変わらない本質
| 朝の空気と共に厨からの暖かい匂いが部屋に忍び込んでくる中、起床して身だしなみを整える。 「いち兄、起きてるか」 廊下から声を掛けられ、少し違和感を覚えつつ「起きてるよ」と返した。 障子戸が開き、顔を見せたのは弟だった。……たぶん。 「主!」 近侍である一期一振は駆けて審神者の私室に向かった。 向かったと言っても、隣が審神者の私室だ。近侍の控えの部屋を飛び出して四、五歩大股で歩みを進めればその部屋の目の前に立てる。 「主大変です」 部屋の中に声を掛けることなく障子戸を開けると彼女は着替えの途中だった。 下着を着ている最中にまさか障子戸が開け放たれるなど思っていなかった彼女は一時停止状態だ。 「慎ましいものですな」 何に対するリアクションか察した彼女は側に立てかけてある手鏡を取って「やかましい!」と一期にそれを投げつける。 はしっと彼はそれを受け止め、「失礼しました」と一旦障子戸を閉めた。 「いち兄、大将のはこれでも大きくなった方だぜ。ちなみに、下着が『寄せて上げる』仕様らしいから、普段は大きく見えてるだけだ」 言うな、と思いながらも障子戸の向こうから聞こえた声に彼女は首を傾げた。 「薬研?」 「おう。どうした? 俺はそれくらいがいいと思うぜ」 「そんなことは聞いてない」 間髪入れずに彼女が返す。 「声がおかしいけど、風邪でも引いた?」 「うん? 風邪じゃないとは思う」 「そう」 そういったことに詳しいだろう、薬研が言うのだ。風邪ではないのだろう。 では、なぜいつもと声が違うのだろうか。 着替えを済ませて髪を結い、障子戸を開けた。 「お返しいたします」 「はいはい」 先ほど投げつけた手鏡を受取ながらふと、一期の隣の男を見た。 「は?」 「私が主の部屋を訪った理由です」 一期は深く頷きながら隣に立つ、目線が自分と殆ど変わらない男に視線を向ける。 「よお、大将」 にっと笑うその表情は間違いなく、毎日目にしている薬研のもので、だが、何だこの急成長。成長痛でのた打ち回る姿を見てないぞ? いやいや、そもそも彼は刀だ成長するはずがない。本体に合わせて姿かたちが出来上がっているのだから。 「それ、どうしたの?」 「このナリか?」 「まずは、浴衣どうしたの?」 「宗三に借りた」 さわやかに返された。 「なんで成長してるの?」 「わからん」 清々しく答えられた。 「え、と。一期、今この城の中でこの現象が起きてるのは誰?」 「確認してまいります」 「状況を把握したら政府に問い合わせるから早急にお願い」 「はっ」と返事をして彼は背を向けて駆けて行った。 「それで……」 視線を向ける。薬研を見上げるというのは中々新鮮だ。 「ん?」と首を傾げる仕草も間違いなく薬研で。 「いつから?」 「起きたらだな」 「何か変調とかは?」 「こうなる前の違和感はなかった」 近侍から受け取った手鏡を仕舞うために部屋に戻ると彼も付いて来た。 「何か困るか?」 「そりゃ、困るでしょ」 「俺は不具合ないけどな。こうして大将を見下ろせるのは中々……」 審神者の肩に手を置いて見下ろしながらにやりと笑う。 普段は薬研の方が背が低く、それに多少なりともコンプレックスを抱いているのは知っていた。 更に、薬研との距離は背が高い方の自分にイニシアチブがあり、そのため、今の状況は落ち着かない。平たく言うと、顔が近い。 ぐぐっと掌で彼の顔を押しやると少し拗ねた表情を見せた。 「薬研藤四郎自体は? 大きくなったの?」 「見るか?」 帯に手をかけ始めた薬研に「脱ぐなばか!」とツッコミを入れる。たまに下ネタを挟むのも変わってない。 「打刀くらいの大きさだ」 「一期と同じくらいだったのに」 「人の姿では打刀も太刀もさほど変わらん」 そうか、と納得しながら改めて薬研を見上げた。 中身と外見が一致してしまったこの男はもはや最強なのではないだろうかと思い始める。 「薬研、ちょっといい?」 「ん?」 彼女に視線を向けると閃光が目に入る。 「大将、俺はそれが苦手だと……」 文句を口にしてみるが、彼女は手のひらサイズの端末に何かを打ち込んでいる。 「政府に連絡するのはいち兄を待ってからじゃないのか?」 「うん。これは友達、審神者仲間との連絡用の。もしかして、他の本丸でも同じ現象があるかもしれないから聞いてみることにした。本当は政府に問い合わせたくないんだよね」 実験台にされるかもしれないから、という言葉は飲んだ。検閲が入るため、どの道情報は筒抜けなのだが、検閲自体は暗黙の事実であって、政府は公言していない。 「主」 廊下から近侍の声がした。障子戸を開け放っているのだから姿を見せて声を掛けてもいいのに、と思いながら「どうぞ」と彼女は返す。 「薬研と同様な症状のある者はおりませんでした」 「ありがとう。そろそろ朝ごはんでしょ? 政府に問合せしてすぐに行くから先に行ってて」 「畏まりました」 「わかった」 二人が居なくなり、気が重い中、彼女は政府に対してこの城で起こっている珍現象の問合せの通信を送り、大広間に向かった。 彼女が大広間に着くと、多くの仲間に囲まれている薬研が目に入った。彼の兄弟と言える粟田口派の者たちが羨ましがっている。 「さあ、朝ごはんを食べよう」 膳が目の前に置かれた彼女が部屋の中にいる皆に声を掛けた。 主たる彼女が食事を始めなければ皆は食事を始められない。例外として彼女が体調不良で姿を見せられない場合はあるが、結構頑健なようで、そういった事態は過去に二度しかない。 食事を終えた彼女の言葉を皆が待つ。 普段は多くの者が食事が終わり次第席を立つのだが、今回、この城の刀剣が成長するという珍事が起きている。彼女から何か発表があるかもしれないと待っていたのだ。 「さて、」と箸を置いて彼女が部屋の中を見渡して皆がいることを確認した。 「今回、薬研がどうしてか大きくなってしまいました。この原因については政府に問合せ中です。原因がはっきりするまで、出陣及び遠征は控えます」 不満の声を上げる者がちらほら出ている。彼女もそういった反応は予想済みだったらしい。 ひとつ頷き、「では、戦闘中に突然刀種変更という形になったらどうするの?」と問いかけてみた。 不満の声をあげた者たちはグッと言葉に詰まったが「何とかする」と言った者があり、「何とかって? 今までの戦い方とは間合いが違うし、目線も異なる。それが戦闘中に起きて、折れないとどうして言い切れるの?」という彼女の射抜くような視線を受け止めきれず、視線を外した。 「どれくらいで原因が判明するかわからない。ただ、態々危ない橋を渡る必要はないと思う。これも修正軍の攻撃かもしれない。それなら、十分な対応策を取ってからじゃないと確実に痛い目を見る。私はあなた方を喪いたくない」 彼女の言葉に感涙する者、諦めたように肩を竦めた者、それぞれの反応があったが反対の声はなくなった。 「内番は引き続きいつもどおりでお願いね」 話の締めくくりとばかりにそういった彼女は席を立った。一期がそれに続く。 ざわめく大広間を背に彼女は足早に執務室に向かった。 「如何ですか?」 「確認するっていうだけ」 政府との連絡用端末が電子文書の受信を示していたため、期待しながら開いてみたがとりあえず問い合わせを受理したという連絡だけだった。 「同様の事例はこれまでになかったということでしょうか」 彼女の側に控える一期が問う。 「たぶんね。そうじゃなかったらさすがに過去の例とか教えてくれるでしょ」 「そうですな」 吐息多めの同意は愁いを帯びており、彼もやはり弟を案じているのだろう。 最も情報を持っているはずの政府が現段階で不明と言っている以上、こちらもどうしようもない。 出来ることと言えばいつもどおりの日課のみ。 日課を済ませて昼食を終え、彼女はこれまで政府から送られてきた書類や情報を再度確認してみることにした。 眉間に皺を寄せながら態々難しい言い回しにされた書類に視線を落としていると庭から賑やかな声が聞こえてきて、ふと、彼女が外の様子を気にするようなそぶりを見せた。 「申し訳ございません。静かにするよう叱ってまいります」 一期の弟たちが外で騒いでいるのだ。 「いいよ」 ともすれば沈みそうだった気持ちが少し軽くなった。一度伸びをして廊下に出る。 日の光に眩んで思わず瞑った目をゆっくりあけて庭を見渡した。 いつもと変わらない風景だ。 違うところと言えば、短刀の一人が大きくなっているくらいのもので、実はそれすら大した問題じゃないのかもしれないと錯覚してしまう。 大きくなった短刀はその背丈を活かして弟たちの相手をしている。 「ねえ、一期」 側に侍る一期に声を掛ける。 「はい」 「『お兄ちゃん』という立ち位置を今まさに奪われそうですけど?」 「……少し席を外してもよろしいでしょうか」 「どうぞどうぞ」 吹き出すことは何とか堪えた。 庭に降りて弟たちに向かって駆けていく彼の背を見送る。 ふと、手元の端末が反応した。今朝、審神者仲間に送った連絡の返信のようだ。確認しようと端末を操作していると「大将!」と至近距離で呼ばれて顔をあげると後藤藤四郎が居た。 「どうしたの?」 「薬研が大きくなった理由、わかったのか?」 一期と同様に兄弟の現状を愁いているのかと思ったが「どうやったら俺も大きくなれるんだ?」と問われて早とちりだったと反省した。 「まだわからないよ」と返せば肩を落とし「わかったら教えてくれよ」と言って兄弟の元へと戻っていった。 肩を竦めて再度操作する。 「どうだ?」 今度はまた別の声。 「あちらは薬研と同じ症状の刀剣男士はいないんだって。ただ、出陣や遠征で留守にしている刀剣男士がいるから無いとも言い切れないって」 「出陣中か……」 「うん、心配。薬研も最初は距離感掴めなかったんでしょ?」 彼女に指摘されて彼は眉をあげた。悟られていないと思っていた。 「残念ね」 得意げに言う彼女に「大将には敵わんな」と肩を竦めて首を傾げる。 頭の位置が違うので距離感を掴むのに少し時間がかかった。 それでも今はもう大丈夫だと思っているが、これが戦場で起こってしまっていたらと思うと正直ぞっとする。 「何もなければいいがな」 彼女の心情を慮って彼はそう呟いた。 明け方早く、一期は隣室の彼女に呼び出された。 まだ身だしなみも整えていないがその呼び立てに応じないわけにはいかない。 「如何されましたか、主」 「薬研を呼んできて」 震える声で言われ、「すぐに」と返し、その足で粟田口の兄弟が生活している部屋に向かった。 間もなく審神者に呼び出された弟を伴って戻ってきた一期は「主、連れてまいりました」と声を掛ける。 「大将、こんな早くからどうした?」 声を掛けると「早い? え、あ。本当だ……」と呆然とした彼女の声が聞こえてきた。 隣に立つ一期に軽く背を押されて促された薬研は頷き、「大将、開けるぞ」と声を掛けて障子戸を開けた。 「主、私は隣室に控えております」 声を掛けた一期が部屋に戻っていくのを見届けた薬研は彼女の部屋に足を踏み入れた。 「大将、どうした?」 俯いている彼女の側に膝をついて声を掛ける。 「時間確認してなかった、ごめん」 「それはいい。大将に呼ばれりゃ夜中だろう喜んでと応じるさ。それより、どうした?」 労わるような声音に彼女はさらに俯いた。 「ねえ、薬研」 「うん?」 「新撰組のみんな、名前覚えてる?」 「新撰組のって、加州たちの事か?」 頷く彼女を見て「加州清光、大和守安定、堀川国広、和泉守兼定、長曾祢虎徹。今のところこの五口だな」と指折り数えながら名を口にする。 「どうしたんだ?」 「昨日、連絡取った審神者仲間のところ」 「ああ、出陣中だとか言ってたあの本丸のか?」 薬研の言葉に頷き「あそこも鶴丸が変わってしまったらしいの」と彼女が返す。 「鶴丸が? あれ以上大きくなってどうするんだ?」 山伏のように肩幅でも付いたかと思ったが、そうではないようで彼女は首を振る。 「小さくなったらしいの」 「小さく? 打刀になったのか?」 またしても彼女は首を横に振り「短刀。しかも秋田よりも少し小さいんだって」と返す。 「そいつは随分と……」 想像がつかない。そして、やっと合点がいった。 「その鶴丸が、記憶がないのか? 新撰組の」 「というか、刀剣男士としてこちらに顕現した以降の記憶がないみたい。昔、刀剣として同じ主のところにいた人はわかるらしいの。平野とか、燭台切とか」 「だから、大将は俺にも確認したんだな。新撰組の記憶があるかどうか」 彼女は頷く。 「……待て、顕現した以降の記憶がない?」 再び彼女が頷いた。 「主のことは?」 「記憶にないんだって。『娘』って呼ばれたみたい」 薬研は瞠目した。彼女が連絡を取った本丸の審神者がどれなのかわからないが、一度現世の会議とやらの供として多くの審神者が集まる場所に同行したことがある。 その時には何人か彼女と懇意にしているらしい人間を目にしたし、その側には自分のように審神者に信頼を寄せられている刀剣男士の姿があった。 他の審神者の事にさほど興味がなかったため、今回のがどれなのかわからないが、それでも心を痛めるのに十分な状況だ。 「あの本丸って中々太刀が来なくて、鶴丸以降、この間やっと燭台切が来たくらいなの。ずっと頼りにしてたから余計にショックが大きかったみたいで」 なるほどと納得し、薬研は彼女の頭を撫でた。 「俺は覚えていた。ひとまず安心したか?」 こくりと頷く彼女に苦笑を零して「じゃあ、大将。もう少し寝ろ」と促した。 起床するにはまだ早い時間だ。 不安そうに見上げる彼女に再び苦笑を零して、「手を繋いでてやるから」という。 「薬研は寝なくても大丈夫?」 「供寝をご希望か?」 ニヤッと笑って言うと彼女は半眼になった。 「薬研が言うと途端にやらしくなるのは何でだろうね」 「俺がそういう目で大将を見てるからだろう」 ぺちっと無言で額と叩かれた薬研は苦笑して「ほら、大人しくしとくから寝ろって」と再度促すと彼女は頷き横になる。 「ありがとう、薬研」 「ああ。おやすみ、大将」 薬研が額に口吻けを落とし、彼女は静かに目を瞑った。 「主、そろそろお目覚めください」 声を掛けられて目を明けてがばりと体を起こす。 「え、今何時?」 「そろそろ朝餉の時刻になります」 「薬研は?」 「先ほど私に声を掛けて退室しました」 寝起きで頭が回らない。 「えっと、粟田口のみんなに謝らないと」 「お気遣いありがとうございます。ですが、主。今はまずお着替えください」 「あ、そか」 優先順位が鮮明になってきた。 「寄せて上げるという下着の装着のお手伝いをいたしましょうか?」 「要らない。着替えるから出てって」 彼女の返事に一期は頷き、「では、御用の際は声を掛けてください」と恭しく頭を下げて部屋を出て行った。 あの弟にしてこの兄かなどと思いながらも着替えを済ませて髪を結う。 障子戸を開けると雲ひとつない青空が目に入った。本日も快晴のようだ。 「おはようございます」 改めて挨拶をした一期に「おはよう」と返して彼女は大広間に向かった。 「まだ政府から連絡はありませんか?」 「うん。昨日、何の連絡もなかったからまだかかるかも」 「そうですか」と相槌を打つ一期の声が暗い。 「心配なのはわかるけど」 「兄の立場を奪われる身としては……」 「そこ?!」 彼女が思わず声を上げると一期はにこりと微笑んだ。 「無理をされているのではないかと心配いたしましたが」 「あー、うん。ご迷惑をおかけしました」 「いいえ。主の心配がなくなったのでしたら、それで十分です」 日課の任務をこなして午後は城の中を散歩した。 ふと道場から声が聞こえて足を向けてみる。 「これまた……」 ボロボロになった薬研が長谷部に挑んでいた。 慣れない長さの木刀を握り、手合せという名の指南を受けている。 ここまで薬研が打ちこまれるのを見るのは久々だ。 この城に来たばかりの頃はさすがに打撲をたくさん作っていた。ここ最近は随分と頼もしくなり、そういった怪我は減ってきていた。 何となく道場の隅で彼らの手合せを見学する。 やはり間合いがこれまでと違うためか、薬研の動きがぎこちない気がする。 如何せん彼女は素人だ。よくわからないなりに分析すると「なんとなく、いつもと違う気がする」くらいしかわからない。 「主!」 ふと道場の隅で見学している彼女の姿が視界に入ったらしい長谷部が手を止めた。 「隙あり!」と打ち込んだ薬研を軽くいなす。 「何が隙だ」 冷え冷えとした声音で薬研に一言向け、「どうされたのですか」と優しい声音で彼女に用件を問う。声の落差が大きすぎる。 「ちょっと通りかかったから」 「そうですか。まだご覧になりますか? 薬研を戦闘不能に追い込んでみせますよ」 「いや、それはちょっと……」 流石に手合せでそれは、と彼女が苦笑を返すと「そう簡単にはいかないぜ」と薬研が挑発する。 「ほう?」 軽い挑発に軽く乗ってしまう長谷部。 「薬研、なんでその長さの木刀で手合せしてるの?」 彼女の問いに「いつ何が起こるかわからんからな」と薬研が返した。 「でも、薬研は元に戻らない限り出陣させないよ? 原因が分かったとしても」 「そうだろうな。だが、敵襲があったらどうする。俺は、薬研藤四郎は主を守る刀だ。少しばかりでかくなったからと言って大将を守れんのは俺が許さん」 少しかな、と思いながらも本質は何一つ変わっていない薬研に少し安心する。 「邪魔しちゃ悪いから、私は行くね」 「行かれるのですか?」 寂しげに問われて彼女は苦笑し「うん、頑張って」と声を掛けて道場を後にした。 翌朝、政府からの連絡があった。 受信を知らせるランプが明滅しており、確認すると彼女は盛大なため息を吐く。 「主? 判明したのですか?」 一期に問われて彼女はこくりと頷いた。 朝食の席で彼女は皆に告げる。薬研は明日元の大きさに戻ると。 「どうしてわかるんだ?」 「この城の仕組みについて話をすることになるんだけどね」と言い置いた。 この城は人間が人工的に作り出した『霊的な場』になる。 此処は刀剣男士を顕現させるために人間が作り出した場所なのだ。審神者が赴任している城の殆どがそういった経緯で作られている。 自然に出来た霊的な場に城が作られたパターンもあり、その城では今回の珍事は起こらなかった。 人工的に作る霊的な場というのは科学と信仰の合作であり、要は、人間の作ったものに欠点がないはずがないということだ。 「今、再調整中で、それが終わるのが明日とのことです」 「また同じことが起きるのか?」 期待に満ちた瞳をした後藤が問うが「さすがにない事を願っているんだけどね」と彼女が返す。 今回のこのことで、刀剣を喪った本丸もあると書いてあった。 少しでも戦力が欲しいこの状況で同じ失敗は繰り返さないだろう。 事前にメンテの連絡が入るのではないかと踏んでいる。今後刀種変更の珍事が起こっても少なくとも喪うことは防ぐことができる。 状況が判明したため、今日から出陣及び遠征を再開した。 出陣には、身体を動かしたくて仕方なさそうな者たちを選ぶと喜び勇んで城を出て行った。 「たーいしょ」 声を掛けられて振り返る。 「せっかく練習したから出たかった?」 「いや、たぶん大将の手間を増やすだけだ。だが、この身体とも明日でおさらばか」 「いやだった?」 「うーん、俺は短刀薬研藤四郎だからな。あの体が嫌だというわけじゃないが、こうして大将を見下ろすことができなくなるのはさみしいもんだな。結構気に入ってたんだぜ」 ニヤッと笑う薬研に彼女は苦笑した。 「一期もほっとしたでしょう」 「いち兄?」 「お兄ちゃんの立ち位置とられかかってたから」 彼女の言葉に薬研は笑い、「なるほど。それでここ数日いち兄が皆に構ってたのか」と頷く。 「たぶん、ね」 ふふふと俯いて笑う彼女の頭上から「大将」と声が降ってきた。 「なに?」と見上げると唇を奪われる。 「この大きさの内にイロイロとしておきたかったんだがな」 目を丸くして驚いている彼女にいたずらっぽく笑い、「じゃ、長谷部と手合せの約束があるから」と薬研は道場に向かって行った。 「イロイロ、ね」 同じくなどと口にはせず、彼女は苦笑を零した。 |
桜風
(16.12.9初出)
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