薄紅色の花咲く頃 84





「さて、と」

は立ち上がる。

小屋の中は、どう見ても長い間使われていなかった雰囲気には作り変えた。埃とかクモの巣はつくれないけど、たまに手入れに来ていたらクモの巣くらいはなくてもおかしくないだろうし。埃はどうせすぐ溜まる。

「お世話になりました」

深く頭を下げてそして、その場から姿をかき消した。


「影月君」

庁舎内、こんなところに役人ではない人が来るなんて出来たっけ?

そんなことを思いつつも、また茶州の依頼を受けたがついでに寄っただけかもしれないと思って影月は笑顔で彼女の元へと足を運んだ。

「またお仕事ですか?」

「ううん。個人的な都合で」

の言葉に影月は首を傾げ、は笑顔で影月の額の中心にトン、と指を当てた。

ガクン、と影月の体の力が抜け、意識を手放す。

「酷いことをされますな」

悲しそうな声が背中からかけられた。彼の気配を感じていたは特に驚くことなく、短く息をつく。

「白いのが入っているはずですから」

そう言ってが振り返った。

「櫂瑜様。『紅』の存在はこの世から消えます」

「貴女が負うべきことではないと思います」

の言葉に櫂瑜がそう返し、「遅い反抗期ってヤツです」とが肩を竦めて返すのを見て諦めたように息をつく。

「英姫様にはお話してあります」

「分かりました」

「では。お元気で」

はそう言って礼をとる。

「再び貴女にお会いできる日を心待ちにしております」

櫂瑜に言われ、は困ったように笑い、その場から消えた。




「行くのか」

貴陽を一望できる山の頂上の一番高い木の天辺に立っているとそう声をかけられた。

「...ええ」

振り返ることなく彼女は応える。

「秀麗が悲しむぞ」

「悲しみませんよ。紅は、存在しないのですから」

そう言いながら懐から香を取り出してそれを焚く。風に乗って貴陽の街へとそれは広がっていった。

「霄太師、葉医師。お世話になりました。ああ、違う。霄太師にはこの言葉、なかったことに」

そう言っては振り返り笑う。

「世話をしてやってるだろうが。というか、ここは格好をつけるところだというのに、なんだ、その風呂敷は。泥棒にでも入ったか?」

「ははっ、返品をするのに持ち歩いているだけですよ。手加減なく贈り物をくださる方が居たので。霄太師、紅秀麗はあなたのお陰で苦労ばかりです。勿論、静蘭や紅邵可も」

軽くそう言って彼女は頭を下げた。

「あまり、あの人たちをいじめないでください。勿論、主上も」

霄太師にそう言ってはにこりと微笑み、その場から消える。

「お前、全く悪印象しか持たれてなかったな」

葉医師と呼ばれた黄葉はクツクツと笑う。

「ふん」と鼻を鳴らして少しだけ不服そうに彼はそっぽを向いた。

「縹家が変わるな...」

ポツリと呟く霄太師の言葉に葉医師は静かに頷いた。



何だか胸騒ぎを覚えて静蘭は窓の外に視線を向けていた。

「どうしましたか?」

穏やかな声で声を掛けられ、慌てて振り返る。

「いえ、何も」

静蘭はそう返して開けていた窓を閉めた。

少し風が出てきた。室内の書類が散るかもしれない。

「主上なら、大丈夫ですよ。勿論、秀麗殿も」

静蘭が彼らの心配をしてぼうとしていたのだろうと思ったのか、鄭悠舜がそう言う。

「ええ、そうですね」

静蘭はそう返しながらも何か別の事が引っかかっていた。それが何かが分からない。

そんな消化不良な感情を抱えながら静蘭はそのまま仕事を続ける。



王が不在。そして、腐れ縁とも言える親友も藍州にある自分の家に帰った。

彼は、独りになった。

上司が仕事をしないため、身動き取れない状態が続いている。

ふと、いい加減色々とどうでも良くなって席を立つ。何時間も椅子に座っていると腰が痛いし、もうそんな状況にも飽きた。

窓を開けると微かに桜の香りがした。

季節から言ってまずありえないし、桜自体そんなに香りの強い花ではないと記憶している。

ふと、誰かが頭に浮かんだ。

それが誰か思い出せない。思い出そうとすると何だか不快感に襲われる。

「何だ...?」

今まで味わったことのない感覚に戸惑いを覚えた。

心が警鐘を鳴らす。忘れてはいけないと。

だが、思い出せない。何を忘れてはいけないのかすら分からない。

「誰なんだ...?」

輪郭は浮かぶ。髪の長い..たぶん女性だ。

だが顔や名前が浮かんでこない。ただ、彼女は温かい。そうだったはずだ。

「...くそ!」

思い出せないその記憶に焦りを覚えて毒づく。

「誰、なんだ」

絳攸はもう一度呟いて空を見上げた。

青い空はどこまでも広がっている。



髪を結ってもらった胡蝶はふと思う。いつ帰ってくるのだろう、と。

『いつ帰ってくる』?誰が??誰かの帰りを心待ちにしていたと思う。

「ああ、ちょいと」

傍を通った妓女見習いに声を掛ける。

姮娥楼一の妓女に声を掛けられて見習いは緊張しながらも返事をした。

「ウチに髪結いに入っているのは今日来たあの人だけだったかい?もっと、手の早い..えーと...」

何と言っていいかわからない。的確な言葉。そう、名前とか容姿とか。そういうのを言えばいいのだろうが、それが浮かびそうで浮かばないのだ。

変なことを聞くな、と思いながらも見習いはそれを肯定した。今までずっとあの髪結いが貴陽の妓楼の妓女の髪を結っているではないか、と。

「そう..だったね」

「お疲れですか?」

心配そうに見習いが聞く。

「いいや。ちょいと、ね。ありがとう、呼び止めて悪かったね」

胡蝶はそう言って奥へと向かった。

どうにも引っかかる。が、それを思い出そうとすれば途端に頭に霞がかかったようになって思考が鈍る。

もう少しで思い出せそうなのだ。自分にとって、とても可愛い娘か妹か。そんな存在が秀麗以外に居たはずだ。

「ああ、どうしちまったんだろうね」

胡蝶は呟き、少しだけ苛立ちを覚えていた。




縹家編と銘打っているので、どんどん話を進めていく..のかな?
進むとは思いますけど、どんどんにはならないかな?
原作を読むよりは時間の流れは早い方だと思うのですが...


桜風
10.5.16


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