あまくてにがい 2








 千恵の手伝いをさせてもらいたいと立香が申し出て城ケ崎が許可して以来、時間が出来たからと千恵が菓子の作り方を教えてくれるようになった。
 元々城ケ崎の養母が洋菓子を作るのが好きで千恵は手伝いをしていたという。
 千恵の指導の下、立香が初めて作ったクッキーは少し焦げてしまったが城ケ崎が目を細めて「懐かしいですね」と零した。
それ以来、立香の趣味は菓子作りとなった。
 とはいえ、材料の多くが舶来物で、居候の身でありながら頻繁に使うわけにはいかない。
 何よりも、居候させてもらっている身だ。しかし、菓子作りは楽しい。城ケ崎も喜んでくれる。

 どうしたものかと思案していた学校帰り、途中の蕎麦屋の前で足を止めた。
「あ……」
 これだと思った。
 帰宅して城ケ崎の帰りを待った。
 千恵の手伝いをしている間も玄関が気になって仕方がない。
「どうしたんですか」と問われて、先ほど思いついたことを彼女に言うと苦笑された。
「坊ちゃんが許してくださるといいですね」
「はい」
 きっと大丈夫。
 そう思っていた。

「城ケ崎様、お願いがあります」
 夕飯を終えて自室に戻った城ケ崎にお茶を持って行った立香はそう切り出した。
「改まって何でしょう」
 お茶を受取ながら彼は微笑む。
「お蕎麦屋さんで働きたいんです」
「どうしてですか」
 問い返した城ケ崎の声が固い。すでに否と答えを決めている声音であり、立香はこの声を向けられたことがない。
 理由を聞かれるだろうと思っていた。だから、問い返されることについて心の準備はできていたし、答えもある。
 だが、立香は声が出なかった。
「立香さん」
 未だ固い声音で促されて立香はしどろもどろに理由を口にした。
 最近菓子作りが楽しい。だが、材料は舶来品が多く、お金がかかる。そのため、学校のない日に少しの時間だけでも働いて材料費を補てんしたい。学校帰りに蕎麦屋が働き手を探しているという張り紙を見た。だから、それに応募してみようかと思った。
 立香が理由を言い終わると城ケ崎は瞑目してゆっくりと息を吐く。
「いいえ、立香さん。それは許可できません」
 いつもの柔和な笑みだ。声も優しい。
「生前母が作ってくれていたので、懐かしさもあり、私は立香さんが作ってくださる洋菓子を楽しみにしています。材料にお金がかかることを気にされているのでしたら、ご遠慮なさらないでください。あなたが楽しんでいるお菓子作りは私の楽しみでもあるのですよ」
「でも……」
 反論しようとしたが「ね?」と念を押されて「はい」と立香は頷き、部屋を後にした。

 ドアが閉まるのを確認して城ケ崎は深く息を吐いた。
 怯えさせてしまった。
 立香が仕事をしたいと言い出した時には、胸がつぶれるかと思った。この家を出ていきたいという意味なのかと早とちりしてしまったのだ。
 最初の自分の問いかけで彼女が蒼くなったのは気づいたが、それを気遣う余裕がなかった。
「だめだな……」
 呟きを落とす。
 彼女が持ってきてくれた茶を飲んで部屋を出た。もう少しフォローしておいた方が良いかもしれない。

「坊ちゃん、寂しいと思ったんですよ」
 台所に戻ってきた立香の表情を見て状況を聞きだした千恵はそう言って笑った。
「ベディさんを怖いって思ったの、初めてです」
「まあ、坊ちゃんも軍人さんですからね。寧ろ、家での坊ちゃんを見た同僚さんたちはびっくりするかもしれませんよ」
 確かに、柔和すぎる軍人さんかもしれない。
「では、私はこれで。坊ちゃんに挨拶をして帰ります。立香さん、また明日」
「あ、はい。おやすみなさい」
 自分もお茶を飲もうとしていたので、まだ台所で過ごすつもりだった立香はそこで千恵を見送った。
「坊ちゃん、気を付けないと逃げられますよ」
 台所の壁にひっそり隠れて二人の会話に聞き耳を立てていたベディに声を掛けて千恵は玄関に向かう。
 からかいが含まれた声音で言われたベディはがくりと肩を落とした。本当に敵わない。
「立香さん」
「ベディさん」
 ひょいとドアから顔を覗かせると立香は驚いたように名を呼んだ。
「お茶のおかわりが欲しくて」
「あ、じゃあ。今から淹れますね」
「それでいいですよ」
 立香が今まさに湯を入れようとしていた急須を指差す。
「二番煎じになっちゃいます」
「構いませんよ。立香さんはそれを飲もうとされていたのでしょう?」
「きっと薄いですよ。あ、でも。元々の茶葉が良いからそこまで味は落ちないのかな?」
「では、それで」
 そう言いながら湯呑をテーブルに置き、椅子を引いて座る。
「じゃあ……美味しくなかったら言ってくださいね。淹れ直しますから」
「はい」と頷いた城ケ崎は「ところで」と話題を継ぐ。
「なんですか?」
「次のお菓子は何を作られる予定なんですか?」
「その時に揃った材料で決まるみたいです。まだまだ千恵さんに教えていただいているところなので」
「では、千恵さんに伝えておきましょう。先日作っていただいたサブレが良いです」
「中々難しいものを言いますね」と立香は笑い、城ケ崎の前に湯呑を置いた。
「そうなんですか?」
「素人としては。ベディさんのお母さんは、色々と挑戦されていたと聞きました」
「そうですね、新しいものが好きでしたからね。父も同じで、だから父が私を連れて帰っても母は最初は驚きましたが、すぐに受け入れてくれましたよ。両親は揃って新しもの好きでしたから。異国で捨てられた子供を大歓迎する家なんて中々ありません。継がなくてはならないものが多いのに」
 目を細めて懐かしむ城ケ崎に「それを言うならベディさんもじゃないんですか?」と彼の向かいに座った立香が問う。
「え?」
「ウチの学校、所謂良家のお嬢様も通ってるんですけど、城ケ崎伯爵のお名前は何度も耳にしていますよ」
「……どのような噂をされているのでしょうね」
 そういえば立香の通っている学校にはそういう娘たちも通っていると聞いた。余計なことを彼女の耳に入れていないだろうかと思ったが、どうも雲行きが怪しい。
「そろそろご結婚ではないか、と」
 余計なことを彼女の耳に入れている輩がいるらしい。
「そんな話が?」
「爵位を継ぐ子供が必要だろうし、と」
「そんな話が?」
 二回目の言葉は少し不機嫌だ。
「まあ、女の子は余計に噂話が好きですからね。城ケ崎さん、とても有名人ですね」
「意図したつもりはありませんけど」
 辟易とした表情を浮かべて茶を飲む城ケ崎に立香は苦笑する。
 そういえば、城ケ崎が結婚したら就職前でもこの家を出なくてはならないだろう。
(それはちょっと困るな……)



◇◆



 立香の父親の四十九日の法要も終わり、納骨を済ませることができた。
 立香の父が亡くなったと知ったのは葬儀の後だった。だから、見送ることが出来なくて残念にも思ったが、こうして最期に見送ることができたのは幸運だったかもしれない。
 誰かに声を掛けなくてもいいのかと城ケ崎が問うたが、患者や近所の人たち以外に父と縁のある人を知らないからと返されて少し寂しくも思った。
 何はともあれ、気にかかっていることがなくなった。


◇◆



 日が短くなり、朝晩が少し冷える季節となった。
 千恵と朝食の支度をしていると「おはようございます」と地獄の底からはい出してきた何かが呻いたのかという声が耳に届く。
「どうしたんですか?」
 朝が弱いと言っても台所に姿を現す頃にはそんな様子を微塵も見せない城ケ崎だが、今日は表情に覇気がない。寧ろ死相が出ているようにも見える。
「風邪ですか? お仕事休めないんですか?」
「……ご心配いただきありがとうございます。仕事に行きたくないだけなんです」
「へ?」
「ほら、昨日坊ちゃん帰ってから明日、もう今日ですね。夕飯がいらないって仰ったでしょう? 今日、職場で宴会があるとか」
「そういうのって、楽しいんじゃないんですか?」
「気の置けない人たちとなら楽しいとは思いますが……」
 深いため息をひとつ。
「坊ちゃん、朝からそんな辛気臭い表情をしないでください。ほら、朝ごはんですよ。早く食べないと立香さんも遅刻してしまいます」
 千恵に言われて城ケ崎は肩を落とし、「そうですね」と席に着いた。


 夜になって、千恵を見送った立香は早々に風呂に入り、就寝の支度をする。
 今朝の出掛けに城ケ崎に先に寝ていてもいいと言われていたのだ。
 いつもより少し遅くまで起きていたが、彼が帰ってくる様子はなく悪いとは思ったが先に寝ることとした。
 布団に入って目を瞑ると、玄関先で声がする。
 帰り際に「誰が来ても絶対にドアを開けてはいけませんよ」と『オオカミと七匹の子ヤギ』の母ヤギのように千恵が何度も念を押した。
 城ケ崎には鍵を持たせたから自力で帰れるというのだ。
寧ろ、日が落ちて訪う不審者を相手にして何かあっては事だからと何度も。
 しかし、この声は徳三の名を呼んでいるようだ。
 本来、彼は住み込みだが諸事情があって今はいない。
「徳三さん、いらっしゃいませんか」
 そっと窓から覗いてみると軍服を着た男が何かを担いでいるように見えた。
 目を凝らして見ると、彼が担いでいるように見えたそれは城ケ崎のようだ。
「どうしよう……」
 風呂に入った後であり、そんな状態で男の前に姿を出すのははしたない。
 だが、あの状態では家の鍵など取り出せないだろう。昼間はまだあたたかいが夜は冷える。
 あの男が最後まで面倒を見てくれればいいが、そのまま置いて帰られてはあの城ケ崎を運ぶことはできない。
 せめて寝間着は着替えようと慌てて着替えたのは女学校の制服だった。
 明日の朝着るために準備をしていたため、すぐに着られる場所にあったのだ。
「お待たせしました」
「おや?」
 男が愉快そうに声を漏らす。
「なるほど。あなたでしたか」
「はい?」
「いえ。こちらのご当主をお連れしましたよ。正しくは運んできました」
「えっと……」
 一応、城ケ崎であることを確認しようとした。
「ああ、顔が良く見えませんか。これです」
 男は俯いている城ケ崎の顎を掴んで持ち上げる。扱いが雑だ。
「申し訳ありません」
「いいえ、正しい判断です。では、城ケ崎少将を家の中までお連れしてもよろしいですか?」
「お願いします」
 城ケ崎の部屋に案内し、彼をベッドに寝かせてもらった。
「あ、制服……」
 軍服のまま寝ていると皺になるだろうと思ったが「予備ぐらいお持ちでしょう」と言われて諦めた。
 着替えさせるにしても彼の協力が不可欠だし、その協力を頼めそうにない。
「あの、城ケ崎様を連れて帰ってくださり、ありがとうございました」
「どういたしまして。浅からぬ縁ですからね」
 にこりと微笑まれてしまい、頭に浮かんだのは『類は友を呼ぶ』という言葉だった。
「えっと、お茶でも飲んでいかれますか?」
 寒い中、城ケ崎を背負ってここまで来てくれたのだ。何か礼をしなくてはならないだろうと思った。
 しかし、「魅力的なお誘いですが、夜中に男を誘う意味もおわかりでないようなので、今回は遠慮させていただきますよ」と言った男は背を向けて「では、おやすみなさい。戸締りをしっかりなさってくださいね」と言って玄関のドアを開けて出て行った。
 本当にお礼のためだけに声を掛けたのに、返された言葉に驚いた。そして、気を付けようと思った。


 翌朝起きると朝食の支度が殆ど終わっていた。
「おはようございます」
「おはようございます、立香さん。今日は少し遅いですね」
「昨日、ちょっと夜更かししてしまいましたから」
 そこまで話をしてふと思い出す。昨晩城ケ崎を送り届けてくれた軍人の名を聞き忘れたのだ。
 千恵にその話をすると「ああ、おそらく鳥居中佐さんですね」と頷き、何か飲み物を作り始める。
「なんですか、それ」
「気付け薬のようなものですね」
 笑顔の千恵はそのまま何やら怪しげな飲み物を持って台所を後にした。
 その後まもなく踏まれた猫が叫んだのかと思うような声が聞こえた。
 にこにこと笑顔で戻ってきた千恵が「坊ちゃん、すぐにいらっしゃいますよ」と言う。
「おはようございます」
 昨日とは別の、生気が一切感じられない声音でのあいさつがあり、視線を向けるとやはり生気のない顔の城ケ崎が居た。
「おはようございます」
 着ている服は部屋着だった。あの中佐の言うとおり予備はないのだろうか。
「立香さん、おはようございます。昨晩、私はどうやって帰ってきたかご存知ですか?」
 城ケ崎の言葉に驚き、立香は昨晩の事を話した。
 苦虫をかみつぶした表情とはこのことか、と思いながら眺めていると「ちゃんとお礼を言うんですよ」と子供に言い聞かせるように千恵が言う。
「わかってます」と返した城ケ崎は食事を始め、千恵が席を外す。
 彼の食事が終わったころに「坊ちゃん、お風呂沸かしましたからね」と声を掛けてきた。
「助かります」
「身だしなみは大切ですからね。立香さん、今日は坊ちゃんを待たずにお屋敷を出られた方が良いですよ」
「お待ちいただけるなら、車でお送りしますよ」
 城ケ崎の言葉に立香は首を振り「歩いて行きますので」と返した。
 一瞬、詰まらなさそうな表情を浮かべた城ケ崎だったが「では、いってらっしゃい」と声を掛けて風呂場に向かった。


「おはようございます」と声を掛けられて振り返ると城ケ崎が居た。
「おや、今日はお休みになるものだと」
「千恵さんに叩き起こされました」
 苦笑して返す城ケ崎に彼は笑った。
「あれは効きますからね」
「ええ。昨晩はお世話になりました」
「どういたしまして。まさか、簡単に落ちるとは思いませんでしたよ」
「早々に切り上げて帰りたかったもので。確かに、警戒を怠りましたね。助かりました」
「いいえ。それはそうと。最近付き合いが悪いのはあのメイドに御執心ということですか?」
「メイド? 千恵さんですか?」
「いえ。お若いメイドを置いておいででしたでしょう。女学校まで通わせて。随分とお気に入りのようですね」
「……あなたの仰っているその方は、おそらく藤丸先生のご息女ですよ」
「は?」
「これは、城ケ崎少将。鳥居中佐も」
 声を掛けてきたのは昨日宴会に出席した少佐だった。方々にいい顔をしているため、あまりいい噂はない。城ケ崎が士官学校に入ったときも異国の者だと言って蔑んでいたが、爵位を継ぎ、少将という立場になった今となっては揉み手をしながら近づいてくるようになった。
 わかりやすいが、好ましいとは思えない。
「あの男ですよ、あなたの酒に薬を混ぜたのは」
 鳥居に耳打ちされて「なるほど」と呟き、城ケ崎は柔和な笑みを向けた。
「昨晩は良い宴でしたね」
「ええ。そういえば、あの後どちらに? 私が少将をご自宅までお送りすると申し出たのですが、中佐がこの後も予定を入れておられると言っておられたのでお譲り致しましたが……」
 つまり、彼自身の自宅に連れて帰り、娘との既成事実を作らせてしまおうと思ったようだ。
「感謝します」
「ひとつ貸しです」
 小声で会話をし、城ケ崎は少佐に向かってにこりと微笑んだ。
「帰宅して中佐と盃を傾けていました。士官学校時代の思い出など語りながら。そういえば、少佐。私たちが士官学校に通っているときに何度かお話をしたことがありますよね」
 笑顔を張り付けてはいるが、その身に纏う空気が刃となっている。
 鳥居も思わず半歩だけ距離を置いた。
「あ、ああ。そうでしたかな。少将のように優秀な方と言葉を交わしていたなど……はは……」
 渇いた笑いを口にしながら逃げるようにその場を去っていった。
「……鳥肌が立ったじゃありませんか」
「これは失礼」
 自分が異国の捨て子なのは事実だが、あの男は父の事も悪く言った。それは許すつもりはない。
「そういえば。話を戻しますが、どうして藤丸先生のご息女があなたの家に? お許しいただけたのですか?」
 からかうように言われて城ケ崎は困ったように眉を下げた。
「藤丸先生はお亡くなりになったのです」
「は? いつですか。もしかして、あなたはご存じで? どうして声を掛けてくださらなかったのですか」
 信じられないといった表情を向けられた城ケ崎は首を横に振る。
「病を患われていたのは知っていましたが、お亡くなりになったのは後になって知ったことです。先生には負債があり、葬儀が済んだ後、取り立て屋が精算を行っている場に何とか間に合い、ご息女を我が家にお連れしたというわけです。生前、先生から許可を頂いておりましたので……」
「それなら、どうして言わないのですか。「私には婚約者がいますので」と斬っていけばあんな輩に付きまとわれることもないでしょうに。確かに、家柄はそう高くもありませんが、軍部内でしたらあなた同様、藤丸先生に恩義がある高官は少なくないでしょう。力になってくださる筈です」
 助言する鳥居に「いえ……」と珍しく歯切れの悪い言葉が返ってくる。
「女学校の卒業まで待たれるにしても、婚約前提で屋敷に招いているのでしたら、公言してもよろしいのでは?」
 城ケ崎の目が泳いだ。
「……まさか、覗き見をしていたあの時と何ひとつ変わらないということですか」
「人聞きの悪い。垣間見をしていたというのですよ、あれは」
「言い方を変えてもやってることは同じでしょう。付き合わされたこちらの身にもなってください。終いには先生に叱られたではありませんか」
「光源氏もそうやって紫の上と運命の出会いをしました」
 しれっと返す友人兼上官に盛大なため息をつく。
「たしか、光源氏は妻を友人に取られましたね。あなたの友人と言えば、私でよろしいですか?」
「それは紫の上ではなく女三宮ですね。どうぞ、私にとっての女三宮がどなたかも存じませんが」
 しれっと返すこの男に二度目の溜息を吐き、「もういいです」と諦めの言葉を放った。
「そうそう、中佐。あとで洋酒をお渡ししますので、退勤時に声を掛けてください。昨晩の、ひとまずのお礼です」
「ありがたく頂戴しましょう」







桜風
18.1.22初出
(19.9.15再掲)