色とりどりの扇子が飾ってある。デザインもモダンなのからクラシックなものまで幅広い。一文字則宗が扇子を選ぶ傍ら、彼女は興味を引いた扇子を手に取っていた。開くと白檀の香りがした。香が焚き込められているようだ。
「歌仙が好きそう」
 いや、彼の場合は自分で調香をしそうだ。
「お前さんはそれにするのか?」
 背後から突然声を掛けられて肩を震わせる。
「あ、ううん。素敵だったからちょっと広げて見てたただけ」
 元のとおりに畳んで棚に戻す。
「そっちは良いの見つかった?」
「保留だな」
「じゃあ、帰ろうか」
 店を出ると、辺りが随分と暗く、空を見上げると厚い雲で覆われていた。
「これは一雨来るかもしれないな」
「急ごう」
 二人は駆け足で本丸に向かったが、突然ピシャンと木を割くような音がしたかと思うと、桶をひっくり返したような大水を浴びることになる。
 一文字則宗は急いでストールを審神者の頭にかけて手を引いて走ったが、途中からは抱えて走り始める。その方が早い。
 本丸の門をくぐると雨はぴたりと止んだ。足元に水たまりを作る一文字則宗は審神者を降ろした。
「濡れ鼠になってしまったな」
「うん。私はこれのお陰で被害は小さいけど」と言いながら彼が掛けたストールを手にする。随分と水を吸っていて重い。握っただけでパタパタと雫が落ちる。
「料紙も無事ではないだろうな」
「たぶん、大丈夫。油紙に包んでもらっているし、ここまで酷い土砂降りではなかったけど、前にも雨に降られても無事だった。それに、少し濡れてても臨場感があっていいでしょ」
「それならいいんだが……」
「おや、おかえり。外は雨だったんだね。少し待ってなさい」
 審神者の気配を察して歌仙が門まで出迎えに行くとそこには濡れ鼠が二匹。そのままだと入口から風呂場まで水を滴らせて歩くことになるため、ひとまず水を拭えるタオルを取りに戻った。
「うわ、凄いな。外、そんなに降ったの?」
 様子を見に来た加州が目を丸くすると「今の時期にしては珍しいくらいの土砂降り」と審神者が返して小さなくしゃみをひとつした。
「タオル取って来る!」
 慌てて回れ右をした加州が戻ってきた歌仙とぶつかりそうになった。
「どうしたんだい?」
「タオルを取りに行こうと思ったんだけど」と言いながらタオルを受け取り、一文字則宗に一枚投げて自身は審神者の頭を拭く。
「思ったほど濡れてないね」
「一文字則宗がストールを掛けてくれたから」
 彼に視線を向けると雑に髪を拭いてるその腕に水を含んで重そうなストールがある。
「主、料紙を預かろう。風呂で温まっておいで。着替えは後で持って行くからね」
 歌仙に言われて彼女は万屋で購入した料紙を渡し、加州が拭いてくれていたタオルを受け取って風呂に向かった。
「じじぃも入ってきなよ」
「ああ、そうさせてもらおう。ところで、僕はどうして主の供に指名されたんだ? どうも主からの指名ではなかったようだけど」
「道中、主から何も聞いていない?」
 加州の言葉に「ああ」と彼が頷く。
 加州は振り返って歌仙を見た。彼は苦笑して肩を竦める。
「いつか主から話があると思う」
「重い話か?」
「主が重い話だと思ってるんだと思う。とても思いやりのある子だから」
「そうか」と相槌を打って一文字則宗も風呂に向かっていった。主用の風呂と刀剣男士用の風呂は別にあるため、彼女が出てくるのを待つ必要がない。

 季節は移ろいで、雨の日が多くなる。
 その日はしとしとと雨が降る中、審神者は廊下に出て読書に耽っていた。蒸し暑いが、雨が降っている分、少し涼しく感じる。
「珍しいな」と声を掛けられて顔を上げる。
 一文字則宗だった。
「何が?」
「本だ」
「ああ、うん。審神者になるときに持ってきてたから。新刊も手に入るようだったら買ってるの」
「端末で読む者が多い中、お前さんは古風なんだな」
「そうかな?」
 はにかむように笑う審神者に「何を読んでいるんだ?」と一文字則宗が彼女の傍に腰をおろしながら問うた。
「一年くらい前に出た恋愛小説。この出版社は少数だけど紙の本を出してるんだ。やっと時間がまとめて取れそうだから読んでるところ」
「恋愛小説。当世の愛について綴られているのか」
「愛、よりも恋の方かも」
「愛と恋の違いをお前さんは知っているのか?」
 不意に問われて審神者は言葉をなくす。感覚でこれは恋、これは愛というのはあるが、言語化するのは凄く難しいし、「知っている」と言えるほどそちら方面の経験がない。あくまでも想像だ。
「知らない、と思う」
「そうか」
 相槌を打ったが一文字則宗はその場を去ろうとしない。読書に戻っていいのか判断できずにいると「お前さんは」と彼が口を開いた。
「どうしてこんな天気に読書をしているんだ?」
「晴耕雨読」
「なるほど。では、どうして梅雨という快適とは少し離れている気候を取り入れているんだ? 本丸の気候は審神者が自由に選択できるのだろう」
「たとえば、本に『バケツをひっくり返したような雨』って書いてあったとする。おそらく凄い大雨なんだろうなという想像は付くけど、実体験していたらもっと物語の中に入れる。雨に打たれたら痛いとか、蝉しぐれで耳が痛くなるとか。たくさんの表現を体験出来て初めて自分の物にできるのかなと思う。物語は実体験がなくてもいろんな体験ができるものだって思ってるし、そこが良い所なんだけど。体験したことがある方がもっと楽しめると思うから。あと、梅雨は桑名が絶対に必要だっていうから。美味しい作物ができるためには雨も必要だし、日差しも必要になる。だから、人間の快適だけを優先してはいけないと言われて。理由としては、こっちの方が大きいかも」
「美味い食事のために不便を取るのか」
「ご飯は美味しい方が良いじゃん。それに、現世に居たらこちらが嫌がっても梅雨はあるし、茹るような夏があるんだからこの本丸が特別不便っていう話じゃないよ」
 彼女の言葉に「ふむ」と納得したように頷いた一文字則宗は「ところで」と話を変えた。
「お前さんの持っている本を貸してはくれんか?」
「本? ジャンルの指定ある?」
「お前さんはどんな本を読むんだ?」
「色々。海外で出版された物語の日本語訳とか、昔の、平安時代に書かれたとされている物語の現代語翻訳も読むことあるな。あと、今読んでるような恋愛小説とか、ティーンズ向けのSFも。それと……時代小説」
「お前さんが持っているもので一番新しいのは?」
「今読んでるシリーズかな。これ、五冊目」
「では、それを貸してくれんか」
「一巻からってことだよね。いいよ、後で部屋に持って行くよ」
「今からでは無理か?」
 問われた彼女は苦笑した。
「ダメ。だって」というと遠くから走る足音が近づいてきた。
「くそじじぃ!」
「あなた馬当番じゃない」
「サボんなよ」
「ふむ、バレてしまったか」
「はあ?! て、主。もしかして主がくそじじぃを呼び出したの?」
「ううん、サボってた一文字則宗が本に興味を示したの」
「じゃあ、連れてっても問題ない?」
「まったく、これっぽっちも」
「おいおい、つれないじゃないか」
「畑当番よりましでしょ? 厩には屋根がある」
「でも、主。雨の日は馬糞の匂いがこもるから馬当番もそれなりにきついよ」
「そっか。じゃあ、手伝ってみる」
「え、汚れるし臭いよ」
「何事も経験だ。特に、主のような若者はな」
「私はあくまでお手伝いだからね」
 釘を刺しながら本に栞を挟んで立ちあがった審神者に「ここに置いていて大丈夫なのか」と一文字則宗が問う。
「ここまでは雨が降りこまないから、後で回収すれば大丈夫。回収しなくても誰かが見つけたら部屋の前に置いてくれると思うし。本丸にある本は基本的に私のだからとりあえずは私の部屋に集まってくる。ほら、行くよ」
「ねえ、主。本当に行くの? くそじじぃだけで良いんだよ?」
「仲間に入れてよ」
「仕方ない、行くか」
 重い腰を上げて一文字則宗は立ち上がり、彼に続いて審神者が歩きだして加州が追いかける。

 残暑というには厳しい暑さが続く中、審神者はふと手を止めた。そろそろ重陽だ。
「ねえ、歌仙」
「なんだい」
「どうして重陽は菊酒を飲むの?」
「菊の花が邪気を払い長寿に効くと言われているからじゃなかったかな? 門外漢だから正確なところはわからないよ。こういうことも、君の方が詳しいと思っていたのだけど……。というか、いまだに菊の名の理由を聞いていないそうだね。もういいのかい?」
 揶揄われた審神者はため息を吐き、「半年以上前にした会話をもう一度する?」と歌仙に返す。
「いいよ。僕は、「不躾と思われても構わないじゃないか」と言えばいいんだね?」
「良くない」
「あの頃に比べれば随分と会話をしているし、時折彼を伴って万屋に出かけているじゃないか。少しは打ち解けただろうし、構える必要はないのではと思っていたのだけど」
「出かけているのは、趣味が同じだったからね」
 一文字則宗は読書が好きだった。政府庁舎にいたときは、残念ながら本は置いていなかったため、仕方なく端末で読書をしていたらしい。そして、この本丸に押しかけてきて審神者が本を所持していて読書が趣味となればいい話し相手ができたと思うものだ。しかも、話し相手はジャンルにこだわりがなく、物語は勿論、随筆や専門書、所謂HOW TO本も嗜むという。話題に事欠かない。
「君は、どうして『菊一文字』に拘るんだい?」
「私、母が早くに亡くなったから家で大人しく読書をして過ごすことが多かったの。たくさん本を読んでたけど、その中の時代小説に出てきたのが『菊一文字』。審神者になるまで歌仙兼定という名刀が世の中にあるなんて知らなかった私が唯一知っていた名刀。だから、たぶん、審神者になるとき、心のどこかで菊一文字にも会えるかもしれないって思ってたんだと思う。憧れの有名人に会いたいというファン心理だったんだよ」
 歌仙はちらと廊下に視線を向けた。しばらく間を置き、「では」と続ける。
「彼が菊一文字ではなかったからがっかりしたのかい?」
「がっかり? しないよ。こちらが勝手に期待していたことだし。加州と安定に出会ってから『菊一文字』を調べてみたことがあるから、余計に「あなたは菊一文字よ」なんて押し付けられない。まあ、名前はそのものの在り方を示すもの、その存在の輪郭だから他人がとやかく言うものでもないってのはわかっているんだけどね」
「だが、君は菊一文字が良いのだろう?」
「菊一文字が良い、というのではなく理由が知りたいだけ。菊一文字を名乗りたくないならそれでいいし。そもそも、政府の管理している名簿には『一文字則宗』で登録されているから彼がどう名乗ってもオフィシャルには『一文字則宗』だよ」
「なるほどね」と歌仙が相槌を打つと端末から電子音がした。政府からの定時連絡の受信音だ。
 大抵が戦況だが、時折これからの見通しなどもある。
 目を通していると「主よ」と廊下から声がした。
 障子戸を開けて姿を見せたのは一文字則宗で彼が手にしているのは先日貸し出した恋愛小説の最新刊だ。
「これの続きは出ていないのか? 発行からもう一年近く経っているぞ」
「それが最終巻だよ」
「待て待て。全く解決していないではないか。アヤとカズの想いはそろそろ通じる、そんな伏線があるぞ。それに、二巻で出てきたオミとカズのやり取りが少し気がかりだし、他にも名前だけ出てきた、確か……アキラ。そう、アキラの存在もふわっとしすぎている。アキラは何のために作中に出てきたんだ? これで完結というなら、随分と中途半端だ」
「ご意見ごもっとも。でも、その作者、その本が発行された月に亡くなったんだよ。プロットも見つからない。編集者とも詳細な打ち合わせをしていない。つまり、続きはその作者の頭の中にしかなかった。続きを、という声が大きかったから出版社も他の誰かに書いてもらおうかという話もあったんだけど、それを反対するファンも多数いて。結局、それが最終巻」
「……そうか。亡くなったのなら、仕方ないな」
「でも、だからみんなが納得する結末が迎えられたんじゃないかっていう意見もあったよ。今までの話だと、さっき一文字則宗が言ったようにどう転ぶか全くわからない状態でしょ? だから、読者が自分の納得する結末を想像して完結させることができた。そういう意味で、全員にとっての「めでたしめでたし」を迎えられたという説がある。まあ、これはこれまでの物語を楽しんでいた人にとっては少し納得いかない理屈だと思うけど。その本、有名作家の間でも人気だったから、追悼アンソロジーみたいな本が出てるんだよ。それぞれの作家が思い描く結末を一冊の本にまとめたものなんだけど、読んでみる?」
「ああ、ぜひ」
「じゃあ、仕事が終わったら部屋に持って行くから大人しく待ってて」
「今からでは難しいのか?」
 逸る思いを口にした彼に審神者は苦笑し、歌仙はため息を吐いた。
「元監査官殿」
 歌仙が低く呼ぶ。
「主は、今執務中だよ」
「あ、ああ。そうか。そうだな」
「そうだよ。優がもらえなくなっちゃう」
「お前さんを評定する監査官は当分現れんさ」と返した一文字則宗は部屋を後にした。

 執務を終えた審神者が一文字則宗の部屋に向かう。
「ごめんくださーい」と障子戸の前で声を掛けると中から出てきたのは長義だった。
「一文字則宗は?」
「さあ? 俺もずっと部屋にいたわけじゃないけど午後からは見ていないな」
「そっか」
「渡すだけでいいなら預かるけど」
「いいよ、また来る」
「わかった。彼に会ったら主が来たことは伝えておくよ」
「よろしく」
 本を持ち歩いたまま誰かの手伝いをするわけにはいかず、審神者は自室に戻った。
 彼に貸すために本棚から本を出したままにしていたため、随分と部屋が散らかっている。片付けようと手を伸ばした雑誌に捕まり、そのまま読み耽る。数年前の物で情報としては古いが、掲載されていたコラムに興味を引かれてその雑誌は処分しないまま取っていた。当時は感銘を受けた内容だったはずなのに、今はさほど心に響かない。感性というのは変わっていくものなのだなと思っていると「主よ。一文字則宗だ」と障子戸の向こうから声を掛けられた。
「はーい」と返事をして向かおうとすると障子戸が開く。
「これは……」
 目を丸くした彼に「いや、探し物をしたらこうなっただけでいつもではない」と慌てて言い訳をする。
「こんなにも所蔵があるのか」
「そっちかー」
 苦笑しながら彼に渡す予定だった本を差し出した。
「これが追悼本。本編も一巻から持って行く?」
「ああ、頼む」
 彼女は本棚の前に戻り、書籍と取り出していた。
 部屋の入口に立ったまま待っていたが、本棚が傾いていくのに気づいて彼は思わず駆けだした。
 下段から本を出し過ぎており、上段にはまだ本が並んでいるため重心が悪く、彼女の肩がぶつかっただけで倒れてしまったのだ。
 バサバサと本が落ちていく中、彼女は自身の頭を抱えることをせずに咄嗟に手を伸ばして落下した本を受け取っていた。何度も読み返してボロボロに草臥れている時代小説だ。
「主、無事だな」
「頭痛い」
「打ち所が悪ければ死ぬぞ」
 本棚を起こしながらそういった一文字則宗は、彼女が手を伸ばして受け取った本に視線を向けた。タイトルには馴染みがある。
「いたた」と言いながら体を起こしている彼女に「一文字則宗はいやか?」と問う。
「へ?」
「随分と読み込んでいるじゃないか」
「あー、うん。何回も読んだよ。でも、『一文字則宗』を否定するつもりはない」
「だが、僕だけだろう? 政府に登録されている正式名称を口にするのは」
「長義は長いよ」
「あれが銘で呼べというなら、それは嫌がらせとみて間違いない」
「今剣」
「短いだろう」
「山鳥毛」
「どこで区切る。では、日光一文字は何と呼んでいる?」
「日光」
「南泉一文字は?」
「南泉」
「どうして僕は、僕だけは『一文字則宗』なんだ?」
「……『一文字則宗』を否定するつもりはないんだけど、私にとってあなたはやっぱり『菊一文字』と呼ばれた刀なんだ。でも、その名を名乗らなかったのならきっと理由があって、名乗ってもない名前を呼ぶのは失礼だと思っているから、『一文字則宗』って呼んでる。『菊』を頭に付けないための予防策というか、そういう感じ。もし、『一文字則宗』って呼ぶのもダメなら、何て呼んだらいいか教えて」
 眉を下げて泣きそうに彼女が答える。叱られた子供のようだ。
「僕は理由を知りたかっただけだ。一文字則宗と呼ばれることを厭うているわけではない。自分で名乗っているのだからな」
 そう返して本棚に本を戻そうとして躊躇った。手を伸ばしやすい所に置きたい本や、順番など、きっとこだわりがあるだろう。
 審神者は落ちた本から貸し出すものを拾い集め、「はい、どうぞ」と彼に渡した。
「……では、借りていくぞ」
「どうぞ」

 冬支度が始まる季節が訪れた。
 明後日、毎年この日は現世に向かうため、審神者は出かける準備をしていた。
「主よ、本を返しに来たぞ」
 一文字則宗が声を掛けてきて、「はいはーい」と審神者が応じる。
 障子戸を開けた彼女に借りた本を返しながら部屋の中の様子が目に入った。
「そういえば、明後日は現世に向かうんだったか」
「うん、そうだよ。一緒に来る? 監査官として懐かしの顔ぶれに会いたいとか」
「それはないな。監査官としての懐かしの顔ぶれなら、こちらの方が多い。僕でいいのか?」
「刀剣男士を一名、供に付けなくてはならないからね。でも、政府庁舎出る時は刀になってもらうよ」
「刀に? それは面白そうだ」
「そう言ったの、あなたが初めて」
 審神者は笑った。「じゃあ、政府の方に申請しておくから」と言って障子戸を締めた。
 それから二日後の昼過ぎに審神者は一文字則宗を伴って現世に向かう。
 政府庁舎で必要事項の手続きを行い、一文字則宗は太刀として刀袋に収納された。審神者に危機が訪れたら審神者自身が彼を顕現させることになる。
「主、これからどこに行くんだ?」
 直接頭の中に声が響く。初めての時には随分と混乱したが、今は慣れたものだ。
「ああ、そういえば話していなかったね。お墓参り」
「墓参り? ならば花を買わなければならないな」
「ううん、持ってきてるから」
 彼女は少し大きめのショルダーバッグを掛けており、後は先ほどから肩にかけている刀袋だけだ。他に荷物はない。
 寺で購入するから、ではなく持ってきているということを不思議に思いながら一文字則宗は大人しく彼女の言葉を受け入れた。
 刀剣の身でありながら、どうしてか視界がある。少し俯瞰している景色のため、おそらく彼女と視界を共有しているわけでもないのだろう。とても不思議な体験だ。幽体離脱というのはこういう感覚なのかもしれない、と先日彼女から借りた本に書いてある現象を思い浮かべた。
 電車を乗り継いでたどり着いた寺は小ぢんまりとしていた。彼女は寺の職員に挨拶をして墓場に向かう。
「それで、花は?」
「これだよ」と彼女がショルダーバッグからニ十センチ四方の箱を取り出す。菓子の箱のような何の変哲もないものだ。
 その箱を開けるとシロツメクサの花冠が入っていた。
 墓の前にそれを立てかける。持ってきている線香は、数珠丸が厳選したものだと説明した。
「あちらのものを持ってきても大丈夫なのか?」
「お線香はなくなるものだし、この花も基本的にはこちらにあるシロツメクサと変わらない。ただ、政府庁舎で特別な術を施してあるから紙のようになってて保存がきくし、後で燃やして捨てることができるんだ。種が飛んだりしなければそう目くじらを立てられることはないんだよ。それに、明日か明後日くらいにお父さんが回収に来てくれる」
「お前さんが作ったのか?」
「うん。母が、動画を残してくれてたんだ。あまり器用ではない人だったみたいだけど、いつか一緒に作ろうと思ってたみたい。だから、審神者になってシロツメクサの花冠の保管ができるって聞いて作るのを練習した。秋田なんて、一回動画を見ただけで習得したんだよ。私、何回も練習したのに」
「……これは、お前さんの母親に対する愛の形なんだな」
「そう、かな。よくわかんない。お母さんは私と一緒に色んなことをしたいって思ってて、その想いを残してくれてたからなぞることができた。だから、たぶん。これは私の愛というよりもお母さんの愛なんだと思う」
「お前さんは、どうして審神者になったんだ?」
「それも知らない? 保護者がサインしちゃったからだよ」
「父親か?」
「違う。お父さんじゃなくて、保護者。所謂後添え」
「うまくいってなかったのか」
「いくもんか」
 審神者は投げやりに笑う。
「お父さんと結婚したいからお父さんの会社を潰しにかかって、その会社の社長に金をちらつかせてお父さんと結婚したようなのと仲良くできるはずがない。今日だって、お母さんの命日なのに、絶対にお父さんに墓参りさせないんだから」
 こんな風に負の感情を露わにする審神者が珍しい。
「審神者になって政府に条件を付けた。ひとつは、このお墓を潰させないこと。もうひとつは、父への手紙をあの女に奪わせないこと。今のところ守ってくれているから大人しくしてる」
「政府がその条件を破ればどうするんだ?」
「本丸が反旗を翻すって話にしてるけど、みんなを巻き込むわけにはいかないから私が自害する。平野と歌仙に了承してもらってるから条件としては整ってるんだ。平野で腹を切って、歌仙に介錯をしてもらう」
「ぞっとしないな」
「今のところ、この程度の条件ならって政府は聞き入れてくれているから、当分平野の出番はないよ」
「例えば、お前さんの元に遡行軍がやってきて、母親の死をなかったことに歴史を修正すると言ったら、乗るか?」
「乗らない」
 悩むことなく彼女は答えた。これには一文字則宗も驚く。未練がある相手があるなら、少しは心惹かれるのではないかと思ったのだ。
「歴史に『もしも』はないから。たくさんの人の選択が重なって今がある。どこかでそれが狂ったら今はないし、たとえばお母さんがその時に亡くならなくてもそれこそ次の日に亡くなってるかもしれない。不確かなことに縋るほど弱くないって言いたいんだけど……。たぶん、私は今の状況に満足してるんだと思う。審神者自体、嫌な立場だと思っていないの。それを決めたのがあの女というのが嫌なだけ」
「そうか」と一文字則宗が相槌を打つと背後から女性の名を呼ぶ声がして審神者は思わず振り返る。
「お父さん」と呟いた視線の先には数年ぶりに目にする父親の姿があった。
「どうしたの? 今日は絶対ここに来られないようにあの女が画策してるでしょ」
「毎年あの手この手で本当凄い執念だよね。でもね、僕だって毎年唯々諾々と要求をのんでいたわけではないよ。今年に照準を合わせて何かと手を打ってたんだ」
「今年?」と彼女が首を傾げると「誕生日おめでとう」と父親が言う。
「今日から大人だね。これ、お母さんから預かっていた誕生日プレゼントと手紙」
「お母さんから?」
「そう。事故ではなく病気だったからね、残せるものを考えて僕に預けていたんだ」
「良くあの女に取られなかったね」
「取らせてなるものか。そうだ、まだ時間ある? ケーキも買ってきたんだ。一緒に食べられないかな?」
 父親にそう言われて彼女はチラと振り返った。政府庁舎からずっとついてきている監視の役人が首を振っている。今日は知り合いに会うこともなく墓参りをして帰るだけのつもりだったため、政府の機密事項に関する情報発信を禁止する術を受けていない。うっかり話せば、話した方は勿論、聞いてしまった方も重罪となる。
「ごめん、今日は無理」
「そっか……。じゃあ、来年は一緒にケーキを食べよう。あと、オムライス」
「うん、来年」
「じゃあ、悪いけどケーキは持って帰ってくれるかな。お父さん一人だと食べられないから、本丸っていうんだっけ。そこの皆と一緒に食べて」
 そういって父親は足早に遠ざかっていった。おそらく車で来ているのだろう。
「大人?」
 一文字則宗が言う。
「うん、今日で大人の仲間入り」
「まだ子供だったのか」
「そうだよ」
「お待たせー」と早足で父親が戻ってきた。両手でケーキの箱を支えている。
「お店で一番大きいのを選んだけど、みんなで食べられる量あるかな?」
「大丈夫」
 全く足りないが、そこらへんは指摘しても仕方ない。
「これは、お父さんが持って帰っておくから」と言って彼女の作ってきた花冠に視線を向ける。
「うん、お願い」
「じゃあ、お父さんはもう少しお母さんと話をして帰るよ」
「うん、身体に気を付けて」
 そう言った審神者に向かって父親が姿勢を正した。
「どうか、娘をよろしくお願いします」
 深々と頭を下げられて彼女は驚き、背後を見た。一文字則宗が顕現したのかと思ったのだ。だが、人影はなく、政府の役人も視界にはない。
「お父さん?」
「いや、何か近くに誰かいるような気がしたからね」
 照れ臭そうに早口で言った父親は「またね」とあいさつをして墓に向き直った。
 彼女は足早にその場を離れる。駐車場に向かうと政府の役人の姿があった。
「車で送ってください」と彼女が言うと彼らは了承した。流石にこの大きなケーキ箱を持って電車に乗りたくない。
「持って帰るのか?」と一文字則宗に問われて「政府庁舎で一緒に食べて」と審神者が返す。
 持って帰るには少ないのだ。
「ああ、お相伴に与ろう」

 政府庁舎に戻って事情を説明すると小さな会議室を貸してもらえた。どうしたことかコーヒーサーバーも準備される。至れり尽くせりだ。
「監査官効果?」
「監査官が大きな顔をできるのは、審神者に対してのみだ。組織内ではただの使いっ走りさ。むしろ審神者効果だな」
 審神者効果と言われてもピンとこない。こちらも政府に良いように使われているのが日常だ。とはいえ、こうして飲み物まで準備してもらえたため、ありがたく使わせてもらう。
「お父さん、一緒に食べようと思ってたから、フォークもちゃんとついてる」
「では、頂こう」
 ホールケーキに直接フォークを刺して口に運ぶ。一文字則宗は目の前の審神者に視線を向けた。彼女は涙と洟でべしょべしょになりながらケーキを食べている。何か声を掛けようとして、何も浮かばなかった。ただ、静かにケーキを食べて時折ティッシュを勧めることしかできなかった。
 何とか二人で完食し、彼女も落ち着いたようで涙は止まっていた。しかし、涙と洟でべしょべしょになっていたことがわかる顔になっている。政府庁舎から本丸に帰る手続きをしている間も、役人が声を掛けていいものかと腫れ物に触れるような様子を見せていた。
「ただいまー」と本丸に帰ってきた彼女を「おかえり」と出迎えた歌仙は一瞬表情を失い、「一文字則宗、少し話があるよ」と静かに言った。
 歌仙が気配の少ない棟まで一文字則宗を連れて行き、「何があったか話してくれるね」という。
 一文字則宗は先ほど見たことを話した。
「では、継母が出て来てあの子に酷いことをしたわけじゃないんだね」
「ああ。お前さん、主の事情を知っているのか?」
「介錯を頼まれた時に理由を聞いたからね。そうか、父親に会えたのか……。ん? 誕生日と言ったかい?」
「ああ、父親はそう言ったし、主と共に『誕生日おめでとう』と書いてあるチョコレートも半分に分けて食べたぞ。今日から大人の仲間入りだそうだ。それがどうかしたのか?」
「当世では誕生日は祝い事だ。それなのに、主の誕生日を祝ったことが一度もない」
 これはいけないと歌仙が駆けだした。いつも「廊下を走ってはいけないよ」と注意する者が猛然と走っていく。不思議な光景を目にすることができた。
「随分と愛されているのだな」

「主、今日が誕生日だと聞いたのだけど本当かい?」
 スパーンと勢いよく障子戸が開いた。
「……ノックしようか。もしくは一声かけてから開けてくれると助かるかな」
 丁度着替えが終わった審神者が振り返って言う。ドスドスと普段耳慣れない足音にも驚いたが、突然障子戸を開けられて更に驚いた。火急の用件ならともかく、誕生日の確認は今急ぐ話とも思えない。
「申し訳ない。それで?」
「うん、誕生日」
「どうして言ってくれなかったんだ。赤飯、間に合うだろうか」
 献立変更の算段を取っている歌仙に「オムライスが良い」と審神者が返す。
「だが、君の誕生日だ。祝い事だろう? 祝い事には赤飯だ」
「食べたいものを作ってくれるのが良い。でも、ちょっとお腹ぱんぱんだから、今日の量は控えめにしてもらえると助かる」
「本当に、オムライスで良いのかい?」
「オムライスが良い」
「だったら、献立の変更の必要がないからこちらも助かるのだけど……」
 腑に落ちない表情で歌仙が言う。確かに、彼女はこの日は必ずオムライスが良いと一年目に言った。それ以降、毎年この日は必ずオムライスになっている。
 夕飯の席で目の前に置かれた大盛りのオムライスに一文字則宗は目を丸くする。昼間に聞いた献立だ。この本丸では、大きなオムライスを作って、それを皆が取り分けるという。一人一人に作ると時間と手間がかかるうえ、一番最初に作ったものを食べる者は冷めきってしまうからということらしい。確かに、これだけの人数分ひとつひとつ作るのは大変だろう。
 審神者の方を見れば何やら葛藤があるらしく、自分の皿に小ぢんまり山を作っただけだった。あの量のケーキを食べた後にこれはさすがに辛い。一文字則宗も同じく小ぢんまりとした山を作った。
 風呂から上がった一文字則宗は本丸の庭を散歩する。少し腹が重い。
 ふと、池の向こうに審神者の姿を見つけた。縁側に腰かけてぷらぷらと足を振っている。彼女も腹が重くて寝るに寝られないのかもしれない。
「お前さんも眠れないのか」と声を掛けると彼女はひらひらと手を振った。
「お腹ぱんぱん」
 傍に行くと彼女は満面の笑みで腹を擦る。
「そうだな。あれだけの量のケーキを食べた後に夕食も入れられるのだから、お前さんの腹は底なしか?」
「あるある。だから、こうしてお腹が重すぎて眠れない」
 笑って返す彼女に「そうか」と相槌を打った。
「お前さんはオムライスが好きなのか?」
 問われて彼女は首を傾げ、「ああ、」と納得した。
「お父さんがね、子供はオムライスが好きなんだっていう先入観があって。お母さんが亡くなった次の年の誕生日に腕によりをかけて作ってくれたの。焦げた、硬い卵が載ったべちゃべちゃのチキンライスを。卵の中には殻も混ざってた気がする。満面の笑みで「さあ、お食べ」って言われて、私も子供ながらに空気読んで食べたんだけど、予想どおりの不味さで。お父さんは見た目はともかく、と思ってたらしく一口食べて目を白黒させてた。「出前を取ろう」って言われたけど、お父さんが一生懸命作ってくれたオムライスを全部食べたくて水をがぶ飲みしながら一生懸命完食した。それが、最初。それから、毎年お父さんはオムライスを作ってくれた。仕事で忙しいのに、私の誕生日は母の墓参りをしてオムライスを作るっていうのが毎年の行事だった。数年前にそれが壊されたけどね。本丸に来て、食事当番に何が食べたいか聞かれた時、今日この日だけはオムライスが良いって話したら不思議そうにしたけど毎年オムライス作ってくれてるんだ」
 それでオムライスかと納得する。昼間の父親の言葉にもオムライスがあった。
「お前さんは、とても愛されているのだな」
「うん、愛されてる」
 満足げに頷く審神者に一文字則宗は目を細めた。「いいなぁ」と呟く。
「主、夜ふかしは良くないよ」
 不意に声を掛けられて視線を向けると歌仙の姿があった。
「はーい」と返事をした彼女は「じゃあ、おやすみ」と一文字則宗に声を掛けて立ち上がった。

 年が改まった。
 毎年刀剣男士たちは同派の者や縁が深い者にお年玉を渡し、そして審神者にもお年玉を渡すのが恒例となっていた。
 しかし今年は「私、もう大人なので」と審神者が宣言した。彼らの給金は彼らが命を懸けて戦っていることに対する対価であり、安全な本丸で指示を出しているだけの自分に使われていいものではないと思っていた。とはいえ、昨年までは現世でも「子供」と言われる立場であったため、苦渋の選択であったがお年玉を受け取っていた。しかし、今年は違う。名実ともに大人なのだ。
「なぜ……」
 高らかに宣言したというのに、自分の目の前にはお年玉袋が山とある。
「主、君は忘れているようだけど僕たちは君よりもうんと年上だよ」
「人の形を取ったのは私の方が先輩だ」
「人の世を見てきた期間の長さは僕たちの方が長い。とにかく、皆は君を甘やかしたいのだから、受け取ってあげなさい。もし、それを心苦しいというなら、それを使って皆に何か返せばいいじゃないか。というわけで、これは僕からの分」
 最も自分に対する理解があると思っていた近侍までお年玉を置いていなくなった。
 お年玉袋を両手で抱えながら部屋に戻っていると「おお、間に合ったか」と声がしてひとつ追加された。
「正月の監査官を名乗っていたのに、お前さんにお年玉を渡すのはこれが初めてだ」
「あなたが『正月の監査官』を名乗ったからどうして長義は『ハロウィンの監査官』て名乗らないんだろうって思ったのを思い出した」
「ハロウィン? ああ、仮装大会のアレか」
 毎年本丸ではハロウィンをする。どこで情報を仕入れたのか、言い出したのは刀剣男士の方だった。審神者が子供であったため、きっとこういう行事が好きだろうという心遣いによるものなのだろう。短刀たちが仮装して各部屋を回り、菓子を要求する。そして、集めた菓子はなぜか審神者の部屋の前に置いていかれるという謎の行事だ。ごんぎつねを思い出すからやめてほしいと言っても「お菓子は子供のものだから」と言って頑なに置いていく短刀たちが多くいる。流石に彼らからもらった菓子を包丁に横流しするわけにもいかず、毎年秋の終わりから暮れにかけて彼女の私室は菓子の甘い匂いが漂っている。
「この本丸は色々と行事があって面白いな」
「他の本丸は違うの?」
「知らん。僕は本丸に興味がなかったからな」
「そうでした」
 以前、自分の家庭の事情を知らなかったのかと問うた時、そういうのは調べないと言っていたのを思い出す。審神者のことに興味ないが、本丸にも興味がなかったという。
「でも、あなたは凄く好奇心が旺盛なのにね」
「なに、この本丸は面白いからな」
「よそと比較したことがないからわからないけど。刀剣男士はみんな懐が深いから、子供には特に優しい。でも、私はもう大人だ」
 ひらりと落ちたお年玉袋を一文字則宗が拾い上げ、彼女の腕の山のてっぺんに置く。
「ありがとう」と礼を口にして彼女は歩き出し、彼も並んで歩みを進めた。
「来年は風呂敷を用意した方が良いんじゃないか?」
「去年までは用意してたんだけどね。要らないって宣言したから完全に油断してた」
「うははは、詰めが甘いな」
「皆を信じた証拠と言ってほしい。……あなたは、何か欲しいものある?」
「誉の褒美か?」
「いいえ。これを使って皆に返還する何か」
「物だと好みが分かれるし、必要ない者もあるかもしれん。手っ取り早く食べ物じゃないか?」
「甘いものは好きじゃないって言ってる人見たことがあるし、辛い物も同じく。あ、お酒とかどうかな? みんな神様だし、定番のお供え物」
「お前さんは、僕たちを神様だというのか?」
「貧乏神も福の神も神様だというなら、付喪神も神様って言ってもよくない?」
「人と違うものを指しての神なら間違いではないと思うが……」
「じゃあ、お酒で。でも、私、まだ本格的にお酒飲んだことがないから何が美味しいのかわかんないや」
「酒にも甘口と辛口とがあるし、強さも違う」
「難しい」と零した彼女は「絶対に、じろさんとか号さんとかにお願いしたら強くて高いのになりそうだから……博多か長谷部にお願いしようかな。予算内で良いの考えてくれそう」とひとりごちた。
「号さん?」
 不意に問われて審神者は顔を向けた。
「ああ、槍の日本号のこと」
「あだ名、なのか?」
「あー……うん。そうだね。本人に了解は得てる、というか本人も知ってる」
 丁度審神者の部屋の前にたどり着いた。
「そういえば、何か用があってここまで来たの?」
「いや。お前さんが無事に部屋まですべて運べるか心配だったんでな」
「なるほど。おかげさまで無事に部屋までたどり着きました。ありがとう、心配してくれて」
 一文字則宗が障子戸を開けてやると彼女は重ねて礼を口にして部屋の中に入っていった。
 それから一週間後、審神者から皆に酒が振舞われた。思ったよりも量があり、皆のお年玉を合わせた額よりも多そうだ。審神者へのお年玉の額は皆で話し合い、歌仙の意見を踏まえてあまり高額にならないようにしている。このため、先日のお年玉で彼女がどれくらいの額を得たかは皆も見当がついている。つまり、もらった以上の支出は彼女のお返しの気持ちなのだろうと皆は受け取ることにした。
 審神者からの大盤振る舞いに宴は大いに盛り上がり、そして翌日、ひどい頭痛に悩まされる審神者の姿があった。
「あたまいたい」
 生気を感じない声音で審神者が零す。
「それが二日酔いだよ。ひとつ大人になったね」
 美しい笑顔で近侍に言われて彼女は自身の近侍が時折手厳しいことを思い出し、そして二度と酒を飲まないと心に決めた。

 庭の梅の木の蕾が色づき始め、春はもうすぐそこまで来ていた。
 小春日和の中、縁側に座って庭を眺めていると「小鳥」と呼ばれて顔を上げる。
 一文字一家の長、山鳥毛がカップをふたつ持って立っていた。その後ろを覗き込んでも誰の姿もない。
「私だけだよ」と彼女の疑問に答えて右手に持っていたカップを彼女に渡した。
「甘酒が振舞われていたから貰って来た。よかったら一緒にどうだ」
 カップを受け取って彼女はそれの匂いを確かめる。
「酒精は入ってないはずだ。小鳥も口にするものだからな」
 ひと月前のあの日以来、極端に酒を嫌うようになった審神者のことを皆は知っている。性急すぎたと酒飲みたちは地団駄踏んでいたが、元々強くなかったのかもしれないし、舐めるくらいならできそうだから、審神者の集まりなどの酒席では何とか体裁は整うはずだと多くの者が問題視していない。
「ありがとう。心していただきます」
「小鳥を探していたから、少し冷めてしまったかもしれないが」
「私、猫舌だから大丈夫」
 笑って一口飲んだ審神者は「丁度いい」と頷いた。
「それは良かった」
「それで、私に話とは?」
「……おや? 私は小鳥に話があると言ったかな?」
「言ってないけど、こうして態々私に声を掛けるためのきっかけを持って探してきたのなら何かあるのではないかと推測したんだけど」
「さすが、歴戦を潜り抜けた指揮官だ」
「いやいや、それは皆の実力あってこそだよ。私は安全な場所で口出ししていただけ」
「謙遜だな」
 山鳥毛は甘酒を一口飲んだ。
「我が一家の祖が小鳥の怒りに触れているのではないかと心配になってね」
「何やったの?」
「私は知らない。だから、こうして話を聞いてみたいと思ったんだ」
 審神者は少し沈黙し、首を傾げた。
「思い当たる節がない」
「……そうか」
「それって、山鳥毛が思ったの?」
「実は子猫が山姥切長義から聞いたらしいんだ。一文字則宗が、主から名を呼ばれなくなった、と」
 彼女は瞠目した。
 ――名を呼んでいない?
 それは、彼らにとってひどい仕打ちだ。彼らは憧憬、畏怖、崇敬、愛着など、感情がどうであれ人に語られその存在を認められて輪郭を持つ。それを『在るもの』たらしめるには名を呼ぶことが手っ取り早く、また、確実だ。
「自覚がなかったのか?」
「ありがとう、教えてくれて」
 頭を抱えている審神者を労わるように山鳥毛が視線を向ける。
「いや……。そうか。小鳥の不興を買ってしまったなら私が執成さなければならないと思ったが、その必要はなさそうだ」
「うん。でも、どうして誰も教えてくれなかったんだろう」
「小鳥が、菊の名を冠した太刀に憧れていたのを多くの者が知っているからではないか?」
「……そんなに広まってるの?」
「まあ、噂話に疎い私でさえ知っているくらいには」
「うそーん」と言いながら彼女はぱたりと背後に倒れた。
「別に、嫌だって言ってるわけじゃないのに」
「こちらの方が良いと言っているのだろう?」
「そこまで言っているつもりもなかったけど。そう捉えられているなら、もう菊の名は口にしないわ」
 審神者は体を起こして甘酒を一気飲みした。
「片付けをお願いしても?」
「承ろう」
「いろいろとありがとう!」
 山鳥毛に礼を言って彼女は駆けだした。彼女の背を見送りながら山鳥毛はため息をひとつ吐く。とても重かった肩の荷を下ろすことができた。

 彼女は自室に戻って本棚を覗き込む。
 一文字則宗を探す口実に最も適しているのが本の貸し出しだ。
 しかし、彼はこの本棚にある書籍はほとんど手にしている。口実になるものがなくなっていた。貸し出していないものと言えば、まだ自分が読んでいない、纏まった時間が取れずに積んだままになっている書籍。そして、例の時代小説。
「困った……」
 積んでいる本はじっくり読みたい。例の時代小説を彼に貸し出せるほど神経が太くない。
「主、いるかい?」
 不意に廊下から声がかかった。
「はいはーい」と返事をして顔を出すと、歌仙が小包を持っていた。
「ご実家から荷物が届いているよ」
 今月の手紙はもう終わった。何か送られるときは手紙と一緒のタイミングだというのにどうしたのだろうと不思議に思いながら「ありがとう」と受け取った。
 歌仙も荷物が送られてくるタイミングに疑問を抱いたが、障子戸を締められては中身を見ることができない。今度訊いてみようと思いながらその場を立ち去った。
 小包を開けて彼女は瞠目する。昔、父親と一緒に探したことがある本だった。主人公の一生を描いた物語で、アクションなどの派手なシーンはないが、静かに流れる人の生の時間が好きだったと父親が言っていた。書籍を探したが、見つからず、審神者になる少し前に仕方なく電子機器に表示して読んだ。父親が母親と出会った思い出の作品だと聞いて、どうしても読んでみたかったのだ。
『見つかったよ』と父親の字で書かれたカードが入っていた。
 審神者はその本を手にして廊下に出て彼の部屋に向かった。
「ごめんくださーい」と声を掛けると障子戸が開く。
「彼なら不在だよ」
 長義が応じた。
「そっか……」
「預かろうか?」
「……ううん、ありがとう。また来る。あ、そうだ。今、甘酒が振舞われているんだって。もし、飲みたかったら早く行った方が良いと思う。たぶん、大広間」
「有益な情報をありがとう。君は良いのかい?」
「もう飲んだよ。ノンアルだから安心して」
 そういって審神者が背を向けて歩き出す。見送った長義は障子戸を締めて振り返った。
「だ、そうだ。まさか元同僚が居留守を使うようになるとは思ってもみなかったよ」
「今でも同僚だろう」
「じゃあ、俺は甘酒を頂いてくるよ」
 同室者を残して長義は部屋を出ていく。残された一文字則宗はため息を吐いて立ち上がった。甘酒を飲みに大広間に行く気分ではないが、この部屋にいるのもなんだか気が滅入ると思い、ひとまず当てもなく本丸の中を彷徨うことにした。
 審神者から名前を呼ばれなくなった。会話の都合上、名を呼ぶ必要がないということもあったが、気が付くと、随分と名を呼ばれていない。彼女以外の、この本丸に在る刀剣男士たちには呼ばれているため、大きな支障はない。支障はないが、寂しい。
 彼女は本人が言っていたように、『菊』を口にしないように気を付けているらしく、自分の名を呼ぶときには少し気合が入っている。気を遣われているのは気を配られている証拠で少しくすぐったい。それなりに、彼女の反応を気に入っていたのだが、秋の終わりごろからついぞ名を呼ばれなくなってしまった。不興を買ったのか、と南泉が心配していたが、声を掛ければいつもどおりで、おそらく彼女自身気づいていないことだろうと思っている。それに、名を呼ばなくなったのは自分がきっかけではないかとも思うため、指摘する気にはなれなかった。もしかしたら彼女を傷つけたのかもしれないとも思ったのだ。
 ほてほてと歩きながら廊下を曲がると、少し先に歌仙と審神者の姿があった。思わず踵を返して歩き出す。まるで逃げるようだと思い、実際に逃げているのだと自嘲する。

「そういえば、主。その本は?」
「ああ、さっきお父さんから届いた荷物がこれだったの。一文字則宗に貸そうと思って部屋に行ったらいなくて。また時間を置いていってみようと思ってるの」
「彼なら」と言って歌仙が視線を向け、審神者が振り返る。
 廊下の角を曲がったようで姿は見えなかったものの、ふわふわとした髪が視界に入った。
「ありがとう!」と言って審神者は駆けだす。

 背後から迫る足音は武術を心得ている者のものではなく、無防備で、それは審神者のものだとこの本丸の誰もがわかる。
 少し速足になったところで「一文字則宗」と呼ばれて反射で足を止めた。仄かに胸が苦しい。
 呼吸があがっている彼女が追いつき、「足早いね、股下何メートル?」と苦笑しながら声を掛ける。
「うははは、五メートルだ」と適当なことを返しながら「息が切れているぞ、運動不足じゃないか?」と審神者を揶揄う。
「だって、寒いもん。春になったら考える」
「それで、何か用か?」
「うん、さっき部屋に居なかったから後でまた行こうと思ってたんだ。ちょうどよかった」
 彼女は右手に持っていた書籍を差し出す。
「これ、読んでみる?」
「ふむ……有名なのか?」
「わかんない。淡々とした、主人公の一生が綴られている物語。途中、冠婚葬祭が少し山場というか非日常なだけで、異世界に行くわけでもなければ隕石が落ちてくることもない、本当に平凡な日常を綴っている物語」
「なるほど、人の営みこそ物語ということか。お前さんは読んだことがあるのか?」
「審神者になる前にね。書籍は、さっきお父さんから届いた。中身は覚えてるし、他にも読む本はあるから一文字則宗が興味あったらお先にどうぞ」
「では、遠慮なく借りていこう。そうだ、大広間だったか、甘酒が振舞われていると聞いたぞ。お前さんも一緒にどうだ?」
「私はいいよ」
「酒精は入っていないとも聞いているが?」
 全て目の前の審神者から得た情報だが、そんなそぶりを見せることなく彼は続けた。
「もう飲んだからね。一応人数分を想定して作ってると思うけど、ああいうのって大体おかわり自由だし、皆に行きわたらなかったら悪いでしょ?」
「なるほど」
「でも、美味しかったから行ってみたら? 残ってたらラッキー」
「そうだな。だが、またの機会に期待しよう。本を汚しては悪いし、何より早く読んでみたい」
「一文字則宗も本の虫だね」
「僕は『刀』だよ」
 うはははと笑って返し、「では、読んだらまた返しに行くぞ」と言って彼は背を向ける。
 一文字則宗の背が見えなくなって審神者はほっと息を吐いた。
 一方、一文字則宗も審神者の気配から離れて足を止め、借りた書籍をひと撫でして安堵の息を漏らした。

 庭の木々が芽吹き、風が新芽の香りを運んでくるようになった。
 晴天が続いたある日の昼下がり、一文字則宗は畑の隣にある林を抜けたところにある審神者のプライベートガーデンに向かった。皆の畑仕事を手伝っていたらこちらを勧められたと聞く。
「たぶん、足手まといだったんだと思う」と苦い表情の彼女からここの話を聞いたのは、昨年の夏の盛りだった。実際に足を運ぶのは今回が初めてだ。
「やはりここか」と声が降ってきて彼女が顔を上げると一文字則宗の姿があった。
「ああ、うん。そろそろ満開だろうって思ったから」
 彼女はシロツメクサの上に座っていた。ハンカチの上に摘んだシロツメクサを並べており、手元には完成した花冠があった。
 彼女は「座って」と一文字則宗に言う。
「何か手伝いが要るのか?」
 そういって膝をついた彼の頭にシロツメクサの花冠が載る。
「ああ、やっぱり似合う」
 目を細めて彼女が感想を口にした。
「あなたは、髪質が柔らかいのにふわふわしてるから、きっと似合うと思ったんだ」
 頭に載せられた花冠に触れた一文字則宗はそのままトスンと座る。
「……なあ、お前さんは他の花でも花冠は作れるのか?」
「シロツメクサのしか作ったことないからわかんないけど、茎が柔らかくて少し長いなら作れるんじゃないかな。タンポポとか」
「菊はどうだ?」
「菊かー……。菊は茎が硬いイメージがあるから編むのが難しいかも。でも、他の植物の蔓とか持ってきたら出来なくもないかな。あと、種類が多いって聞いたことがあるからもしかしたらできる種類があるかもしれない。でも、秋まで待ってくれないと素材がないよ」
「だったら」と一文字則宗が俯いて再び口を開く。
「だったら、名だけでも花の名を冠してもいいか?」
「名前にお花?」
「菊を」
「き、く……」
 どうして菊一文字を名乗らなかったのか、その理由は結局聞くことができなかった。聞くことができないまま、いつの間にか彼の名を呼ぶことがなくなった。
「菊一文字。お前さんはその刀に会いたいと願ってくれた」
「どうして知ってるの?」
「なに、盗み聞きだ」
 悪びれることなく彼は朗らかに言った。毒気を抜かれるとはこのことかと思いながら彼女はため息を吐く。確かに、歌仙とそういう話をしたことがある。他の誰かとも話したことがあるかもしれない。
「そうね。私が審神者になる前から知っていた刀は、菊一文字ただ一振り。もしかしたら他にも聞いたことがあるかもしれないけど、審神者になることが決まってすぐにあなたを思い浮かべた」
「光栄だな」
「ねえ、聞いてもいい?」
 一文字則宗は目を瞑り、ひとつ頷いた。
「どうして菊一文字じゃなかったの?」
「さあな。僕自身が決めたことではない。ただ、それを決めた者が、新たな主に否定されるのを恐れたからかもしれないな。僕たちは、お前さんが言うように、たとえ本体がなくとも人々に語られ愛されることで存在を定着することができる。逆を言えば、否定され続ければ存在しえないものになる。本体がなければなおさらだ。過去に誰かに愛されていたとしても、今の主からの愛を失うのが、愛を得られないことが怖かったんだろうな。僕たち刀剣男士には愛が必要なんだ」
 一文字則宗は頭に戴いている花冠を手に取った。
「これは、お前さんの母親がお前さんに残した愛のひとつだ。きっと他にもたくさん残しているのだろう? 僕は、いつからかお前さんに愛されたいと思った。いや、愛されていると自信を持てた。名を呼ばれなくなった時は少々焦ったが、それでも、お前さんは僕にこれをくれた。似合うと笑いながら。だから、一度は過去に俗説として否定されたかの剣士の愛刀である菊一文字としてお前さんに愛されたいと思ったんだ。どうだ? もちろん、政府的には僕は『一文字則宗』で、『菊一文字』はあだ名のようなものでしかない。けれど、お前さんは、次郎太刀や日本号をあだ名で呼ぶんだ。僕をあだ名で呼んだっていいだろう?」
「呼んでも、いいの?」
「ああ」
「あなたを傷つけない?」
「名を呼んでくれない方が余程辛い」
 返された言葉にバツの悪さを覚えた彼女は視線を彷徨わせ、そして一度目を瞑る。深呼吸をひとつして顔を上げた。
「菊一文字」
「ああ」
 一文字則宗の返事に彼女は破顔した。子供のように目を輝かせて、美しい景色を見たときのような、美味しいものを食べたときのような喜びに満ちていた。
 彼は目を細め、手にしている花冠を再び自身の頭に載せた。
「さて、これからお前さんの母親の花冠を作るのだろう? 手伝おう」
「ありがとう」
 立ち上がった一文字則宗の手を取って審神者も立ち上がる。
「ここらへんのはそれを作るのに取ったからあっちに行こう」
「僕も作ってみていいか?」
「もちろん。でも、お母さんの分は残しておいてよ」
「ああ、ここはお前さんの花園だからな」
「シロツメクサは、特に面倒を見てないんだけどね」
 笑いながら審神者は返し、白い絨毯に足を向けた。






桜風
21.4.9
(22.2.1再掲)


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