薄紅色の花咲く頃 55






秀麗と悠舜に昼食の差し入れをした後に向かったのは府庫だ。

父にもお弁当を、と思ってやってきた。

だが、何故か誰も居ない。

まあ、仕方ない。

そう思って備えてある茶器を取り出してお茶を淹れる。

「はぁ...」

一息つくとやはり疲労を自覚する。

あー、そういえば寺子屋。あそこまで胡蝶妓さんに面倒見てもらうわけにはいかないよな...

うとうとと瞼が重くなり、視界がぼやけてきた。


!私だよ!!」

その声に目を覚ましたとき、はその人物の腕を捻り上げていた。

「ご、ごめんなさい!どうしよう、大丈夫ですか、黎深様!!」

捻りあげていたのは黎深の腕だった。

「ああ、大丈夫だ。なんともない。こう見えて私は丈夫だからね。しかし、こそ大丈夫かい?随分とうなされていたよ」

「ごめんなさい」

呆然としながらは呟いた。

夢を見ていたのか?そうだろうか...自分は見た夢を忘れないと思うが...

も随分頑張っているみたいだね」

「秀麗の方が頑張っていますよ。あ、聞きましたよ。お仕事一晩で終わらせちゃったみたいですね」

の言葉におや、と眉を上げてはらりと扇を広げた。

「よく知ってるね?」

「庖厨所って、結構噂が飛び交うんですよね。その飛び交う噂のひとつでしたよ」

クスクスと笑いながらが言う。

黎深は肩を竦めた。そして、思い出したかのように懐から巾着を取り出す。

には、まだ渡していなかったからね。まさか、城で会うことができるとは思わなかったよ」

「お蜜柑ですね?秀麗が頂いて帰ったときにお裾分けしてもらいましたが...頂きます」

そう言って器用に皮を剥いていく。

最初に剥いたのは、黎深の前に「どうぞ」と置いた。

黎深は姪が剥いてくれた蜜柑を目の前にして感動の余り打ち震えている。

「黎深様」

「いつになったら『大好きで、素敵なおじ様』を付けてくれるのかな?」

少しだけ悲しそうな表情を浮かべた黎深がそういう。

は笑顔を浮かべたまま何も言わずに蜜柑をひと房口の中に放った。

「私も、茶州に行きます」

黎深は面白くなさそうな表情を浮かべた。それを目にしては苦笑する。

「だから、お父様をお願いしますね」

の言葉に黎深は深く溜息を吐いた。

にお願いされなくても、兄上は私が守るし、が気にすることじゃない。は、自分のことだけを案じなさい。他の者がどうなろうと関係ないじゃないか。秀麗やがしなくてはならないことではないだろう?」

「出来ることがあるのにしないのは、後悔の種です。10年前、出来ないことだらけで私たちは悔しい想いをしました。悲しみに満ちた光景を目にしました。私たちにとって、それは過去です。でも、今そんな出来事が現実になっている人たちがいるんです。あれから10年経って、私たちはそのとき望んだ力を持っています。後悔だけは、したくないんです。秀麗はともかく、私は自己満足のためですよ。自分のためです」

黎深は視線を落としてふてくされる。母親に叱られた子供のようだ。

「大丈夫です。ちゃんと、秀麗は帰ってきますから」

も帰って来なさい。身代わりになろうなんて思うんじゃないよ」

はニコリと微笑んだ。

「お茶、飲まれますか?というか、今あれからどれくらい経ったんだろう...」

呟きながらは茶を淹れる仕度をする。

「私がを見つけて四半時経っているね。可愛い寝顔だったよ。手を伸ばしたら捻りあげられてしまったけどね」

はぎょっとした。

「そんなに!?」

黎深は「ん?」と首を傾げる。

「もう戻らなきゃ!」

慌てているに黎深はこれまたもの凄く面白くなさそうな表情を浮かべる。せっかく姪と姪の淹れたお茶を飲みながら楽しい時間を過ごせると思ったのに...

「おや、。来てたのかい?」

「兄上!」

ガタリ、と音がして入ってきたのは父だった。

黎深は浮かれた声を上げて兄の登場を喜ぶ。

「やあ、黎深。いらっしゃい」

「お父様。これ、良かったら食べてください。入れ物は、あとで時間を見つけて回収しに来ます。お茶、今淹れたところなので飲んでいただけると有難いのですが...」

そう言って見上げる娘に向かって穏やかに頷く。

「ああ、わかった。頂くよ。それと、入れ物は私が庖厨所に持っていこう。秀麗のところにもあるのだろう?そっちも回収して一緒に持っていくよ」

「ありがとうございます!黎深様、ごめんなさい。失礼します」

。『玖狼なんかよりもよっぽど素敵で頼りになる、大好きなおじ様』が抜けてるよ」

扇子を広げてそう言った。

は「ははは、」と笑い、「そうですね」と返してそのまま府庫を後にした。

「...あの子にも、困ったものだね」

溜息を吐きながら上の娘が出て行った扉を眺めてお茶をすする。

「そうですね。影を付けますか?」

「そういうことをすると、に嫌われるよ。たちが気づかなくても、一緒に行く静蘭が気づくだろうし。そこまでの干渉は遠慮してもらうよ」

少しきつく念を押す兄に黎深はしゅんとなった。

「でも、心配してくれてありがとう。嬉しいよ」

と邵可が付け加えると、水を得た魚のように生き生きとした目を輝かせて

「私こそ、あの子達に相応しい叔父さんですからね!」

鼻息荒くそういう黎深に、邵可は「だったら、早く秀麗に叔父だと名乗りなさい」と言いたかったが可哀想だからとりあえずその言葉は娘が淹れてくれたお茶と供に飲み込んだ。




黎深の枕詞を考えるのは好きですけど、そろそろネタが尽きてきています。
黎深を捻り上げた瞬間、黎深の傍に控えている影が絶対に動いたと思うんですよね。
でも、黎深が制した。
それはそれでかっこいい現場だったろうに、大好きで仕方ない姪のどちらも見ていないと言う...(笑)


桜風
09.3.22


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