薄紅色の花咲く頃 92





はあれから何度か絳攸を訪ねた。行くことができなかった日もあるが、それは問題ではない。文鳥がいない時間が夜半から夜明けと言うのは絳攸にも分かるようになったから外ではどれくらい時間が経っているかがわかる。

が行くたびにお互いの身内の話をする。

そろそろか、とは口を開いた。

「貴方のお父様はどんな人だったの?」

の問いに、絳攸の表情が硬くなった。

しかし、ここで甘やかすではない。意外と厳しいのだ。

「どんな方?」

の父親は、どんな人だ?」

何故か応えられずに絳攸は思わず聞き返した。逃げた。

はこれ見よがしの溜息を吐いて見せ、「私にたくさんのものをくれた人ね」と答えた。

「たくさんのもの?」

「話したわよね。私は捨てられてたって。私の父は、私を拾って、育ててくれた。名前をくれた。家族と言うものをくれた。叔父をくれた。母をくれた。妹を、幼馴染を、たくさんの繋がりをくれた。あのままだと得られなかったはずのたくさんのものをもらったの。貴方もでしょ?」

の言葉に絳攸は口を閉ざした。

辛抱強く次の言葉を待っていると絳攸は「だが」と呟く。

「俺は何も返せなかった」

「もう諦めるの?」

返したの言葉に絳攸は顔を上げる。

「あ、手と足は動かして」とに促されて絳攸は進む。自分を待つ人がいるその出口に。

「諦める?」

「貴方は戻ってしなくちゃいけないことがある。そうよね?」

の言葉に絳攸は躊躇いがちに頷いた。

王から下賜された花菖蒲の佩玉を返すことが必要だ。

ぽかり、と絳攸は頭を叩かれた。

「そんなもん、後になって返せばいいのよ。それより、帰ったとき、貴方のために奔走している人がいるはずよ。貴方を心配して、毎日毎日牢獄に足繁く通った人もいるわ。小さな体で一生懸命負わなくてもいい一族の義務を背負っている子もいる。...貴方のために、最後の仕事をしている人もいるはず。目を開けて考えて。あなたは秀麗の師匠でしょ?」

の言葉に絳攸は目をぱちくりとした。

「秀麗を、知っているのか?」

「...さあ?」

口を滑らせてしまったと後悔しているところに、ツッコミが入り、は正直苦い思いをする。

誤魔化されたことは気に入らなかったが、ふと、絳攸の視界にの手首の腕輪が入る。紅い石がついた、華奢なものだ。

どこかで見た気がした。

「それは...」

絳攸が聞く。

はばつが悪そうに表情を曇らせた。

今ここで返しても、返したことにならない。だって、これは実物ではなく、明日の明け方体に戻ったらその体の腕にあるものだ。

「頂き物。大切な、ね?」

の言葉に絳攸は少し痛そうな顔をした。胸も少し痛い。


ずいぶんと上がってきた。

絳攸が足を止める。自分の声が聞こえたらしい。

「まあ、可愛らしい坊やね」

がからかうようにいうと絳攸は苦々しい表情をしたが、それでも過去の、思い出の中の自分を見た。

彼は泣いている。名前がほしかった。『紅』姓がほしかった。

だが、黎深はそれをくれなかった。自分を子供として認めていないのではないかと悲しくなった。

ああ、そんなこともあったな。

つい最近も同じようなことを思った絳攸の胸がざわりと騒ぐ。

しかし、まあ。何とも昔の自分ははっきりと物をいう子供だったのだなと感心した。

隣にいるも面白そうにその様子を見ていた。

「そんなに欲しいもの?面倒なだけよ」

が呟く。

気になって絳攸が過去の自分から視線を外してを見た。

彼女はまっすぐ過去の絳攸を見ていた。

「名前をもらえなかった。その意味は、置いてもらえない、要らない子だといわれているようだったんだ」

絳攸が当時の想いを口にする。

「黎深様は要らないものは最初から拾わないのに。まあ、お子様だった絳攸様には分からなくて当然か。かなり屈折されているから、あの人」

クスクスと笑う。

やけに、詳しいというか、的を得ているというか...

そう思いながら過去の自分を見ている絳攸はグッと拳を握った。

『李』なんて右を見ても左を見てもありふれているそんなものよりも『倶利伽羅』にしてはどうかと百合が言い出したのだ。

隣に立っていたが声を上げて笑っている。

しかし、そんなことは今は問題ではない。頑張れ、過去の俺。ここで断らなかったら『倶利伽羅絳攸』という名前になるぞ?!

は名前に関して議論をしている黎深、百合、絳攸を見ながら悲しそうに笑っていた。

女々しいことこの上ない。

いや、自分は女だから『女々しい』は間違っていないのだが...なんて脆いのだろう。

そして、季節は移ろいたくさんの景色を見せる。

絳攸はいつしか涙を流していた。

それを目にしたは一瞬驚いたが、それは至極当然のことだと納得する。

「なぜ、忘れていたのかだと?」

自問自答だろう。は口を挟まない。

これだけ、幸せな日常を送っていればたくさんの思い出が重なり、過去が色褪せる。

「幸せって案外慣れちゃうもので、人は次から次にそれを欲すからきりが無いの。在るものが当たり前になっちゃうからね。でも、それに気づける人って少ないし気づけた絳攸様はきっと運が良かったんですよ」

ゴシ、と目元を乱暴に拭った。そういえば隣にいたのだ、『』が。

ふと浮かんだ名前。彼女は『』と名乗った。だが、自分の頭に浮かんだ自然なそれは

?」

絳攸の言葉には目を丸くした。

「そうだ。お前はだ。何で俺は...」

ふと、耳に琵琶の音が届く。

ああ、来てくれたんだ。

「ほら、迷子の迷子の李絳攸さん。最強のお迎えが来たみたいですよ。急がないと、間に合わないかも」

歌うようにが言う。

百合の琵琶の音が絳攸を出口まで誘う。間違いなく、最も速く彼を導ける人だ。

、お前...」

名を呼ばれては笑う。今にも泣きそうな表情に絳攸は息を飲んだ。自分は、何か間違えたのか?

途端、は厳しい表情を浮かべた。

「では、迷子の絳攸さん。お元気で。大切なもの、選びたいものを素直に選べばそれがあなたの正解ですよ」

そう言い終わるかどうかのところでの姿は消えた。

ザァと強い風が吹き、桜の花びらが空に舞い上がった。

『絳攸』と名を呼ばれる。

百合の声だ。

絳攸は駆けた。百合の声のする、自分を待つ人がいるその現実へ。

厳しいことはたくさんある。辛いことやこれからしなくてはならないこと。問題や仕事は山積みだと思う。

それでも...

一度だけ振り返る。と別れたその場所は何処だったか...

もう分からない。見えないところまで来ていた。出口まであと少しだ。




愛の力って偉大です。(『愛の力』って書いてて恥ずかしい/笑)
絳攸は自力で彼女の名前を思い出しました。
でも、まあ。ずっとは覚えていられないんですけどね...


桜風
10.7.11


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