あまくてにがい 1








(無一文になってしまった……)
 強面の男たちが次々に家具を運び出していき、がらんとした家の中を呆然と眺める。
 小ぢんまりとした家も誰かの手に渡ることが決まっているとか。
 父に借金があったのは知っていた。お人よしだったから色々と騙されたこともあるのだろう。とても父らしい。
 しかし、それはそれとしてこれからどうしようかと途方に暮れる。
 親戚づきあいはなく、身内と呼べるのは父ひとりだった。その父が他界し、財産もない。
(身売りかな?)
 幸いに、というべきか花も恥じらう十代の乙女だ。買い手はあるだろう。できればあまりひどくないところが良い。
「お前、これからどうするんだ」
 強面の集団のまとめ役の男が声を掛けてきた。
「まだ決まってませんね」
 苦笑を返す。
「じゃあ、ウチに来るか」
 ニヤリと笑う男から一歩下がり、「労働条件は?」と問うと「若い女の労働って言ったら、なぁ?」と返されて丁重にお断りしたい気持ちでいっぱいになった。
「お待ちなさい」
 凛とした声が耳に届き、振り返ると軍服を着た男が足早に近づいてきている。
「軍人さんが何の用だ?」
 強面の男が声を掛ける。
「その娘は、私が貰い受ける」
「は?」「へ?」
 まとめ役の男と『その娘』こと藤丸立香が揃って変な声を漏らした。
「あんた、身売り先決めてたのか?」
「これから選定予定でした」
「大丈夫ですか」
 労わるような眼差しが眩しい。
「え、と。どちら様でしょうか?」
 立香が問うと「失礼しました」と彼が一つ頭を下げる。
「私は、城ケ崎と申します」
「はぁ……わたしを貰い受けるというのは……」
「後でゆっくりお話しいたします」
 城ケ崎と名乗った男はこの場のまとめ役に視線を向けた。
「藤丸先生の負債は今回の押収で完済となるでしょうが、足りないようでしたら私が払います。借用書を持ってこちらの方に連絡をなさい」
「このおっさんは?」
「弁護士なんてものをしてますよ」
 代理人に指名された老人は隙のない笑顔で返しながら事務所の所在地が書かれている名刺を男に渡した。
「ほー……まあ、今回の押収の額については後で精査する。おう、お嬢ちゃん」
「はい?」
「これはお嬢ちゃんの物だろう? 差額が払われるなら返しておくぜ。もう必要ないかもしれないがな。せいぜい可愛がってもらえよ」
 ニヤリと先ほどと同じような笑みを浮かべた男に乾いた笑を返した立香は城ケ崎に背を押されて歩くように促され、その場を去ることとなった。
 男から受け取ったのは女学校の制服と筆記用具と教科書類。そして、先ほどから抱えていた父の位牌と遺骨。これだけが彼女の持ち物となった。
 案内された車に乗り込む前に自分が生まれ育った家を一度振り返り、キュッと唇を引き結んだ。


 車などに乗ったことはなく、作法がわからないと思いながら固くなっていると「大丈夫ですか」と再び労わられた。
「あ、はい。車が初めてで」
「そうでしたか。あ、もしかして気分が優れませんか?」
「そういうわけではなく……」
(まあ、緊張で吐きそうだけど……)
 乗車の緊張ではなく、この先の自分の生活への緊張だ。
 こんな異国の王子様のような風貌の軍人に「貰い受ける」と言われて促されるままに付いてきたが、どこに連れて行かれるのか聞いていない。
 売り飛ばされるとしてどこだろうか。軍の実験施設とかそういう所だろうか……
 ちらと視線を向けると柔和な笑みを返されてしまった。
 悪い人に見えないのがこれまた緊張の原因のひとつだ。
「わたしは、今どこに向かっているのでしょうか」
「私の自宅です。そうですね、何も言わずにお連れして申し訳ありません」
「いえ。あの、軍人さんはどうして……」
「もう少しで着きますので、落ち着いた場所でお話しします」
 そう言われてしまえば、もう会話が無くなる。
 この先どうなるのだろうかという不安が重くのしかかった。


 車が停まったのは洋館の前だった。
 新しいものではないらしく、おそらく文明開化ともてはやされた時期に建てたものだろう。あまり大きな屋敷ではないが、品格のようなものが漂っている。
 先ほどまで生活していたおんぼろの一軒家とは大違いだ。きっとこの屋敷は雨漏りなどしない。
 車には先ほどの弁護士も同乗していたため、彼を送り届けるために発車していった。
 門を開けて「どうぞ」と促され、立香は腹をくくった。半ば自棄になりながら門をくぐり、彼の後に続いた。
 ドアを開けると「お帰りなさいませ」とふくよかな体系の老年の女性がゆったりと頭を下げて迎え出る。
「ただ今戻りました」
「御嬢さんも御無事なようで」
「ええ。千恵さん、お茶の用意をお願いします」
「畏まりました」
「お手伝いさん、ですか?」
 千恵と呼ばれた女性が一礼をしてその場を離れていくのを見送って立香は視線を戻した。
「メイド、と本人は名乗っていますが」
 苦笑を浮かべながら返して「こちらです」と案内された。
 アンティーク調のテーブルと椅子が置いてあり、「どうぞ」と椅子を引かれて恐々と腰を下ろした。
「少しお待ちください。着替えてまいりますので」
(えええ……)
 ひとりにしないでほしい。
 しかし、彼は立香の心の声に気づくことなく部屋を後にした。

 ドアがノックされ、先ほどのメイドが入ってくる。
「おや、ベディ坊ちゃんは?」
「ベ、え、ベディ……?」
 ちょっと理解が追いつかない。
「ベディヴィエール坊ちゃんですよ。先ほどお嬢さんをこちらに連れてきた軍人さんの事です」
「城ケ崎様と伺っています」
「ああ、そうですね。まあ、耳慣れないお名前なので外では口にされないでしょうね。坊ちゃんはこの家の養子なんですよ」
(何となくそうじゃないかと思ってました)
「旦那様が海外に出られた際に幼い坊ちゃんに出会われて。爵位のある家なんですけどね、継ぐ人がいないからって養子にされたんです」
「えっと、色々と面倒くさいことが起きたのでは?」
「起きましたよ。でも、坊ちゃんの実力が周りを黙らせました。あの若さで将官ですしね」
「は?」
 変な声が出た。
「千恵さん」
 窘めるように名を呼ばれた彼女は肩を竦めて茶を置いて部屋を出ていく。
 先ほどの堅苦しい軍服を脱いだ彼はワイシャツとスラックスという軽装となっていた。
「千恵さんはおしゃべりが好きですからね。父の代からこの家のお世話をしていただいています。だから、私も頭が上がらない」
 困ったように笑い、立香の向かいに腰を下ろす。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」
「あ、はい。頂きます」
 これまたアンティーク調のカップとソーサーで出された紅茶におっかなびっくりしながら立香は手を伸ばす。
「あ、美味しい」
 思わず零れた感動に目の前の彼はクスリと笑い、「お口に合ったようで良かったです」と返しながら自身も一口紅茶を口にした。
「さて、先ほどから怖い思いをされていますね。ご説明が遅くなり、申し訳ありません」
 軽く頭を下げ、彼は封筒をひとつテーブルの上に置く。
「先生の生前、ひょんなことから先生が負債を抱えておられると耳にしたので、私が代わりに返済をしましょうかと不躾に申し出たところ、酷く叱られてしまいました。ただ、「おそらく負債は家屋も含め、家財道具全てで返済できるだろがその場合娘が路頭に迷うから面倒を見てほしい」と仰られたのです。こちらがその時の念書です。先ほどの弁護士も同席していたので証書としてしっかりしたものです」
 自分の知らないところでそんな話になっていたらしい。
 渡された念書に目を通すと彼が言ったとおりの内容が書いてある。
「あー、確かに父の字ですね」
「はい」
 立香から返された念書を受取ながら彼が頷く。
「え、と。それで……」
 事情を説明できて安心したのか、彼がカップに手を伸ばすのを見た立香は話を進めることにした。
「わたし、質問できますか?」
「もちろんです。どうぞ」
「わたしは何をすればいいんですか?」
「何を? この家に住んでいただいて構いませんよ。部屋はまだ準備が整っていないと聞いていますので、少し不便かと思いますが」
「いえ、あの……お仕事」
「仕事?」
 心底不思議そうに返された。
「はい。だって、わたし買われたんですよね?」
「とんでもない!」
 立ち上がった彼は目を丸くしている。
「でも、『貰い受ける』と……」
 さっき言われた。
「ああ、なるほど。あなたがあの男に連れて行かれるのではないかと思い、咄嗟の事で大変失礼しました。あなたはここで自由に過ごしてください。あなたの好きなように、あなたの思うままに」
 ゆっくり着席しながら彼が言う。
「ですが……」
「ああ、それと。女学校に通われていると聞いています」
「あ、はい」
 おそらく、借金が嵩んだ原因のひとつだろう。何度か辞めると言ったが、父が是としなかった。これからは女性も学力が必要な社会になっていくからと言って通わせ続けてくれたのだ。奨励金をもらいながら何とか通っていたが、後見人が居ない中、さすがにやめざるを得ないだろう。
「私が後見人となりますので、通い続けてください。先生は、あなたが女学校で学ばれていることを誇らしげにお話になっていましたので、ぜひ卒業してください」
「え、でも……」
「奨励金を頂いていると伺っています。もし、私が後見人となったためにそれを受けられなくなった場合、学費は私が払いますのでご安心ください」
「できません」
 突然立香がきっぱりと返した。彼は目を丸くしてまじまじと彼女を見る。
 先ほどまで戸惑いと不安で言葉を選びながら話をしていた少女がはっきりと否定を口にしたのだ。興味がわく。
「なぜ?」
「わたしは城ケ崎様の事をよく知りません。お話を伺う限り、そして先ほどの念書を拝見した限りでは父の知り合いということはわかりました。ですが、ただの知り合いでこんなによくして頂く理由がありません。確かに今は住むところがないのでお部屋を貸していただくことはありがたいと思っています。近々住み込みの働き先を探しますのでそれまで置いていただけると助かります。言ってることがちぐはぐで申し訳ありません」
 彼女の言葉ににこりと微笑んだ。
「本当に先生にそっくりですね。色々と端折ってお話しているので不安になられることは理解できます。少し長くなりますが、宜しいですか?」
 前置きをした彼に立香は頷いた。
「ご存知のとおり、私は軍人です。戦地に赴くこともありました。そこで大きなけがをしたのです。それこそ、死を覚悟しなくてはならない負傷でした。先生が軍医であられたのはご存知ですか?」
「はい。怪我をしてしまったので辞めて町医者になりました」
「私は先生に救われたのです。あの方はいつもは後方の本部に詰められていました。まあ、お医者様なので最前線にいらっしゃっても困りますからね。ですが、その時はどうしてか最前線においででした。先生の迅速な措置のおかげで私はこうして普通の生活を送ることができています。軍人を続けて佐官となっています。あの時、私が負傷して軍を辞めていればこの家を継ぐことができなかったでしょう。私は城ケ崎の血を引いていません。異国の地で親に捨てられたただの子供です。父、城ケ崎の先代当主の目に留まってたまたま拾われた子供でした。どうにかして報いたいと思っていたのでこの家をどうしても継ぎたいと思っていたのです。爵位があると色々と面倒事も多いんですけどね。父の願いでしたので、叶えたかった。私が持っている武器と言えば、軍で出世頭という事しかなかったのです。ですから、あそこで退役をしていれば父の願いを叶えることができなかった。私の唯一無二の願いを先生が繋ぎ止めてくれたのです。それは、この先の私の人生すべてを捧げてもよいと思うほどの事なのです」
「城ケ崎様と父の関係は、何となくわかりました。ですが、父はもう亡くなりました。もう、よろしいのではありませんか?」
 立香の問いに彼は首を横に振る。
「いいえ。まだです。あなたは先生の宝です。それを守らずしてお亡くなりになったからもう良しなど、私にはできません。ですが、そうですね。あなたにとって、この私のわがままは少し重いかもしれませんね」
 そう言って俯き加減に思案する彼の様子を窺う。
 まつ毛が長い。美人だ。
「こうしてはどうでしょうか」と顔を上げた彼に距離があるにもかかわらず立香は仰け反ってしまった。
「出世払い」
「出世払い、ですか?」
「ええ。女学校に通われているということは、将来は何かお仕事をされるおつもりなのでしょう?」
 一応そのつもりだ。
「では、その際に今回の学費についてはお返しください。もちろん、私のわがままということもありますので、割引しちゃいます」
 立香は目を丸くしてぷっと噴出した。
「割引ですか」
「ええ、割引です」と頷いた彼は「やはりいいですね」と呟く。
「何がでしょうか」
「以前一度あなたをお見かけしたことがあるんです。先生と歩いておいででした。とても楽しげに笑うあなたを目にしていたので、ここまでひとつも笑顔を拝見することができず、少し残念に思っていたのです。やはり、お可愛らしい」
「城ケ崎様?!」
 顔を赤くして声を上げる立香に「はい?」と彼は首を傾げて微笑む。わざとなのかそうではないのかわからない。
「えっと……」
 どう言ったものかと思案しながら言葉を探していると「そうだ」と彼が言う。
「先ほどから私の事を『城ケ崎様』と呼んでいただいていますが、家の中ではどうかベディとお呼びください。外でこの名を呼ばれると少し具合は悪いのですが」
「ベディですか? 城ケ崎様のお名前だと伺いましたが……」
「父に拾われる前の名です。父から名を頂きましたが、そもそも名前というのは親が初めて子に贈るものであり、私の実の親が私を探しているかもしれないから名を捨てることはないと言われて。それで、家の中ではベディと愛称ですが呼ばれています」
「お父様が付けられたお名前は?」
「……それは、今はいいではありませんか。私もあなたの事を立香さんとお呼びしても?」
「あ、はい。それは構いません。では、ベディ様。しばらくの間お世話になります」
「『様』はおやめください」
「では……ベディさん?」
「ええ、それで。ああ、紅茶がすっかり冷めてしまいましたね、千恵さんにお願いしておかわりを頂きましょう」
 そそくさと部屋を出て行った彼の背を見送りながら立香は首を傾げる。
 取り敢えず、彼の名は訊いてはならないらしい。
 いつか分かることだろうと思いながらその時を待つことにした。



 案内された部屋は広かった。自分がこれまで住んでいた部屋と比べてはならないことはわかっているが、広い。
「まだ必要なものは揃っていないので、あとで買い出ししておきますね。坊ちゃんもせめてお着替えとかも取り返してきてくださればよかったのに」
 ぼやく千恵に「あ、いえ。着替えといってもそんなにありませんでしたし」と立香が告げる。
「寝間着は奥様が用意されていた浴衣を使ってください」
「え、いえ。それは……」
「一度も袖をお通しになられなかったので捨てるに捨てられず、使っていただける方がいるならそれが良いと坊ちゃんが仰ってましたので。下着は、先ほど坊ちゃんが立香さんをお迎えに行かれる際に命じられたので慌てて買ってきましたけど、合うかどうか……若い娘さんの下着なんて買ったことがないからちょっと心配ですよ」
「ありがとうございます」
 ひとまず、この家で生活をしていくことが決まったため、この家の決まりごとのようなことがないか聞いてみるとどうしてか千恵は遠い目をして「坊ちゃんは朝が弱いので、気を付けてください」と決まり事というよりも忠告をもらった。



◇◆



 目をあけると知らない天井だった。
「ああ、そうか……」
 昨日の事を思い出す。
 部屋に案内されて夕飯を取って風呂に入り、ふかふかの布団におっかなびっくりで寝ころび、そのままぐっすり眠ってしまったようだ。
 自分で言うのも何だが、肝が太い。
 身体を起こして身支度を整える。
 部屋の準備が整っていないと言われていたが、最低限必要なものは揃っている。何が整っていないのかよくわからないが、この家の仕来りがあるのかもしれない。
 足音を忍ばせて台所に向かうと千恵が朝食を作っているところだった。
 彼女は住み込みではなく通いだ。昨晩帰っていく千恵を見たときには蒼くなった。夜には城ケ崎と二人きりということになるのだ。知らない家で男と二人きりだという。
 ちなみに、車の運転をしていた老年の男性は『徳三さん』と言い、本来住み込みだがここ最近ひ孫が生まれたらしく可愛くて仕方ないので孫夫婦のところに転がり込んでいると聞いた。
 蒼くなっている立香を見て「大丈夫ですよ、ちゃんと明日の朝ごはんは作ってもらえます」と声を掛けたのは城ケ崎であり、どうして立香が蒼くなっているのか思いもよらないといった様子だった。
(あ、大丈夫かも……)
 彼の様子で立香も落ち着いた。
「おはようございます」
 背後から声を掛けると、千恵は少し驚いたように振り返る。
「ああ、おはようございます。早いですね」
「いつもわたしが朝食を作っていたので」
「なるほど」と頷き、千恵は作業を再開した。
「何かお手伝いできることがありますか?」
「いいですよ、座ってお待ちください。立香さんにお手伝いいただいたと坊ちゃんの耳に入ると叱られてしまいます」
 そういうものなのだろうか、と考えていると「おはようございます」と声がして立香と千恵がそれぞれ挨拶を返す。
「おや、坊ちゃん。お早い。槍でも降るんじゃないですか」
 笑いながら千恵が言い、「失礼ですね」と城ケ崎は少しむくれて見せた。
「私だって大切な用事がある日くらいは早起きしますよ」
「大切な用事ですか?」
 立香が首を傾げ、千恵が蒼くなる。
「今日は何か行事がありましたか? ああ、いけない。何の準備もしていません。立香さん、後は味噌を溶くだけなのでお願いしてもいいですか」
 パタパタと慌てる千恵に「はい」と頷いて立香は火の前に立つ。
「ああ、いえ。仕事の話ではありません。今日は、立香さんの学校に赴くので早起きをしただけです」
「ウチの学校ですか?」
 立香は驚いて振り返る。
 城ケ崎の言葉を聞いて千恵はほっと息を吐き、火の前に戻ってきた。
「どうしてですか?」
 おたまを千恵に返しながら立香が問うと「後見人の話をしに行く必要があるでしょう?」と指摘されて昨日の話を思い出す。
 確かに、学校側には早急に説明をしておかなければならない問題だ。
 入学の際に後見人の申告を要していたので、後見人、つまり保護者が亡くなれば何らかの手続きが必要となるはずで、葬儀の関係で数日休んでいたため失念していた。
 朝食を済ませて通学の準備を整えて玄関で待っていると軍服に着替えた城ケ崎がやってきた。
「お待たせしました」
 この服を着ると彼の柔和さが少し隠れてしまい、近寄りがたい雰囲気となる。
「さあ、参りましょう」
「いってきます」
 見送りに出てきた千恵に声を掛けて車が停めてある場所まで行くと徳三の姿があった。
「おはようございます、坊ちゃま」
「おはようございます」
 挨拶を交わしながら車の鍵を受け取る城ケ崎に視線を向けると「私が運転するんですよ」と返された。
「え?!」
「徳三さんの方が上手いのですが、大丈夫。事故を起こしたことはありません」
 途端に何だか怖くなる。
「いってらっしゃいませ」
 恭しく頭を下げられて運転席に城ケ崎が乗り込み、恐々と立香は後部座席に乗り込んだ。
 彼の言葉のとおり事故の心配なく車は順調に走っている。
「城ケ崎様」
「……はい」
 どうして返事をするまで間があるのだろうか。運転中に声を掛けてはいけないのだろうか。
「どうかされましたか?」
 続きを促され、取り敢えず話を続けることにした。
「私の学校に行ってから出勤となると遅刻となるのではありませんか? もっと早く家を出ればよかったと少し思って」
「ああ、それでしたら昨晩同僚に連絡を入れてますので大丈夫ですよ。それに、これ以上は早起きできません、私が」
 茶目っ気を乗せた言葉に立香はクスリと笑う。
「さあ、着きましたよ」
 車のまま正門をくぐり、駐車場に車を停める。
「職員室までご案内します」
「お願いします」
 立香が職員室を尋ねると担任が心配そうに声を掛けてきた。真面目に学業に取り組んでいた立香だからこそ残念だと言われた。
「失礼。藤丸立香さんの担任の先生ですか?」
 横から声を掛けてきた男、城ケ崎を見て担任は固まる。
 確かに、軍服を着た異国の王子様風な男が声を掛けてきたら思考は停止するだろう。
 うんうん、と納得していると「城ケ崎伯爵?!」と職員の一人が声を上げて「え?!」と立香も声を上げた。
「爵位って伯爵だったんですか?」
「ええ」と苦笑しながら彼は頷いた。
「こちらの藤丸立香さんの今後の後見人についてのお話がしたいのですが、どなたにお話すればよろしいでしょうか」
 職員室の中の誰に問うでもなく問う。
「私がお話を伺います」と声を掛けてきたのは教頭だった。
「あなたはもう教室に戻りなさい」と言われた立香は「では、失礼します」と頭を下げて職員室を後にした。
 父と縁のある親切な人、という情報以外に深く詮索するべきではないと思ってきかなかったが……しかも有名人っぽい。

 教室に顔を出すとクラスメイトが次々に心配する声を掛けてきた。
 学校は続けられるのかと問われて「父と縁のある方が後見人になってくださるって言われたから」というと安堵の声が漏れた。
ふと、窓の外から車のエンジンの音が聞こえた。
 職員室の話は終わったのだろう。
 チャイムが鳴って教室に入ってきた担任に好奇の目を向けられたが、気づかないふりをしておいた。
 その日は、教師からの視線に何だか落ち着かなかった。


 授業をすべて終え、立香は帰宅しようとして気づいた。
帰り道がわからない。
 自宅から城ケ崎家へは車で移動。今朝も車で通学したため、どういう道を通ったのか頭に入っていないのだ。
「どうしよう……」
 城ケ崎家と言えば有名らしいから道を尋ねながら帰ろうかと考えているとクラクションが聞こえて振り返る。
「ああ、良かった」
 立香のすぐそばに車が停まり、中から顔を覗かせたのは城ケ崎だった。
「城ケ崎様」
「よくよく考えたら立香さんは帰り道がわからないのではないかと思って急いで来てみたのですが、間に合いましたね。どうぞ、乗ってください」
 促されて立香は車に乗り込んだ。
「委員会などはされていないのですか?」
「夕飯の支度とかありましたから」
「そうでしたか」
 相槌を打った城ケ崎が「そうだ」と漏らす。
「どうかされましたか?」
 立香が問うと「いえ、思い出したんです」と彼が少し機嫌よく言う。
「千恵さんに、立香さんが生活するのに必要そうなものを揃えるようお願いしていたのですが、服をどうしていいかわからないと言われていたんです。私が勝手に見繕ってもいいのですが、せっかくなので選んでいただけませんか?」
「え?!」
 自分に服を、という彼の言葉に立香は声を上げた。
「いえ、そんな……」
「生活をするのに不便でですよ? 各季節に数着はあった方が良いでしょう」
 立香の遠慮をきくつもりがないらしい城ケ崎にため息をつき、この分もいつか返そうと自分の中に折り合いをつけて厚意を受けることにした。

 帰宅したのは日が沈んだ後となった。
「心配しましたよ」と千恵に恨み節を言われて城ケ崎が小さくなる。
「千恵さん、お帰りになるのでしたら食事の用意はわたしがしますよ」と立香が言う。
「それは……」
 躊躇うように千恵が城ケ崎を見た。
「立香さん、よろしいのですか?」
「慣れてます。それに、千恵さんが帰るのが遅くなるのはよくないと思います」
 立香の言葉に城ケ崎は頷き、「では、今日はそうさせていただきましょう」と千恵に向かって頷いた。
「では、ベディ坊ちゃん。また明日参ります。立香さん、ありがとうございます」
 帰り支度を済ませた千恵を見送り、二人は台所に向かった。
「私も何か手伝いましょうか?」
 部屋着に着替えた城ケ崎が立香の隣に立ち声を掛ける。
「いいえ、城ケ崎様は、」
「ベディ、と」
 立香の唇に手を当てて彼が訂正すると真っ赤になった彼女が「ベディさんは、座っててください」と言い直した。
「はい」と上機嫌に返事をして城ケ崎は椅子に腰を下ろす。
 味噌汁を温め直して、庭の七輪で魚を焼き、茶碗にごはんを盛る。
 手際の良さに感心しながら城ケ崎はちょこまかと動いている立香を眺めていた。
 ほどなく準備が終わり、立香も食卓に着く。
「では、いただきます」と城ケ崎が言い、立香もそれに続いた。
「そうだ、立香さん。さっき買った服、もう一度着て見せてくださいね」
 先ほど店で散々着せ替え人形のごとく試着をさせられたというのに、まだ着せ替え人形しなくてはならないのかと立香は内心溜息を吐く。
 最低限の数の服と思ったのに、城ケ崎があれもこれもと言って随分とたくさん購入という形になった。
 そもそも、本来男女が共に歩くなどあってはならないのに、この城ケ崎は気にしないというのだ。
「うちは、父がそういうのが好きではなかったようで」と苦笑する。
 よって、店内では好奇の目にさらされた。
「立香さんは気になりますか?」
「それは……まあ。ダメだって言われて育ってましたから」
「先生も?」
「父は……というか、そもそもわたしが男性とおしゃべりする機会が少なかったから気にならなかったのかもしれません」
「なるほど。道理で私と話をすると顔を赤くされるわけだ」
(それはあなたの行動が……)
 反論したい言葉は飲んだ。
「ベディさんは、どうしてわたしに対してもそんなに丁寧な言葉を掛けてくださるんですか? 千恵さんや徳三さんには頭が上がらないのはわかりましたけど」
 立香の言葉に城ケ崎はきょとんとしてそして苦笑する。
「私がこの国の言葉を覚えるとき、両親から教わったのが丁寧な言葉遣いだったからですかね。父も母もお互いに丁寧な言葉を使ってました。どんな方とお話するにしても丁寧な言葉を遣って不興を買うことはありませんから、覚えるのは一度で済んだ方がいいと思ったのかもしれませんね。乱暴な言葉は、放っておいても耳にしますし。そんなに変ですか?」
「いいえ。時折街で見かける軍人さんたちと印象が違うので、不思議に思っていたんです。威圧感がないというか……悪い意味じゃないですよ。だからなのかわからないのですが、ベディさんは男性ですが言葉を交わしやすいというか……」
「それはよかった。あなたのようなかわいらしいお嬢さんと言葉を交わすことができるなんて、両親に感謝ですね」
(言葉は交わしやすいけど、これは何とかならないだろうか……)
「ぐぅ」と撃沈している立香を城ケ崎は不思議そうに眺めていた。