薄紅色の花咲く頃 33





「それはそうと、お嬢様」

不意に少し厳しい声音で静蘭が秀麗に視線を向ける。

どうしたのだろう、とは静蘭の発言に耳を傾ける。

どうやら、秀麗は今日も一人で出かけていたようだ。合格して以来、『秀麗が歩けばごろつきに当たる』と言った頻度で絡まれていた。

そのたびに静蘭が駆けつけたり何だったりと危機を乗り越えていたのだ。

「また!?どうして...!」

も心配して外に出るときは静蘭と一緒に、という話をしていたのにも拘わらず妹は一人で出かけたらしい。

「お塩が、切れてて」

「今朝、言ってくれたら帰りに寄ったわよ。今日、偶々何もなかったから良かったけど」

そう言ってはやはり少し怒ったままだ。

そうでなくとも今日は2つ目の賃仕事の前に時間が空いていたのだ。その間に塩を買って一度家に戻ってまた出かけるという選択をしたのに。

絡まれる前に静蘭がごろつきを伸しているのは知っている。というか、彼のそれ以外の行動は考えられない。

それでも、やっぱり秀麗は絡まれるのだからその数は尋常ではない。

組連が出てこないのは、きっと秀麗が官吏だから。下町で育っても官吏となれば王の管轄だ。

きっと親分衆も気を揉んでいるとは思う。秀麗の事は子供の頃から知っているのだから。

そんな事を思っていると秀麗は絳攸や楸瑛からもお小言をもらっていた。この手の事になると口煩い静蘭は慣れているが、流石にこの2人から言われるともなると、少々居心地が悪い。

頃合いを見計らって邵可は助け舟を出す。

「えーと、影月君。私から及第のお祝いだよ。甘くてあまり強くないから、少しどうかな?」

そう言って酒瓶を取り出した。

周囲の空気はピシリと固まる。この中でお酒を飲んだ影月の事を知らないのは邵可だけだ。

「あ、お気持ちは嬉しいのですが。僕、お酒はちょっと...」

と動揺したかのように影月は椅子を蹴って立ち上がり、酒瓶から逃げた。

尚も勧める父に

「父様、あまり強く勧めない方が良いのではありませんか?景気づけとはいえ、お酒が体に合わない可能性もあります。それで体調を崩すなんてこと、今は避けた方が良いと思いますよ」

薬の知識の豊富な娘にそういわれれば強くは勧められない。酒は薬の一種だから、彼女がそういうならやめておこう。

邵可は残念そうに酒瓶を引っ込めた。

ホッとその場の空気が緩んだ。ひとりそんな空気に気づかず邵可は話を続ける。

吏部試のことだ。今年の吏部試はいつごろになるのかと邵可は絳攸に聞いた。

吏部試とは及第した進士たちの配属先を決める人事選抜試験の事で主に人物を見るといわれる。これを通らなければ官吏として働くことは出来ない。

国試は礼部が取り仕切るのに対して、この吏部試は名前の通り吏部が執り行う試験だ。進士の将来を決めてひいては朝廷の人事を左右できるこの権限を一手に担っているため、吏部は六部の一といわれている。その六部の中で同じ侍郎でも吏部侍郎である絳攸は他の五侍郎よりも位がひとつ高い。それだけで、吏部が重要視されているのが分かる。

今年の知らせはやや遅いという邵可に対して応える絳攸の返事は歯切れが悪い。

守秘義務ということも有るだろうが、それだけではないようだ。

どうやら、絳攸や楸瑛たちも同じように吏部試が遅かったようで、同じになるのかと楸瑛が問う。

まだそうとは決まっていないが、それが妥当だろうと言いながら絳攸は若い後輩2人をちらりと見た。

それを受けた秀麗と影月はどういうことか分からないと首をかしげ、邵可と静蘭はそれぞれ察したようだ。

も秀麗と同じように首を傾げた。朝廷の仕組みはそこまで詳しく知らない。

「どういうことですか、絳攸様」

秀麗が問う。

が、それに対しては「いずれ分かる」といって詳しくは話してくれなかった。

その後、楸瑛が絳攸をからかい、絳攸の堪忍袋の緒は切れた。誰もがその音を聞いたような気がして、絳攸は秀麗に針と糸を持って来いと叫ぶ。無駄口を叩く楸瑛の口を縫い合わせると言いながら。

は苦笑しながらその様子を眺めていた。


「そういえば、。忘れないうちに渡しておく」

少し落ち着いた絳攸が懐から文を取り出した。

「おや、殿宛に恋文かい?父親である邵可殿の前で堂々と渡すとは、案外度胸があったんだね。隅に置けないじゃないか」

「お前は相変わらずの常春頭だな。今すぐ外の池に沈んで来い!これは、預かってきたんだ」

は受け取り、じっとそれを見つめて絳攸を見る。

「陶老師からだ」

差出人の名前を聞いても何故それがに、と言われるのかが分からない。

「読んでごらん」と邵可に言われて皆に一言断りを入れてはそれを読んだ。

一通り読み終わって首を傾げる。

「なんて書いてあったんだい?」

「週3日くらいだけど、朝廷で助手をしないかって。勿論お給料も出るとか...」

首をかしげたままがそう言い、邵可が手を出すのでその手紙を渡した。

「本当だね。どうしたんだろう、突然」

文を読み終わった邵可も首を傾げる。

「また医師の方たちが倒れて人手が足りないんですか?」

手紙を預かってきた絳攸に聞いてみた。

「いいや。そういう話は聞いたことないな」

絳攸がそう言い楸瑛も同じだと頷いた。

「どうするの、姉様?」

を覗き込んで秀麗が聞く。

「まあ、丁度今ちょっとだけ予定が開いているし。引き受けてみようかと思うんだけど...」

そう言いながら父を見た。

「うん、良いんじゃないかな?勉強にもなるだろうし」

邵可が頷くのを見ても頷いた。

「けど、何で陶老師はお父様ではなくて絳攸様に文を...」

疑問を口にして自分で気づく。

そういえば、昨年の夏に朝廷で助手の仕事をしていたときは『朱』と名乗っており、紅家と縁があるとは言っていない。

だから、紹介した絳攸が手紙を預かったのだ。

「お父様。陶老師には本当の事をお話しておいた方が良いのかしら?」

以前のように本当に短く、確実に期限が決まっているわけではない。今度はどういう流れになるか分からないから、せめて責任者である陶老師には真実を話しておく必要があるのではないかと思ったのだ。

「それは、どちらでも構わないと思うからが決めたら良いよ。紅姓だと色々と面倒くさいこともあるかも知れないし。一応、人事の吏部は絳攸殿も尚書も本当のことは知っているし、主上もご存知だからね」

他人事のように言う父の言葉には頷いた。やはり、陶老師にだけは話しておこう。

「絳攸様。今すぐこの文の返事を書きますので、申し訳ありませんが明日にでも陶老師にお渡しいただけますか?」

が言うと

「今は食事中だし、後で良い。待つから」

と絳攸が言い、は頷いた。


食事が終わり、さらさらとは返事を書いて絳攸に渡した。

「すみません、遣い立てするような真似をして」

「いや。元々遣い立てをされていたんだ。こういうときは返事を貰って帰るまでが遣いだろう?」

そうは言われてもはやはり申し訳なく思って頭を下げた。

ふと、絳攸がキョロキョロと視線をめぐらせていた。

「たぶん、庭院です」

にそう声を掛けられて驚いたように絳攸は彼女を見下ろす。

「秀麗は、きっと李の木の下に居ますよ。花が、咲きましたから」

「...李?」

「ええ、昨年の夏の終わりに贈られてきたんです。もう花が咲きました。桜は、まだ咲きませんけど」

桜は秀麗が劉輝に貰った。

今年は無理でも、来年は花を咲かせるかもしれない。たくさん咲かなくても、一輪でも咲いてくれればともて嬉しい。秀麗だってきっと喜ぶ。

「そうか。李、か...」

「ご案内しましょうか?」

の言葉に「いや、いい」と断って絳攸は庭院へと向かっていった。

が、

「そっちから行かれたら少し遠回りになるのに...」

真逆に向かって足を進めた絳攸の背中を見つめながらは呟いた。

まあ、壁伝いに歩けばたぶんたどり着けるだろうし。帰るのを急いでおられないようだし。

そんな事を思って何も言わずに見送ったのだった。




この後、絳攸は秀麗を不器用なりに励ますのです。
そして、興味深い花として菜の花を挙げるのでした。


桜風
08.4.27


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