薄紅色の花咲く頃 93





目を覚ました絳攸がポツリと呟いた。随分と長い時間寝ていたため声が上手く出ない。それでも彼は確かに呟いた、「」と。

それが唯一耳に届いたのは百合で、泣きそうに微笑んだ。

絳攸が目を覚ましてくれたことを喜んでのそれと周囲は思っただろう。

当然それはある。だが、もうひとつ。

ほらね、。君は『想い』というものをわかっていない...

消されたはずの記憶。絳攸は今一瞬取り戻した。

彼女の異能の力だがどれほどか、何となく察することは出来る。だが、それを凌ぐのが人の想いというものだ。

そして、は絳攸のことを感じ取って危険を承知でずっと彼を導いていたのだ。

秀麗と絳攸はこれから忙しくなる。その間にまたのことを忘れてしまうかもしれない。でも、きっとまた思い出す。

絳攸を助けるのに尽力して彼が戻ってきたのを確認して気を失ったリオウを百合が面倒を見るといって牢獄を後にした。

「ありがとう」

自分が抱えている少年、そして、遠くから絳攸を助けに来た姪に向かって百合は呟く。


「おかえり」

微笑んでいうのは朔だ。

「助かった...」

このたびは夜明け前に引き戻された。の額には真珠のような汗がたくさん浮いている。

珠翠が危険を察知してくれたのだ。瑠花がやっとちょっかいをかけてきていた。今回、あと一拍遅かったらはこの体に戻れていなかったかもしれない。

現実世界ではかなりの頻度で強襲されている。腕の立つ用心棒達のお陰で何とかなっていた。も相手によっては自分の持つ力を使って応戦していた。

しかし、は自分の力を使うとその後暫く動けない。そろそろ飽和状態でもある。それに、本家が近付くにつれて相手の異能の力も強くなっている。

相手の力が強ければ強いほど、そして、自分が今までに『喰った』人数が多ければ多いほど自身にかかる負担が大きくなる。

が絳攸の元へといけなかった日が何度かあったが、それはこうやって異能の者たちを喰った日だ。

普通ならとっくに死んでいる。

珠翠はを見守りながら思った。

この異能は喰った相手を丸ごと引き受けることになる。その者の異能の力は勿論、思い出も、何もかも。

異能を得られるのは、きっといいことかもしれない。いや、どうだろう...

だが、丸ごと引き受けるの『丸ごと』には『魂』も入る。

ひとつの器の中にたくさんの魂が同居。そんなの普通はできっこない。ひとつの器にはひとつの魂。それが限界だ。

だが、は既に多くの魂をその器の中に詰め込んでいる。器の中の魂は自分が主導権を握ろうと暴れると聞いたことがある。

と同じ異能を持って生まれた人たちはこの能力をひた隠しにして、無能を装って静かに死を迎えるか、その力を使ったが故に飽和量を超える魂に耐えられずに精神が壊れて結局自らの命を絶つと言われている。

だから、の能力は縹家の『禍つ力』と呼ばれている。

様。とにかく、少しお休みください」

珠翠がそう勧めた。

逆らうことが出来なかった。

昼間は縹家からの強襲。夜は結界を張りつつ、絳攸の手助け。

休まる時間が何ひとつ無かった。

頷くことも無く、の瞼はとろとろと降りていく。


「行くのかい?」

「おいおい、本気か?」

朔と迅がそれぞれいう。

様にこれ以上負担をかけさせるわけにはいかないから」

「でも、彼女はそれを自分で決めたんだろうけど?」

朔が試すようにいう。

「だったら、これは私が決めたこと」

キッパリと返された。

ああ、本当に面白い...

迅を見ると困ったような表情を浮かべている。

「でも、アンタ戻っても捕まるだけじゃないのか?」

「捕まると思うわ。でも、『だけ』で終わらせる気なんて毛頭ないわ」

そう言って珠翠は縹家への入り口を開けて独りでさっさと敵地に乗り込んだ。

「おいおい...ったく、何だって女ってのはこういうときに腹を括るのが早いのかね。思い切りがいいというか、何と言うか...」

ボリボリと頭を掻きながら呆れたように迅が言う。

「まあ、悪くないとは思うけどね」

微笑んで朔が言う。

迅は溜息を吐いた。

きっとが目を覚まして珠翠の行動を耳にしたら慌てて追いかけるだろう。彼女が出来たのだから、だって縹家に直接道を繋ぐことができるはずだ。

いきなり敵の本陣に突っ込むって事か...

のんびり来たと思ったら次は敵地のど真ん中。

「兵法もへったくれもないなぁ...」

ぼやく迅に朔はのどの奥で笑う。だから楽しいんじゃないか、と。

半眼になって朔を見た迅だったが、何を言っても無駄なのはここ数日一緒に行動していて分かったことだ。

そして、迅の思ったとおりは慌てて縹家への道を繋いで飛び込んだ。

楽しそうに朔が続き、溜息混じりに迅も続く。

縹家に足を踏み入れたは一度目を瞑った。一呼吸そうして、再び瞳を開けて不敵に笑う。

「さて...喧嘩を売りに行きましょうか」

軽いその口調は何故か頼もしく思え、迅は溜息を吐き、朔は猫のように笑って頷いた。




黎明終了です。
百合さんは記憶をなくしていないから彼女の名前が絳攸の口から漏れたのは嬉しかったんですよね。
さてさて。やっとと言うべきか。
縹家本家に突入します。


桜風
10.7.18


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