薄紅色の花咲く頃 86





は、藍州へと向かう。

藍州には、今、妹と父が居る。王も居る。

全てを収めたらきっと藍家に腰を落ち着けるのだろうと思う。そのままとんぼ返りはないだろう。

だから、香をしのばせてその家に居た当主の妻、玉華に暗示をかけた。今回の藍楸瑛の件が終わって皆がこの家に集ったとき、この香を焚くように、と。これを焚き終わったら、玉華に施した暗示も消える。

この香は貴陽や茶州で使ったものよりは少し強めに出来ている。だが、勿論人体に害はない。記憶が、すっぽりと消えるだけだ。元々存在しなかったはずの人物を忘れるのだから、別に何ら問題はないだろう。

彼女は藍家を後にして彼らの後を追った。


「あーあ...も、信じらんない」

目の前の粉々に割れた鏡を見ては呟く。

?!」

目の前には、その鏡を割った張本人が普段糸のようにしている目を見開いている。

「ほら、さっさと去って。珠翠が来ますよ。珠翠だけでなく、他の人たちも。全く、何で『縹家』としての最初の仕事がこれかなぁ...」

ブツブツと呟きながらは傍においてある二胡に手を伸ばした。母が教えてくれた二胡。ただし、自分は弾かなかった。この身に流れる血により、その音がどのような影響を及ぼすか分からなかったからだ。

あ、でもその前に...

は秀麗の傍で膝をついた。そして彼女の腕をとって、その腕に数珠のような腕輪をはめる。

...?」

不思議そうに、邵可が娘の名を呼んだ。だが、彼女は自分を振り返らず、少し悲しげな表情を浮かべて妹を見下ろしている。

これは気休めだ。どれだけこれが効くか分からない。は俯いた。だが、ないよりはマシという言葉もある。つまり、が秀麗につけたそれはお守りのようなもので、『ないよりはマシ』というものだ。

気を取り直して二胡を弾く。

秀麗のように綺麗な真珠のような優しい音色ではなく、何処までも澄んだ水のようで静かに音が広がる。

足音が近付いてきた。

黒狼である邵可は何故がここに居るのか気になりつつも、その姿を消す。

換わりに入ってきたのは燕青だ。

「あ?おっきい姫さん。どうしてここに?」

「ちょうどいいところに。秀麗を連れて山を降りちょうだい。時間がない。たぶん、今こっちに向かってきている人たちが居るからその人たちもまとめて山を降りるように言って」

燕青は眉を寄せた。の纏っている雰囲気が全然違う。今まで何度かそんな風に感じたこともあった。だが、それは『気のせい』で片付けることが出来た。

だが、これは全く違う。ここに居るのは自分の知っている『紅』ではない。

?」

「秀麗のこと、頼んだわよ」

それ以上の問答は許さない。そんな口調でが言う。

確かに、時間がなさそうだ。

「おっきい姫さんは?」

「私は大丈夫。そんな気がするでしょ?」

確かに、と燕青は頷いて秀麗を抱えて立ち上がった。

燕青は途中、珠翠に会った。

「これは誰が?」

『これ』とは二胡の音色のことだろう。

「おっきい姫さん」

様?!なんで...」

「わかんねぇけど。あんたも山降りろ。おっきい姫さんが全員山を降りるようにって言ってた」

この震動はただ事ではない。

「燕青さん。奥の間では何が?」

「おっきい姫さんが二胡を弾いてた。そういえば、何だろう。鏡の破片みたいなのが床に散らばってたけど...」

「鏡?!」

そう悲鳴に近い声を上げて珠翠はそのまま奥の間に向かおうと床を蹴った。

しかし、それは出来なかった。

「珠翠殿」

はしっと楸瑛が彼女の腕を掴んだのだ。

「離しなさい、このボウフラ将軍!!」

「いーえ、離しません。これは山を降りた方がいいはずです」

そう言って暴れる珠翠を抱えて踵を返し、傍に居た笛を奏でていた龍蓮はそのまま奥の間に足を向ける。

扉が開いたことに驚いたは顔を上げた。

「手伝ってくれているのね。感謝するわ」

龍蓮はコクリと頷いた。

「あと半時くらいは弾いているから。その間に皆を九彩江から脱出させて。『皆』よ?」

龍蓮は頷いてそのままその部屋を後にした。

しかし、あれだけ全力疾走をしながら笛を吹き続けられるのは凄いものだ。あの音色ももちろん凄いが...


暫く二胡を弾き続けてきたが、どうやら全員ちゃんと脱出したらしい。

しかし、この部屋に入ってきたときにはうっかり思考が止まりかけた。

「時間がない..か。ま、そりゃそっか」

分かっていたことだ。

はそっと二胡を置き、何事かを口の中で唱えた。ふっと山の空気が変わる。

たいした時間稼ぎにもならないだろうが、ないよりはマシだろう。

このせいで瑠花に自分の存在を感知される可能性は否定できない。だが、まあ。これから彼女に会いに行くのだからこれを感じ取って、茶菓子くらい準備してくるならちょうど良い。

「さて、と」

そう呟き、はそこから姿を消した。




話が、原作的に随分と飛びました。
まあ、ほら。ヒロインは茶州にいたから、逆に貴陽の出来事についていくことは出来ないんですよ。
あれですね。茶州州牧就任編(原作の4・5巻)と同じ扱いです。ヒロインが絡むことが出来ないところはサクッと進める!


桜風
10.5.30


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