金剛石と硝子
ジリジリと肌を焼く音が耳に届く。
本来あるべき蝉時雨はなく、風もないため、音が極端に少ない。
蝉は気温が三十五度を超えると鳴かないという。何という効率的な省エネだろうと、初めてその情報を耳にしたときに思った。
審神者は手元にあるカップアイスに視線を落とした。
既に液体に変わりつつあるそれを急いでスプーンですくい、口に運ぶ。ほんのりと冷たい食感にほっとする一方、ほとんどただの甘ったるいバニラの液体に変わり果てているこれを飲み干すことを思い、胸やけを覚えた。
こんな生活が一週間続いている。
本来、刀剣男士の住まう本丸は快適なつくりになっている。一見、伝統的な日本家屋、書院造だとか寝殿造だとか色々と名前はあるが、そういうものが融合した佇まいだ。しかし、部屋の中は冷暖房完備で、快適生活が約束されている。また、本丸の気候は政府が技術の粋を集めたシステムで制御できるようになっており、それを操作する権限を審神者は与えられている。
春夏秋冬を愛するこの本丸の審神者は、現在の季節に合わせて夏の気候を選んでいた。
しかし、どうしたことか暑い。非常に暑いのだ。
「主、ちょっとどうにかしてよ」と近侍の加州に言われて操作したが、どうにも変化がない。政府に問い合わせたところ、大元のサーバーに不具合があるとか何とかで気候の制御が効かなくなっているということが判明した。つまり、他の本丸も似たような状況というわけだ。
途切れることのない刀剣男士たちのクレームには政府からの回答を説明し、皆は納得してくれた。何せ、冷暖房完備だ。外が暑くても部屋の中で生活していれば問題ない。
――はずだった。
本丸の気候制御システムが壊れて二日経った夜半に審神者は寝苦しさに目が覚めた。
汗を掻いて寝巻がべったりとくっついている。布団もしっとりと湿っており、これは水分補給をしなくては命にかかわると判断して部屋を出た。
熱が籠った空気にげんなりとしながら厨に向かっていると絹を裂くような悲鳴が耳に届く。
「なんだろ」と呟きながらも厨に行っていいのか悩んでいると「主!」と加州が駆けてきた。
「何かあった?」と慌てて問う彼に、なるほどと納得する。今の悲鳴が審神者からのものだと思ったらしい。確かにこの本丸で絹を裂くような悲鳴を上げそうなのは自分だけだ。
では、本当に悲鳴を上げたのは誰か。
「さっきのは私じゃないよ。厨の方から聞こえたと思うんだけど……。水を飲みに行きたいから一緒に来てくれる?」
「もちろん」と加州は頷いた。
加州の後をついて歩く審神者は厨に到着した。そこには複数の刀剣男士がいた。
「どうしたの?」
「電気が止まってるようだ」
道理で寝汗が酷いわけだと審神者は納得した。冷房が止まっているのだ。止まるなどみじんも考えていなかったため、この寝汗の理由が思い浮かばなかった。変な病気かもしれないとさえ思ったほどだ。
「で、さっきの悲鳴は?」
「ごめん、僕」
口元に手を当てて片手を上げたのは燭台切だった。あまりにも黒づくめでほとんど見えないが、声はそうだ。
「そっか。じゃあ、ブレーカーを見に行かないと。誰か行った?」
審神者の問いかけに返事がない。何せ、冷蔵庫の扉が開いているのだ。少しでも漏れる冷気に皆あやかりたい。
審神者は無言で水を入れた容器を取り出して冷蔵庫の扉を閉めた。
「ああ……」と惜し気に声を漏らす彼らに「冷気が逃げる」と返してコップ一杯の水を飲んだ。
「じゃあ、秋田」
審神者が手を差し出すと「はい」と握られる。
「一緒にブレーカーを見に行ってくれる?」
「はい」
「俺も行く」と加州も続いた。
ブレーカーの前に立つ。これほどの大きな建物だ。便宜上『ブレーカー』と呼んでいるが、実際は配電盤というにふさわしい。
配電盤の箱の扉を開けて覗いてみる。
「ブレーカー、どれだっけ?」
「これです」
「あ、落ちちゃってるね」
三名で覗いて確認し、ブレーカーを上げた。
途端にモーターの音が耳に届く。
「よし、これで快適生活が」
「送れる」と続けようとしたところでブツンと音がしてブレーカーが落ちた。
顔を見合わせた三名は、一旦厨に戻ることにした。
ひとまず、今晩は冷房を切って皆暑さに耐えて、明日政府が動き出したら問合せをするということで納得してもらった。冷蔵庫を守るのが第一だ。
今まで使用可能だった電力量が使えなくなった理由の問い合わせへの政府からの回答は『不明』で、『とにかく、電力の消費を抑えてください』というものだった。
これに反発する刀剣男士は多数あり、何より冷蔵庫が自分たちよりも重宝されていることに不満を持つ者があった。審神者の部屋に冷房が付くのはわかる。倒れられたら事だし、何より『主』だ。しかし、その箱は自分たちと同じ『物』ではないかと。彼らは審神者の説得により不承不承ながらも一部の者は承諾し、さらに残りは強く抵抗してみせたが、審神者が懐柔策として示したアイスにあっけなく陥落した。
毎日アイスを配布するということでひとまずは納得したのだ。アイスを食べるためには冷蔵庫の電力確保が必須であり、皆の食事もあの箱の機能維持が不可欠だ。
とはいえ、そんな騒動があって一週間経つというのに、まだ直らないとはどういうことだろう。
審神者は目の前のパンツ一枚で過ごす男士たちに視線を向けた。
「主に斯様な無様は晒せません」と言って部屋に引きこもっている者たちもいるが、多くの男士が最後の一枚だけを着用して過ごしている。審神者としては今更皆のパンツ姿で動揺したりしない。ただ、褌は見慣れないので、ちょっと目のやり場に困る。口に出したら揶揄うためにわざわざ褌に鞍替えしそうな者たちがいるため、審神者はパンツだろうと褌だろうとリアクションを変えていない。
今日のアイスタイムが終了し、それぞれ木陰や部屋に向かって移動し始める。動きが重く、まるでゾンビのようだ。
「主君」
秋田が声を掛けてきた。
審神者も部屋に戻ろうかと思っていた矢先のことだ。
なお、審神者も昼間は冷房を切っている。理由はふたつ。ひとつは、皆が涼みに来て仕事にならないから。もうひとつは、せめて昼間はみなと同じ苦行に耐えようという思いだ。流石に夜中は熱中症で死んでいても気づいてもらえないかもしれないため、その危険は避けたい。
「なに?」
「何かお話してください」
何とも漠然としたリクエストだ。
「何か……」
「主君の夏の思い出とか」
なるほど、具体的になった。
とはいえ、この本丸に配属されて随分と年月が経っている。今までどんな話をしたか覚えていない。
「私の、叔母の話をしたことがあったっけ?」
「叔母さん? いいえ、聞いたことありません」
「じゃあ、それにしよう。私は十年近く前、こんな暑い夏の日に陽炎の向こうに人の姿を見たんだ」
蝉というのは、三十五度超えると鳴かなくなるらしい。それを教えてくれたのは叔母だった。
私はその年の冬に進学したい学校の試験を受けたが、不合格だった。親は外聞が悪いと罵った。あと一回だけ挑戦させてほしいと頼み込み、随分と恩着せがましく承諾された。
塾に通うという案もあったが、お金がかかると親に渋られ、変に恩着せがましくされても不愉快だから一人で勉強することにした。私が勉強している間、親は外食し、通信販売で使いもしない健康器具を購入し、家の使用可能な床面積を少なくしていた。
そんな雑音が鬱陶しくて、私は逃げるように叔母の家に通った。流石に住み込みは迷惑になると思ったため、遠慮した。
叔母は、親戚の間では変人、変わり者などと耳に届く声量の陰口を叩かれていた。しかし、ウチの親も含めて親戚連中がその叔母を無視することができなかった。理由は簡単だ。お金をたくさん持っていたから。叔母も親戚連中のことは好きではなく、むしろ嫌悪していたのだが、どうしてか私だけはかわいがってくれた。
叔母は所謂キャリアウーマンだった。大きな企業に勤めていたのだが、一緒に仕事をしていた相棒が会社の金を持って逃げてしまい、その責任を取らされて彼女の持っている権利諸々を会社に取られた上に、自己都合の退職という扱いで解雇となった。
それから半年ほどは気力がわかなかったが、ある日突然、自分が被った理不尽に対して憤怒に駆られて数年で今の財を築いたらしい。行動力の塊のような人だった。
叔母はいつも同じ指輪をしていた。美しくカットされた透明な石がひとつ立て爪でとめられている。叔母の好みとは少し異なるように思えたが、彼女はそれをとても大切にしていた。
私が叔母の家に通うようになったのは梅雨が明けた七月からだった。
断られると思って叔母に連絡してみたのだが「構わないよ」といわれて言葉に甘えた。
親は図書館にでも行っているのだろうと勝手に想像してくれたお陰で騒がれずに済んだ。
毎日叔母の家に通うのに片道一時間かかったが、家の雑音に比べれば大した問題ではない。
叔母は高学歴で、海外の学校の単位も取得している秀才だった。しかし、その叔母に教えを乞うたかと言えばそうではない。叔母が私を受け入れてくれるのは、生活に干渉しないからだ。ウチの親が言うには、この家を建ててから叔母は外に働きに出ていないという。何をしているのかわからない、不審だと言っていた。しかし、私としては叔母がどういう生活をしていても別に構わない。通信設備を使って働くことなんてよくある話だし、勤めなくても収入を得る方法はいくらでもある。大人が自分の責任の範囲で自分の好きなことをして何が悪いのか。むしろ、自分の始末もろくにできない大人が近くにいるから余計に叔母が『まともな大人』に見えたのだと思う。
叔母の家は高級住宅街の坂の上にあり、その中でもひときわ大きな敷地を持っていた。立派な門構えがあり、住居の建物のほかに蔵があった。骨董品を集めるのが趣味となったと言っていた叔母の蒐集品はその蔵に納められているとか。警備員のような用心棒は常駐しておらず、システムで住居の安全を管理していた。
毎日汗みずくになりながら坂を上る。たまに坂の手前のコンピニエンスストアでアイスを購入して食べながら叔母の家に向かっていた。
ある日、ふっと背中が冷たくなった。真夏の昼日中に覚える冷たさではない。振り返っていいのかどうか迷った。本能が逃げろと警鐘を鳴らしているようなそんな焦りを覚えた。しかし、身体は恐怖に縮み上がり、脚が思うように動かない。少しでもその場を離れてしまわなくてはという思いから何とか足を動かしたが、突然その緊張が解けた。
振り返ってみると、そこには陽炎が立つアスファルトの向こうに白っぽい人の影があった。
先程までの緊張が嘘のようで、私はその場から逃げ出すように叔母の家に向かった。
叔母の家につくと、私の顔を見た彼女は目を丸くして「どうしたの」と問う。何がだろうと首を傾げると「真っ青。ちょっとひと休みなさい」と言いながらキッチンに向かった。
叔母が用意してくれたのは良く冷えたラムネだった。炭酸飲料を一気飲みするのは難しく、ちびちび舐めながら涼を取った。
「熱中症? いっそここに住む?」
「それをすると叔母さんに迷惑がかかるから。ありがとう」
母が入りびたるに決まっている。頻繁に金の無心をして更には窃盗までしそうだ。
叔母もそれが想像できたのか、「あー、まあね」と曖昧に頷いた。
翌日、叔母の家に向かっていると、見たことのない外国人が立っていた。おそらく外国人だ。髪は明るい金色で、瞳の色も青っぽい。ただし、服装はと言えば、サンダルにジャージと甚兵衛。そして日焼け対策なのか羽織を羽織っている。
この道を通って叔母の家に通うようになってひと月経ったというのに、初めて目にする人物だ。引っ越してきたのかもしれないと思ったが、ここ最近、近所でそういう業者を目にしていない。ならばバカンスでこの国の知り合いの元に遊びに来たのかもしれない。バカンスでこんな苦行と呼べる猛暑を体験しに来るとは物好きなものだ。
「やあ」と声を掛けられて足を止めた。無視してもいいのだが、どうしてか足を止めてしまった。足を止めたなら挨拶くらいは返さなくてはならないだろう。
「こんにちは」
「お前さんは、ここらの者か?」
流ちょうな日本語で問われた。
「いいえ、親戚が近くに住んでいるもので」
「……なるほどな」
少し思考を落とした様子で彼は呟く。
「それでは」
「ああ、気を付けてな」
軽く手を振られて振り返しつつその場を去った。とりあえず、きれいな人だという印象だった。
それからその外国人とは何度か顔を合わせた。彼は大抵一人で立っていて、しかも気づいたらそこにいたという様子だった。
ある日、私は例によって暑さに負けてアイスを頬張りながら叔母の家に向かった。今回のアイスはソーダ味だ。棒がふたつついているため、本来誰かとわけることができる代物だが、私は贅沢にもそれを一人で食べようとしていた。
ふたつに割らずにひとつのまま食べていると、またあの外国人にあった。
「それはなんだ?」
「アイス。ソーダ味のアイスだよ」
「お前さん、アイスが好きなのだな。この間も似たようなのを食べていただろう?」
指摘されて少し考える。好きか嫌いかと言えば好きだが、しみじみ言われるほどかと言えば、微妙だ。
「まあ、そうかも」
否定する材料もないし、しても仕方ないため肯定した。
「腹を壊すなよ」
「こんな暑さが続いているんだから少しくらいアイスを食べても大丈夫だよ。むしろ、この気温で体調崩す可能性の方が高いから」
「違いない」と彼は喉の奥で笑った。
彼と別れて叔母の家の傍まで来ると急に寒気に襲われた。いつだったか、恐怖を煮詰めたようなあの空気に私は息が苦しくなる。
ふっと目の前に人が立った。黒づくめのその人は私に視線を向ける。冷たい、感情の一切を排除したその視線に私は恐怖を覚えて叫び出しそうになった。
「あなたが……」
黒づくめの人物が一歩私に近づく。逃げたいのに逃げられない。
「お嬢さん、あの家の主とはどういったご関係で?」
慇懃に尋ねられて叔母の家に視線を向けた。
以前、別の人、あの外国人にも似たようなことを訊かれた。叔母は、何か危険なことに巻き込まれているのだろうか。
「親戚です」
「親戚。あの女に身内がいたのか……」
叔母の家を振り返りながら黒づくめの男が呟きを落とし、私に視線を戻した。
「使えると良いな」
「やあやあ、お嬢さん」
別の声が加わった。この声に聞き覚えがあり、私の緊張がとける。
ザッと私と黒づくめの男の間に割って入ったのは、私の想像した姿の者ではなかった。白を基調とした服に長く鮮やかな赤いストールが目を引く。柔らかな金色の髪が陽の光を受けて輝いていた。
「また貴様か」と黒づくめの人が言い、「ここは引いてもらおう」と私の目の前の人が言う。
「そういうわけにもいかない」
黒づくめの男が言うと、周囲が暗くなる。今すぐにでも雨が降るような周囲の様子に不安を抱いた。雨ならいい。でも、他の何かだったら……。
突然赤いストールが翻った。私の視界を守っていた背中が遠くにあり、そこでは黒い靄がいくつも消えていた。彼の手には刀が握れていた。派手なのに、どうしてか静謐さを感じた彼の動きに目を奪われて気が付くとジリジリと焼けるような太陽の日差しが戻ってきており、アスファルトから陽炎が立っていた。彼は振り返ることなく、その陽炎の向こうに消えていった。
まるで質の悪い白昼夢のようだった。
叔母の家について先程の白昼夢の話をした。白昼夢でなくとも近所に不審者が出ることは知っておいた方が良いだろう。
私の話を聞いて叔母は瞠目していた。この住宅街は自宅に警備員を置いている人も少なくないらしく、治安は非常に良い。そのはずだったのに堂々と不審者が出たのだ。叔母も気が気ではないだろう。
その時、私はそう思って納得した。
翌日、叔母の家に行ったが、門が開くことがなく、外出中なのかもしれないと一時間程度待ってみたが叔母が姿を現すことがなかった。
それが一週間続いた。何か急用で海外にでも行っているのかもしれないと思い、仕方なく図書館に通って勉強をしていると自宅に一通の手紙が届いた。
それは、叔母が亡くなったという連絡だった。
親戚一同指定された日時に葬儀場に向かった。そこには落ち着いた色合いのスーツを着た男の人が立っていた。せっかく服装が落ち着いているのに、髪が明るい金色だからちょっと構えてしまう。眼鏡を掛けていてもレンズの向こうの青い瞳が隠せていない。
「皆さま、お揃いですね」
ぐるりと周囲を見渡して彼が言う。私の知らない親戚と名乗る人たちもいたが、多分それはこの人にとって大きな問題ではないだろう。
「皆様にとって大切なお身内が亡くなられた悲しみは深く、お気持ちをお察しいたします」
むしろ形見分けだとウキウキしながらやってきている親戚たちはそういう挨拶は良いからと顔に出ていた。
「さて、私は顧問弁護士のニノマエモンジと言います。名刺が必要でしたら、後程お渡しします」
そう言って自己紹介をした後、彼は叔母から預かった遺言書があることを皆に話した。ただし、遺言書を開示するのは四十九日の法要が終わってからだと伝える。
途端に、親戚の間でその取り仕切りを誰がするのかという押し付け合いが始まる。叔母もそういうのを見越して生前に業者に委託しているのだと思っていたが、そうではなかったらしい。
結局、じゃんけんという最悪の方法で我が家が取り仕切ると決まった。
毎日浮かれながらカウントダウンしている母親に心底呆れながら私は先日受け取った名刺を見た。それっぽい肩書と連絡先が書いてあり、連絡先はちゃんと繋がるものだった。
『一 紋字』というのが名刺に記載されている彼の名前なのだが、いや、どう見てもあの外国人でしょと突っ込まずにはいられず、葬儀の関係で連絡を取った際に何度指摘しかけたかわからない。しかし、仮にあの外国人であったとして、名前を聞いていないため、本名だと言われたらそうかというしかないのだが。
私を除く親戚たちの待望の日がやってきた。
叔母の四十九日の法要を終え、遺言書の開示となる。
まず、叔母の蒐集した骨董品等はすべて国に寄付をするということが書かれていた。国宝などの文化財が含まれているため、それをきちんと管理できるところに納めてもらいたいということらしい。また、土地は売却し、叔母の墓の管理のために必要な費用に充てるようにとのこと。
この時点で親戚たちのブーイングが酷かったのだが相手が相手であり、書類も正式なものであるため、どんなに騒ぎ立てても状況は変わらない。
「では、次に現金と証券についてです」
途端に親戚一同傾聴する。
叔母の資産は莫大であり、知らない親戚が増えていたが、それも含めて納得するだけの形見分けとなり、皆満足して解散していった。
「ニノマエさん」
帰り支度を始めている彼を呼び止めた。
「どうかしましたか?」
「叔母の家の解体はいつごろから始まると聞いてますか?」
「具体的な日取りは聞いていませんが、すぐにでも、と」
翌日から私は叔母の家に通った。
「すぐにでも」の言葉のとおり四十九日の法要が済んだ翌日から荷物を運び出すためのトラックが入り、それからそう日を置くことなく叔母の家が工事車両によって無慈悲に壊されていった。
豪邸と呼ぶには小ぢんまりとしていた叔母の棲家はあっという間に崩され、コンクリートや鉄筋の塊となり、立派だった蔵も見る影もなくなった。
快晴が続く中、工事の様子を眺めていると、突然ふっと陰った。
見上げると『ニノマエ』さんが立っていた。
「毎日通っているそうだな」
「はい。でも、明日でおしまいです」
明日にはこの土地は整地されるそうだ。毎日通っているため、工事の人が教えてくれた。作業は急ピッチで進んでいるらしい。
「叔母は、どうして亡くなったのですか?」
誰も口にしなかった疑問。理由はどうあれ亡くなった事実だけがあれば足りる人たちだったからだ。
「この国は、今、歴史を変えようとしている輩に攻撃をされてる」
「何の話?」
「まあ、聞きなさい。お前さんの叔母はその歴史を変えようとしている『歴史修正主義者』に資金提供していたようなんだ」
「叔母も、歴史を変えたかった?」
「それはわからん。ただ、お前さんの叔母は、僕が駆け付けたときにはもう虫の息だった。元々協力をし始めた理由がわからんが、その協力を拒もうとしたのかもしれんな」
「あなたは、何?」
「名刺を渡しただろう? 僕はしがない弁護士だ」
「歴史を変えようとしている人たちがいて、叔母が資金提供していたことを知っているのに『しがない弁護士』と名乗るのは、ちょっと説得力がないと思います」
私の指摘に彼は「うははは」と笑い、「そうかもな」と頷いた。
「手を出して」
言われて手を差し出した。
「歴史修正主義者の協力者であっても、人の子の最期の頼みだ。聞いてやらんわけにもいかんだろう」
私の掌の上には叔母が身に着けていた指輪がある。政府に寄付した物の中にあるのだと思っていたのに。
彼を見上げると、「今わの際に「これをあの子に」と言われたんだ」と教えてくれた。
「あの娘の言う『あの子』はお前さんだろうと思ったからな」
おそらくそうだと思う。従姉妹はいるが、叔母との交流がある人はいないし、あの形見分けの席で彼女たちは喜色満面だった。
「すぐに渡さなかったのは、お前さんにとっても不都合だっただろうし、一応、歴史修正主義者の協力者の持ち物だから色々と検分が必要だったんでな」
「うん。あの場で渡されたらまたひと悶着あったと思う」
叔母が付けていたように右手の薬指に嵌めてみた。右手の薬指の指輪は『約束』を意味する。
「検分したって言ってたけど、この石はダイヤモンドですか?」
「ダイヤモンド? ああ、金剛石のことか。いいや、硝子だと言っていたぞ。検分した者はお前さんの叔母のような富豪が持つには陳腐だと首を傾げていたな」
以前、叔母が宝石の手入れをしていたところに遭遇した。帰宅する前の挨拶のため部屋を訪ったのだ。テーブルの上にはルビーやサファイヤ、翡翠に瑪瑙。珊瑚もあった。色とりどりの宝石の中で叔母が身に着けていたこの指輪の石が随分と安っぽく見えて、だから興味本位で聞いてしまった。その石は何か、と。
叔母は苦笑して「ダイヤモンド」と返した。私が疑問に思った理由も察したのだろう。だが、彼女はこれを『ダイヤモンド』と言い切ったのだ。
「金剛石でなくてがっかりしたか?」
揶揄うようにニノマエさんが言う。
「いいえ、全く。これは、叔母にとっては間違いなくダイヤモンドですから」
約束の指に嵌っている指輪の石。永遠を約束すると言われているそれだと彼女は言っていた。
「なるほど。事実と真実は異なるということか。お前さんにこれを譲りたいと言ったあの娘の気持ちがわからんでもないな」
ニノマエさんは頷いて眼鏡を外した。
「さて、僕はもう少し後始末が残っているからそろそろおいとまするよ。お前さんも、踏ん切りがついたら帰ることだ」
「ニノマエさん。叔母の最期を看取っていただき、ありがとうございました。そして、たぶん、私はきっとあなたにお世話になっていたんだと思います。ありがとうございました」
私の言葉に彼は目を細め「ああ、構わない」と頷いてその場を離れていった。
「これが、私が体験したとある夏の不思議な出来事」
おしまい、と審神者が話を締めた。
「主の嘘つき!」
突然の非難に審神者は驚いて振り返る。そこには加州が立っていた。
「え、なんで?!」
「だって、主は俺に会う前に刀剣男士に会ってたじゃん。俺のこと、『初めての刀剣男士』って言ってたのに」
「そうだよ。初めて目にした刀剣男士は、加州清光だよ」
「さっきの『ニノマエ』ってやつ。どう考えても刀剣男士でしょ」
「そんな名前の刀剣男士いるの?!」
「いや、知らないけど」
心底驚いてる審神者の様子に加州は戸惑いを見せた。本気であれを刀剣男士だと気づいていなかったらしいし、今でもそうだと思っていないようだ。ということは、彼女の中で本当に『初めて会った刀剣男士』は『加州清光』ということで間違いないことになる。いまいち腑に落ちないが、そういうことなのだろう。
審神者と加州のやり取りを聞きながら、山姥切はそっとこの場を去っていく本歌の背中を見送った。審神者の話の途中から彼の様子はおかしかったし、今も隠れるように去っていく様子が彼にしては珍しい。そういえば、審神者が話をしている最中に一文字派の者たちもそっといなくなった。もちろん、審神者の昔話だからちゃんと聞いていなくてはいけないという決まりはない。だが、彼らもそっと抜け出すようにいなくなったのだ。逃げるようにというか、何か理由がある様子で。
加州が審神者に謝罪している様子を眺めながら、山姥切は溶けきったみぞれを飲み干した。
本丸に平穏な日々が戻ったのはそれから二日後のことだった。
原因はいまだに不明らしいが、とりあえず復旧したため、皆は自室で存分に涼をとり、少し前まで約束されていた快適な本丸生活を送るようになった。
それから約半年後に政府の指令で特別調査任務に参加した。任意だと言われても出陣しないわけにはいかないということで、数日間、加州が本丸を留守にすることになった。出陣した彼らからそろそろ戻れるとの連絡を受けていた秋田は、彼の帰りを心待ちにしていた。加州が不在の折は、秋田が近侍を務めることが多いのだが、やはり審神者にとって勝手が違うらしく秋田にとって心苦しい。このため、加州の帰城の報は審神者以上に秋田が安堵した。
そろそろ帰りだろうと待っていると知らない人物が審神者の執務室に向かっている。
「どちら様ですか」
毅然と問うと「これはこれは」と彼は足を止めた。
「審神者殿にお目通りを頼みたい。そうだな、『ニノマエ』と言えば応じてくれるやもしれん。いや、応じるだろう」
「少しお待ちください」
廊下の真ん中ではあるが、秋田は客人らしき者を待たせて審神者の執務室に向かった。秋田の話を聞いて審神者は執務室から慌てて飛び出した。
「本当に刀剣男士だった!」
廊下で待っている客人が聞いたこの本丸の審神者の第一声だった。
「お前さん、審神者になってもう随分と経っているだろう。刀剣男士とそうでない者の区別くらいできないのか」
「人には得手不得手があります。ところで、しがない弁護士のニノマエさんが何の御用で?」
「お前さんの端末に政府から何か届いていないか?」
「何かなら届いていました。まだ開封していませんけど」
「ならば、今すぐ開封することを勧めるぞ。僕がここにいる理由がわかる」
「わかりました」と審神者は頷き、「秋田、応接間に御案内しておいて」と指示を出して執務室に戻る。
審神者が目にした政府からの通知は、新たな刀剣男士の配属命令だった。
その刀剣男士の名は『一文字則宗』という。なるほど。彼の偽名の根拠がわかってスッキリした。
応接間に向かい、「一文字則宗の配属、承認してきました」と報告すると「これからよろしく頼むぞ」と彼は鷹揚に頷く。
「もう少ししたら、加州が戻ってくると思うので、部屋割りとか色々案内を受けてください」
「わかった。ところで、それはあれからずっと身に着けていたのか?」
審神者の指輪に視線を向けて問う。
「はい。あなたの口にした『事実が真実とは限らない』という言葉がとても気に入っているので」
「ふむ。年長者として導けたというわけか」
満足げに頷く彼に「そうかもしれませんねぇ」と審神者は適当に返す。顔見知りだと最初から気安い。
間もなく、加州が帰城して先ほどまで一緒に出陣先の現地にいた政府の刀が本丸に居ることに難色を示し、それでも面倒見の良さから、新刃の面倒を見るという審神者の頼みを聞き届けることになる。
いつだったかの夏の日に、陽炎の向こうに見た人影と彼女はふたたび同じ時間を過ごすことになったのだった。
桜風
21.8.8
(22.2.1再掲)
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