あまくてにがい 6
地に足がついていないことは自覚している。
寝不足の筈なのに全く眠気に襲われない。寧ろ爽やかな目覚めの部類に入る。
廊下を歩いていると見知った背中を見つけた。
「おはようございます、鳥居中佐」
挨拶を掛けられて振り返った鳥居は見なかったことにしてスタスタと歩調を早めて歩き出す。
「お待ちください。お急ぎですか?」
小走りになって追いかけてきた上官兼友人にため息を吐き、観念して足を止めた。
「いいえ。おはようございます、城ケ崎少将」
「おはようございます。お急ぎでないならどうして私の顔を見た途端に早足になるんですか」
「あなたの顔を見たから早足になったんです。それで? 「何があったのですか」と問わなくてはならないのでしょうね」
「そこまで求めていませんでしたが、その問いにお答えしましょう」
満面の笑みでそう返した城ケ崎の目の前には半眼になっている友人の顔があった。
「昨晩ですね」
「とうとう押し倒しましたか」
「私の話を聞く気がありますか?」
「ありません、とお答えしても?」
「却下です」
「城ケ崎少将」
せっかくこれから話をしようと思ったのに、と振り返ると彼の上官である将軍が険しい表情を浮かべてやってくる。
「何かしたのか?」と声を落とした鳥居が問うが城ケ崎は小さく 首を振り「全く身に覚えはありません」と返した。
「おはようございます、将軍」
敬礼をして挨拶をする。鳥居も同じくだ。
「俺は一年待ったからな」
「一年?」
こてりと首を傾げた城ケ崎は助けを求めるようにちらと鳥居を見たが彼は視線で「知らん」と返していた。
「一年、とは?」
「貴様の結婚だ」
「は?」
「貴様は少将という立場の他に伯爵という身分もある。だから、家の伝統その他の事情があるのだろうと様子を見ていた。だが、我が家の娘も適齢期だ。貴様の事情を勘案してやる義理もない。今週末、形だけの見合いをした後に結婚だ。良いな」
「は? お待ちください。将軍の御令嬢でしたら私のような者でなくとももっと身分の高い方の縁談もあるのではないですか?」
「あるにはある。だが、娘は貴様に惚れているというのだ。仕方ないだろう」
「さすが軍部一の色男だな」
「ちょっと黙っててください」
隣に立つ友人が小声で茶々を入れるが、城ケ崎はそれどころではない。
軽口に若干の苛立たしさを覚えながら何とか穏便にこれを回避する方法を考える。だが、残念ながら思いつかない。相手は上官。しかも、確か奥方は華族出身だ。正直、家柄だけの話をしたら相手が上。こちらの後ろ盾は何もなく、この身ひとつの評価となる。大抵の家なら城ケ崎の持つ身分と立場で何とか躱せるがこれは相手が悪い。
「良いな。今週の日曜、正午に帝都ホテルのラウンジに来い」
一方的に告げられて城ケ崎は呆然と将軍の背を見送った。
「年貢の納め時ですね」
「他人事だと思って」
キッと睨んで言う城ケ崎に「他人事です」と鳥居が返す。
「あの将軍が、あの気の短い将軍が一年お待ちになったんですよ。簡単に蹴ることはできないでしょうね」
「では、失礼」と言って去っていく友人を冷たいと思いながらも城ケ崎は動けなかった。
先ほどまで羽が生えているのではないかと思うくらい軽かった足取りが重くて仕方ない。
足を引きするようにして動かし、執務室に向かった。
◇◆
良家の令嬢たちが教室の隅で噂をしていた。
大抵彼女たちが教室の隅で話をしているときにはどこかの誰かの縁談が決まったとか見合いがあるとかそういう色めいたものが多かった。
立香が世話になっている城ケ崎も時々噂に上る。彼は彼女たちにとって憧れの存在のようで彼の動向は注目の的のようだ。
「また噂してる」
どうしてかこの学校は、身分を気にせずに同じクラスに編成しているため、そういったことと縁のない者たちもいる。
立香はその縁のない者たちと共にいることが多い。実際、一年前は縁がなかった。
「うん、そうだね」
漏れ聞こえた単語に「城ケ崎」と「見合い」があった。
立香が城ケ崎家で世話になるようになってからも彼は見合いを何度か受けている。
しかし、それが成立したことはない。全て城ケ崎が断っているのだと彼女たちの噂話から知っていた。
城ケ崎は見合いをした帰りには大抵菓子を買って帰る。
砂糖をたっぷり使った菓子はどれも美味しく、相手には悪いが立香はそれを楽しみにしていた節もある。
それを知ってか知らずか城ケ崎は立香が食べている様子をじっと見つめる。
曰く「口直し」だそうで。
最初は戸惑いを覚えたというか恥かしい気持ちが強かったが、城ケ崎が買って帰る菓子はどれも美味で口の中に入れると頬が緩んでしまう。もう仕方ない。
(あとで訊いてみよう)
彼女たちの噂は時々空振りに終わることもある。だから本当かどうかはわからないが、本人が近くにいるのだ。彼は困ったように笑うだろうがきっと答えてくれる。
帰宅して千恵の手伝いをしていると車が停まる音がした。
「坊ちゃんのお帰りのようですよ」
帰宅してからそわそわしている様子に気づいていた千恵が促し、立香は台所を後にした。
「城ケ崎様」
「立香さん、ただ今戻りました」
暗い表情の城ケ崎に立香は思わず足を止める。こんな城ケ崎の表情は今まで見たことがない。
「おかえりなさい」
立香の言葉に軽く頭を下げただけの彼は屋敷に入ると「千恵さん、後で部屋に来てください」と台所に顔を出して自室に向かって行った。
彼の後ろをついて歩いていた立香に千恵が疑問の視線を向けるが、立香は首を横に振る。いつもと様子が違うということ以外何もわからないのだ。
「立香さん、少しお任せしてもいいですか? 坊ちゃんのお話を聞いて参ります」
「はい」
急いで千恵は城ケ崎の自室へと向かって行った。
コトコトと芋が煮えている。味付けは殆ど済んでおり、後は調整だけとなっている鍋を眺めながら立香は少し不安を覚えた。
学校での噂話。今までと様子の違う城ケ崎。
ズキンと胸の奥が痛むのはどうしてなのか。
夕食を摂っている間、やはり城ケ崎の様子がおかしかった。
「城ケ崎様」
声を掛けてみるとその都度ハッとしたようにこちらに視線を向ける。
「申し訳ありません、考え事を……」
「いえ。あの、何かおてつだ……」
手伝えることがあるかと問おうとしたが、あるはずがない。慌てて口をつぐむ。
「お気持ちだけ」
にこりと微笑んで食事を続ける城ケ崎に立香は俯いた。仕事の事なのかもしれない。だったら、この家にいる誰もが彼の助けになれないかもしれない。それでも、いつもよくしてもらっているから返せるものがあれば返したいのに。
自分は、いつも助けられてばかりで何も持っていない。
◇◆
将軍から声を掛けられてからずっと考えていることがあった。
以前鳥居に言われた自分の持っている札を把握するというやつだ。
考えれば考えるほど自分は何も持っていない。
何せ、父の跡を継ぐというのが至上の命題でそのためにがむしゃらに進んできたのだ。
その結果、自分の手にあるものと言えば父が残してものばかりで、唯一自分が手を伸ばし、欲したものはこのままだとこの手から零れ落ちてしまう。
軍の将官としての立場を捨てても、爵位を手放してもどちらかだけでは今回の話は御破算にはならない。
そして、その両方を捨ててしまえば立香がここにいる理由が無くなる。彼女の後ろ盾として認められないはずだ。
「どうすれば……」
悲痛な思いを滲ませた声音は誰の耳にも届くことなく、静かに溶けた。
◇◆
城ケ崎に詳細を聞けないまま立香は登校した。
教室の噂話、あくまでも噂話だがそれでも彼が沈んでいた理由がわかるかもしれないと期待した。
結論としては彼の置かれた状況はわかった。城ケ崎が見合いをするのは確定のようで、相手は上官の娘。
しかも、その母親の実家が華族で伯爵よりも位が上だという。無碍には断れないし、何より、これは城ケ崎にとって良い縁談だという話だ。憧れの城ケ崎様はみんなの城ケ崎様であってほしかったなどとも言っている。
華族社会の事がよくわからない立香でもこの見合いが良いものであるのはなんとなくわかる。
そして、爵位を継ぐために城ケ崎がこの上もなく努力をしたということも周囲から聞いて知っている。
城ケ崎は、平民である自分に対して丁寧に接してくれている。それは、彼の友人の鳥居も同じだ。
立香の父親に世話になったからというのが一番大きな理由だろうが、それでも丁寧すぎないかと思うことも少なくない。
だから身分を弁えなくてはならない立場を忘れてしまう。
どうして勘違いしたのだろう。何故、優しさを真に受けていたのだろう。
――何を期待していたのだろう。
ぎゅっと胸のあたりを握りしめた。昏く重い鉛のようなものがそこにあるような、違和感。初めて感じたそれは何なのか不安を覚える。
「藤丸さん?」
クラスメイトが顔を覗き込んできた。
「え、あ。何?」
「何かあった?」
「何も、ない、よ」
何か言いたげな表情を見せたクラスメイトは口をつぐんで「そっか」と返して笑った。
「お待ちなさい」
ぐいと肩を引かれて立香は驚き、振り返った。
見覚えのある顔。城ケ崎の友人の鳥居が立っていた。
いつの間にか日は暮れていて、あたりは暗かった。学校を出た記憶は曖昧ではあるものの、確かにある。
だが、その時はこんなに暗くなかったはずだ。
「その先は歓楽街です。あなたのような若い娘さんが足を運んでいい場所ではありませんよ」
自分が足を向けている先は、今まで行ったことのない場所だ。
そもそもここがどこなのかわからない。考え事をしていてここまで歩いて来てしまった。
立香の様子から迷子だと察した彼は「お送りしましょう」と言って踵を返して歩き出す。
「申し訳ありません」
「いいえ。しかし、どうしたのですか?」
「えっと、迷子です」
「そうですね。でも、それは歓楽街に向かって歩いていた状況のことですか? それとも、何か悩み事があっての迷子ですか?」
驚いて顔をあげると彼は静かに微笑んでいる。
「わかりません」
ゆるゆると首を横に振り、とぼとぼと歩く。
彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩みを進めながら、鳥居は今の城ケ崎家のことを思った。
取り敢えず、大騒ぎだろう。何せ、昨日の今日だ。軍部でも見合いを通り越して結婚との噂があるし、祝いの言葉もたくさん掛けられていた。そんなことがあって彼の精神が参っているところに立香の不在。大騒ぎの原因となるには十分だ。
「探してきます」
「お待ちください、坊ちゃん。探しに行くといっても、どちらに?」
「ですが、立香さんがお帰りになっていないのですよ? 学校はとっくに終わっている筈です。委員会などの活動もされていないと聞いています。それなのに、こんな時刻までお戻りになっていないなんて、何か、事件に巻き込まれたのではありませんか。それとも事故?」
ドアを開け放って千恵とそんなやり取りをしていると「ああ、やはり」と耳慣れた声が聞こえた。
反射で視線を向けると友人と立香がいる。
「あなた、どういうつもりで」
ツカツカと鳥居に近づいて何も言わずに頬を殴りつけた。
「鳥居様!」と立香が悲鳴を上げた。
大人しく殴られた鳥居は口の中が切れたのか、口の端に血がにじんでいる。
もう一発殴りつけようと拳を振り上げると「鳥居様は悪くありません」と立香が彼の前に立って両手を広げた。
城ケ崎は瞠目し、「どうしてあなたがその男を庇うのですか」と低く唸る。
「私がどれだけ心配したとお思いですか!」
立香の腕を掴んで厳しい表情を浮かべて声を荒げた。立香は竦んで動けなくなる。
「手をお離しなさい。立香さんの腕に痣が出来てしまいますよ」
「あなたに指図される言われはありません、中佐」
「……相当頭に血が上っていますね。少し冷静になりなさい」
今度は鳥居が城ケ崎を殴りつける。
はずみで立香の腕を掴んでいた手は離れたが、城ケ崎は再び中佐に向かって拳を振り上げた。
「いい加減になさい!」
ばしゃんと桶の水を掛けたのは千恵だった。
もちろん、立香もびしょ濡れだ。
「まったく。ひとまず皆さま、中にお入りください。立香さん、どうして遅くなったのかお話しいただけますね」
食事の支度が終わっていたが、まずは立香の話を聞かなくてはと皆に茶が配られた。
ずぶ濡れになった三人はそれぞれ着替えて台所に集まる。鳥居には城ケ崎が服を貸した。
「それで、立香さん。話してもらえますね」
千恵に促されて立香は頷く。
しかし、彼女の話はとても抽象的だった。相槌を打って聴いている千恵に対して城ケ崎の眉間には皺が寄っていく。
「待ってください、立香さん。それでは、全然わかりません」
話を遮った城ケ崎の厳しい口調に立香の肩が震えた。
「モヤモヤした? 原因は? もっと詳しく話していただかなければわかりません」
「いい加減になさい!」
立香を詰問し始めた城ケ崎を叱ったのは千恵だった。
「坊ちゃん、今のあなたは立香さんを一人の人間として見ておられません。立香さんは坊ちゃんの人形ではないのですよ」
「そんなことは……で、ですが。私は立香さんの後見人として理解する必要が」
「でしたら、立香さんの後見人には私がなればいいのでは? 学校に通うために必要なだけなのでしょう? あと一年と少しです。私は別に構いませんよ。私は、立香さんが悩んでいるならとことん悩めばいいと思うので、特に理由を詰問しようとは思いません」
「部外者は黙っていてください」
「ベディヴィエール、君は今立香さんのことが見えていない」
「そんなことは……!」
反論できなかった。
視線を向けた先では立香が俯いて唇を噛んでる。
「あ……」
どう言えば、何を言えばいいのかわからない。躊躇っていると「立香さん、お部屋に行きましょう」と千恵が彼女をその場から逃がしてくれた。
「あー……」
頭を抱えて俯く城ケ崎を鳥居がちらと見た。
「少しは頭が冷えたか」
「ええ、本当に……申し訳ありません」
「距離を取るというのは本当に悪い話ではないと思うが」
「私が耐えられません」
「君、その状態で立香さんに振られたらどうするつもりなんだ。どこかに閉じ込めてしまいそうだね」
「……あ、」
「「あ、」じゃない。なんだその表情は。「その手がありますね」という顔だ」
鳥居はひとつ溜息を吐く。
「あの子はまだ少女だ。藤丸先生が大切にお育てされたのだろう。だから我々のように世の中の汚い、醜いものをほとんど目にしていない。同じ価値観だと思ったら間違いだ。そもそも、同じ年の私たちでさえ価値観が合わないんだ、自分と同じ価値観を強要するのはよくないと思うが?」
「ええ、そうです。そろそろ赦してください」
「いやだ。私は君に言われなく殴られたのだからね」
「それに関しても重ねてお詫びします」
「これだから……真面目な男が一途な恋をしたら手が付けられなくなるんだ。子供でもあるまいに」
「ぐぅ」と唸ってテーブルに突っ伏した城ケ崎を彼はじっと見下ろした。
間もなく千恵が戻ってきた。
「立香さんは?」
「少しは落ち着かれたようです。……坊ちゃん」
「わかってます。先ほども鳥居から散々言われました」
「立香さんがこの家を出るとおっしゃられても、私は止めませんからね」
「止めてください」
情けない声を出して訴える城ケ崎にこれ見よがしの溜息を吐き、千恵が夕食の支度を始める。
「では、私はこれで」
椅子から立ち上がった鳥居に「お待ちください」と城ケ崎が声を掛ける。
「どちらに?」
「帰りますよ」
「泊まってください。明日あなたは休暇でしょう? 散々ご迷惑をおかけしたのです。どうか……」
「そうですよ。坊ちゃんがこれだけ大迷惑をお掛けしたのにすぐにお帰ししたとあっては、いつかお会いすることになる旦那様方に叱られます」
千恵に視線を向けてため息をつき、「千恵さんの顔をたてましょう」と彼は腰を下ろした。
夜が更けるのを待って立香は部屋を出た。
夕飯は気を遣ってくれた千恵が部屋まで持ってきてくれた。食べやすいようにとおにぎりも作ってくれたのだ。
流石に食器を洗いに行かなければならないし、風呂に入れないまでも身体は拭いたい。
そろりと台所に向かって行くとふと煙のにおいがした。
千恵に限って火の始末を忘れることなどないと思うが、と慌てて向かってみると、窓を開けて紫煙を燻らせている男の姿があった。
「鳥居様」
「……おや、立香さん。眠れませんか?」
「いえ。……あの」
「少しそこで待っていただけますか。火をつけたばかりで」
「……わたしは構いませんが」
「いいえ。この煙はあなたの肺を侵すものです。私は自分が好きで吸っているのですが、あなたの健康を損なわせるわけにはいきませんからね」
「大げさですね」
「それくらいがちょうど良いんですよ。ベディヴィエールも昔は吸っていたのですが、やめてしまいました。あれは本当、諸々付き合いが悪くなった」
「どうしてですか?」
「彼が大きなけがをしたことはご存知ですか?」
立香は頷く。
「治療をしてくださった医師、まあ、立香さんのお父上なのですがやめるように指導されたそうですよ。毒の煙を吸っていて傷など治るはずがないだろうと」
そんなことがあったのかと驚く。
彼の手にある煙草はやがて短くなり、火を消して窓を閉め、「お待たせしました」と立香の元にやってきた。
「いえ。今日は本当にごめんなさい。ご迷惑をおかけして」
食器を持ったまま深く頭を下げる彼女に「いいえ」と彼が言う。
「私が立香さんに掛けられた迷惑などありません。ですから気にしないでください」
「でも、巻き込んでしまったのはわたしです」
「巻き込まれたというなら、とうの昔に巻き込まれていますよ。お気になさらず。それを台所に持っていくのですね。お供しましょう」
促されて台所に向かう。
食器を洗い、湯を沸かす。
「お茶を飲まれますか?」
着席している鳥居に声を掛けた。
「ええ、いただきます」
「鳥居様は、今日はお泊りになられているんですよね?」
「ええ。ベディヴィエールに泊まってくれと言われたときには蹴ってやろうと思いましたが、千恵さんに旦那様方に叱られてしまうと言われてしまったので」
苦笑を零す。
「仲が良いですね」
「不本意な評価です」と彼が笑うと「それは失礼しました」と立香も笑って返した。
「お待たせしました」と湯呑を目の前に置かれて「ありがとうございます」と手を伸ばす。
「立香さん、少し不躾なことを聞いてみてもいいですか?」
「……はい」
警戒の色を見せた立香に鳥居は笑みを零し、座るように促した。
「立香さんは恋をしたことがありますか?」
「恋、ですか?」
「ええ、恋です」
彼女はしばらく考え、「ない、と思います」と答えた。思い当たる節がないのだ、きっと恋をしたことがないのだろう。
「では、恋とはどういうものだと思います?」
「どういう……きらきらと輝く、というか。明るい、楽しい印象があります」
鳥居はひとつ頷いた。
「それは半分ですね。それだけではただの『憧れ』です。相手を心の中で美しく飾り、自分の見たいものだけを見て満足する。絵画の鑑賞と同じです」
「では、残りの半分は?」
「暗く、重い感情があります」
立香は俄かに驚いたように瞠目した。
「暗いんですか?」
「影があから光は際立ち、苦いものがあるから一層甘やかなものがある。立香さんは物語を読まれることはありますか?」
「はい。本を読むのは好きです。実家にいた頃は父の図鑑も勝手に眺めてもいました」
いたずらっぽい表情を浮かべて言う立香に鳥居は微笑して一つ頷く。
「おそらく、立香さんの読まれている物語で描かれる恋は、先ほど立香さんがおっしゃったようにきらきらと輝く、甘やかで心地の良いものなのでしょうね」
「だから恋に憧れるのでは?」
「ええ。ですから、それは『憧れ』です。恋という事象に憧れているのです。恋というのは、確かに誰かに憧れるところから始まるのかもしれません。ですが、その先には自分でも驚くくらいの醜い感情、嫉妬や独占欲が生まれるんですよ」
立香がわずかに俯いた。
「ですが、それは悪い事ではないのです」
「でも、それは……よくないことだと思います」
「思うのは自由ですよ。もし、あなたがまだ恋をしていないというのなら、この先、いつか恋をするときに自分の抱いた嫉妬や独占欲などを否定してはいけません。それも恋の一部なのですから」
「でも、それでお相手にご迷惑をおかけしては……」
「そこの折り合いをつけるのが大人というものです。初めは難しいかもしれませんが、いつか上手になりますよ。甘くて苦いものが恋なのです」
「……鳥居様も恋をされたことがありますか?」
「ええ、私ほど恋多き男はいないと軍部で評判ですよ、不本意ですが。憧れで終わったものや、自分の醜い感情で壊してしまったもの。色々とありました」
「今は?」
「今ですか? ……今は、美味しいところだけをつまみ食い。恋でも憧れでもなく、遊んでます」
おどけて言う鳥居を立香はぽかんと眺めた。
「では、そろそろ立香さんもお休みなさい」
茶を飲み干して鳥居が立ち上がった。
「あの!」
「はい」
「どうして、そんな話をしてくださったんですか?」
「そうですね……いい年して折り合いを付けられないバカを知っているというのと、きっとあなたは汚い感情をあまり目にしたことがないのではないかと思って。それは必ず誰の心にもあるもので、間違いではない。おそらく、藤丸先生はあなたにそれを教える前にお亡くなりになったのではないかと思ったんですよ」
「ありがとうございます」
立香が素直に礼を口にすると彼は笑う。
「本当にここに居づらくなったら私を頼っていただいて構いませんからね。あなたを匿うくらいの甲斐性はあります。千恵さんが逃がしてくれますよ」
思いもよらない申し出に立香は目を丸くして、そして笑う。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「……あなたの方が断然大人ですね。明日、ベディヴィエールと顔を合わせることになると思いますが、できればいつもどおりを装ってやってください」
「仲がいいですね」
「不本意な評価です」と彼は笑い「もう一つおせっかいいいですか」と人差し指をたてた。
「はい?」
「欲しいものは欲しいと言いなさい。手に入るかどうかはわかりませんが、言わなければ他人にはわかりません。どうしても欲しいと思った時は、ちゃんと口に出しなさい。立香さんは、お父上が往診で留守にされていたり、お忙しくされていたからひとりで過ごしていた時間が多かったでしょう? ご近所の方が面倒を見てくださっていたようですが、そういったことを口にしたことは殆どなかったのでは? 言えるようになると随分と楽ですよ」
鳥居の背を見送った立香は首を傾げる。
「どうして、お父さんが往診してるときわたしが一人だったって知ってるんだろう?」
翌日、朝食の支度をしていると「おはようございます」と張りのない声が聞こえた立香は振り返って「おはようございます」と笑顔で挨拶を返す。
相手はほっとしたような表情を見せ「おはようございます、立香さん」と改めて挨拶をしてきた。
その背後には呆れた表情を浮かべた彼の友人だ。
「鳥居様、おはようございます」
「おはようございます。朝から若い娘さんの顔を見るのは良いですね」
「あなたの家は。年若い方がお勤めではありませんでしたか?」
「さすがに女学生の年齢の方はいらっしゃいませんよ」
席に着きながらしている二人の会話に立香は首を傾げた。そういえば、鳥居の家の話は全く聞いた事がない。城ケ崎の幼いころからの友人ということはそれなりの家なのだろうが、そんな話題が一度もなかった。
それはともかく。
「あの。ベディさん、昨日はご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と改めて立香が謝罪を口にする。
「いいえ、私の方こそ」と城ケ崎が応じ、お互いが謝罪して丸く収まった形となった。
謝罪を口にするタイミングが取れたと安心した表情を浮かべた城ケ崎に鳥居は溜息を吐く。
「立香さん、坊ちゃんに言いにくいことがあれば私に仰ってください。出来るだけお力になりますからね」
配膳をしながら千恵が言う。
「私に言いにくい事とは何ですか? たとえば」
「坊ちゃんは殿方ですからね。恋の相談など、しづらいでしょう?」
「え?!」
変な声を出したのは城ケ崎で、立香はぽかんと千恵を見た。
「たとえ話です」
にこりと城ケ崎に微笑みを向けた千恵はどこか愉快そうで、すっきりしたような表情を浮かべていた。
「では、いってきます」
「いってらっしゃい」
「お気をつけて」
少し早いが立香が家を出て行った。
城ケ崎と鳥居の前に湯呑が置かれる。出勤するには少し早い時間なのだ。
「ベディヴィエール、今回は千恵さんと立香さんの顔を立てて付き合ったが、次にこのようなことがあれば私は縁を切るからな」
友人の言葉に城ケ崎は固まる。
「この間も言ったが、君は自分が使える札とその最も有効な切り方を把握しておくべきだと思う。それと、……なんて顔をしている」
「縁を切ると……」
眉を下げて言う城ケ崎に鳥居が溜息を吐いた。
「「次このようなことがあれば」と言ったんだ。同じ轍を踏むようなバカならという意味だ」
「坊ちゃま、そろそろお支度を。今日はお送りいたしましょう」
出勤してきた徳三が声を掛けてきた。
「いえ、まだ間に合いますよ」
「先ほど千恵さんにお遣いを頼まれたのです。ですから、坊ちゃんをお送りしたついでに店に寄って帰ろうと思いまして」
「わかりました。では、仕度をしてきますね」
そういって椅子を立った城ケ崎は自室に向かった。
「坊ちゃまは私もちゃんとご自身が手にされている札と思っていただけているでしょうか」
徳三の呟きに「どうでしょうか。あれは遠くしか見えていませんからね」と鳥居が苦笑を零した。
「坊ちゃま」
運転席の徳三が声を掛けてきた。
「はい」
「確かに、私は旦那様に御恩がありお仕え致しました。ですが、今は坊ちゃまにお仕えしています。どうか、お忘れなきよう」
「……はい」
まつ毛を伏せて城ケ崎は頷いた。
◇◆
見合いの前日、夕飯の席で城ケ崎と千恵が明日の服装について話をしていた。
「やはり、お相手は軍部の方のお嬢様ですから、坊ちゃんは軍服がよろしいのでは?」
「場所が場所ですからね、あまり物々しいのは……確認を怠りました」
ちらちらと視線を向けている立香に城ケ崎はにこりと微笑み、千恵との会話を続ける。
「どなたか付き添いをお願いした方がよろしいのでは?」
「私が付添いたしましょう、坊ちゃま」
「いいえ、私一人で行きます。ただ、徳三さんには車の運転をお願いしたいと考えています」
「……かしこまりました」
「徳三さんがだめなら、公爵様は?」
「それこそお願いできません。父の友人ですが、私は友人の子でしかありませんよ」
千恵と徳三は顔を見合わせる。
「ごちそう様でした」
立香は手を合わせた。全く話に入れないし、よしんば入れたとしても入れてくれない雰囲気がある。
きっと自分が子供だからだ。
いつもの美味しい食事を無理矢理腹に収めた感じが否めない。千恵に申し訳ないと思いつつ食器を片づける。
「立香さん、先に風呂に入ってください。私はもう少し時間がかかります」
「……はい」
「勲章はどうされますか」
「軍服を着て行かないのなら付けない方が良いでしょう」
背後の会話から逃げるようにその場を離れた。
ちゃぷんと湯船に浸かる。
「わたし、嫌な子だ」
ポツリと呟いた声は思いのほか大きかった。
先日鳥居に教えてもらった恋の定義。それに当てはめると、どうやら城ケ崎に恋をしているらしい。
――憧れの先の恋。
甘くて苦いものらしいが、それを教えてもらった時からは苦みしか感じない。
舌触りの悪い、ザラリとした感覚。ドロドロとした重い何か。
「はー……」
明日、見送りに出るのはやめようかと思う。顔を見たら行かないでと言いそうだ。
居候のくせに何を言っているのだろうか。図々しい。
「どうして恋なんてしちゃったんだろう」
あと一年と少しすればこの家を出ていくのに。そうすれば城ケ崎とも縁は無くなり、平民と上流階級と違う世界で過ごすことになる。
どうしてそこまで待てなかったのか。理屈ではないということは身をもって知っているが、零したくもなる。
少し長湯をしてしまった。答えの出ない問答を延々と繰り返していたのだ。
「ああ、立香さん。では、また明日」
今まで千恵がいたということは先ほどまで打ち合わせをしていたのだろう。
「はい。おやすみなさい」
「……立香さん」
「はい?」
何か言いたげな表情を浮かべた千恵だったが「なんでもございません。風邪を引かないようにちゃんと髪を乾かすんですよ」と話題を替え、「では」と一礼して玄関に向かって行った。
台所を覗いてみると夕食を摂っている城ケ崎の姿があった。
「城ケ崎様」
「……」
声を掛けても返事がない。しかし、彼の視線はこちらに向いており、存在に気づいていない筈がない。むしろ、認識して視線を向けている。
「城ケ崎様?」
「……申し訳ありません。ぼうっとしていました」
微笑む彼の表情がどこか切なくて胸が痛い。
「どこかお加減が悪いんですか?」
「いいえ、大丈夫です。今日は冷えますから、暖かくしておやすみなさい」
「お片付けは私が後でやっておきますね」
「いいえ。千恵さんには明日の朝にお願いしますとお話していますから」
どこか拒絶の色が見える城ケ崎の声に立香は怯んだ。
「じゃあ、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
少し早足になってそこ場を去っていく。
部屋に戻ってベッドにダイブした。
「くるしいよ」
気が付くと日が昇っていた。
「朝ごはんの支度」
着替えて部屋を出た。
台所では千恵がいつものように朝食の支度を済ませていた。
「ごめんなさい、寝坊しました」
「いいえ」
「……城ケ崎様のは?」
朝食は一人分だった。
「坊ちゃんはもう少し遅い時間に軽く済ませるとおっしゃっていましたので。おにぎりでも作ろうかと思っています」
「わたしだけ頂いても……」
「良いんですよ。立香さんが朝食を抜かされたとあっては坊ちゃんが心配されます」
坊ちゃん、城ケ崎の存在を口にされて立香は俯く。
「千恵さん」
「はい」
「今回の城ケ崎様のお見合いは、その……」
何を言おうと思っているのだろう。
断れないのかと問いたいのか。良い話だと太鼓判を押してもらいたいのだろうか。どちらでも変わらない。
「立香さん?」
「いいえ。何でもありません。お手伝いできなくてごめんなさい。次はお手伝いしますね」
殊更明るくいう立香に千恵は複雑な表情を浮かべて微笑み「ありがとうございます」と頷いた。
十時過ぎに城ケ崎が部屋から出てきた。さすがに寝起きの顔ではなく、むしろあまり寝ていないようだった。
「緊張ですか?」
相手は将軍の娘だと聞いている。軍のトップクラスの人の娘ということで色々と気を遣うのだろう。
「そうですね」
立香の問いに力なく笑って城ケ崎は席に着いた。
千恵の作った握り飯と立香の淹れた茶でひとまず軽く腹を満たす。
「では、着替えましょうか」
千恵に促されて「ええ」と億劫そうに城ケ崎が立ち上がった。
「片づけはしておきます」と立香が言うと「お願いしますね」と千恵が頷いた。
「立香さん」
「はい」
何か言葉を発しようとした様子の城ケ崎は、口を噤む。
「いいえ、なんでもありません」
「おっしゃるなら今だったのでは?」
千恵に突かれて城ケ崎は溜息を吐く。
「何を言えば」
「そこは坊ちゃんが考えることです」
「私には、何もありませんから」
「失礼な話です」
拗ねたように返す千恵に苦笑を漏らし、「お世話になっている自覚はあります。いつもありがとうございます」と城ケ崎はフォローを入れた。
「坊ちゃんは思い込みが激しいですからね。だから、立香さんの家の周辺をうろつく不審者扱いをされたのです。聞いて驚きました。旦那様と奥様はおなかを抱えて笑っておられましたが」
「昔の事です」
いつまでもチクチクと突かれるネタだ。だが、あの頃は楽しかった。鳥居もそれに付き合ってくれたし、何より、自由だった。幼い少女に恋をしても咎められることなく笑って応援してくれる人がいた。
「坊ちゃん、本当にいいんですか?」
「ええ。仕方ありません」
「私にはそうは思えませんけどね」
「どういうことです?」
「坊ちゃんはもういい大人なので、ご自分で考えてみてください」
「厳しいですね」
着替え終わって玄関に向かうと立香が居た。外では車のエンジンの音がする。
「さっき徳三さんがいらっしゃって。車を正面に回しますとのことでした」
「はい、ありがとうございます」
城ケ崎は深く息を吐いた。
「では」と言うと服の袖を掴まれる。
「立香さん?」
「どうしても、行かなきゃダメなんですか?」
城ケ崎と目が合った立香はハッと我に返り、「ごめんなさい」と言葉を置いて屋敷から逃げ出した。
残された城ケ崎は呆然と立ち尽くしていた。今にも泣きそうだった少女の言葉は何よりも重い。
「坊ちゃま、ご準備は如何ですか?」
「徳三さん」
「はい」
「後を任せても……いいですか」
「畏まりました。どうぞ、いってらっしゃいませ。立香さんは門を出て右手に走って行かれました」
「ありがとうございます」
律儀に返事をして城ケ崎が駆けだした。
「何とか間に合いましたね」
「さて、やっと私を頼ってくださった」
「羨ましい」
「ふふふ。では、城ケ崎伯爵の名代の大役を務めてまいります」
「ええ、お願いします」
何てことを口にしてしまったんだ。
立香は走りながら後悔した。暗い感情は持ってもいい。だが、それで相手に迷惑をかけるのは言語道断だ。
どうしてか城ケ崎は今回の見合いの話に乗り気ではなかった。周りが言うにはいい話の筈なのに、彼にとってはそうではないと言わんばかりの表情だった。
行かないで、と何度も心の中で祈った。行けば受けざるを得ない話だというのだ。
だが、相手が上司でその妻の実家の家の格が伯爵よりも上だというなら行かなければそれはそれで困ることになるのだろう。
自分が未熟で子供であることを痛感した。
「立香さん」
背後から呼ばれる声は聞き間違うものではない。
チラと振り返るとぐんぐんと距離を縮められていた。相手は現役軍人だ。体力も脚力も全然違う。
「お待ちください」と腕を掴まれた。
「立香さんは足がお速いんですね」
「あっという間に追いつかれてしまいましたが」
「それは、勿論そうでなくては私は軍を解雇されてしまいますよ」
少しだけ息が上がった城ケ崎は冗談を口にしてひとまず道の端に移動した。
「お見合い、行かなくていいんですか?」
「はい。行きません。どの道行っても断る予定でした」
「でも、お断りできないと聞いています。お相手は城ケ崎様の上司で、その奥さんのご実家が伯爵よりも位が上だって。だから、軍人としても伯爵としても、どちらの面でも城ケ崎様の意見は通らないだろうって」
「立香さんのご学友はどれだけ情報通なんですか。……ええ、そうですね。お断りしても話を進められるでしょう。ですが、私はお受けしたくないという意思はお伝えしようと思ったんです。相手のお嬢さんの心を傷つけることになろうと」
「どうして?」
「どうしてだと思います?」
「……わかりません」
「私はね、立香さんがウチにいてくださっている今の生活が大好きなのですよ」
立香は俯いた。ズルいと思う。そんなの期待してしまうではないか。
「わたしも、今の生活はとても楽しいです。でも、わたしには何もありません。城ケ崎様をお助けすることができる後ろ盾も、地位も」
「……立香さん。あなたは地位や後ろ盾があれば私と共にいてくださいますか?」
突然の問いに立香はそろりと城ケ崎を見上げた。
「立香さん?」
答えを促される。
「夢のようなことを言えば、はい。わたしは城ケ崎様の事が好きです。だから、そんなことになればそれは「お待ちください」
言葉を遮られた。
「ご、ごめんなさい。弁えずに」
言うべきではない言葉をまたしても口走った。だが、こんな思いを抱いている自分を側に置いておこうとは思わないだろう。過去の彼の努力に報いることができるのは、彼の元を去るしかないのだ。きっと。
「いえ、あの。待ってください。あの……あー! もう!」
城ケ崎が蹲る。道の端とはいえ往来だ。周囲の視線が少し痛い。
「城ケ崎様?」
「あのですね、立香さん。私はあなたの前だとポンコツらしいです」
突然の話題に立香は首を傾げた。いつもしっかりしている落ち着いた大人のように見えている。誰が彼をそう評したのだろうか。
「あなたに愛を告白する時は、場所や時間など、色々とこう……感動的にと思っていたのですが」
眉を下げて少し情けなく笑った城ケ崎はすっくと立ち上がり、立香の手を取った。
「いつだったか、嵐の夜にあなたを守りたいと言った私をあなたは騎士のようだと言いました。立香さん、どうか、騎士ではなくあなたの伴侶としてあなたを守らせてください」
見つめる先の瞳は見開かれている。
「あの、えと」
「答えは、あなたの気持ちだけで」
「はい」
こくりと頷いた。
「ありがとうございます」
「でも、あの。世の中気持ちだけではうなくいかないんですよ」
立香の言葉に城ケ崎は笑い、「ええ、ですからこれから外堀を埋めていきます」と言って彼女の手を引いて歩き出した。
辻馬車を捕まえ、「鳥居公爵家に」と行き先を告げる。
立香が城ケ崎を見上げ、詳しい話を求めてみたが彼はにこりと微笑んだだけだった。
暫く馬車で走り、見えてきた屋敷は城ケ崎家と比べ物にならないくらいの豪邸だった。
「お城みたい」
思わず呟いた立香に「私も頑張ってこれくらい大きな屋敷を建てましょう」とどうしてか城ケ崎が張り合う。
知り合いのようで、門番は何も言わずに通してくれた。
そのまま屋敷までの中庭を歩き、やっと大きな重そうなドアにたどり着いた。
城ケ崎がそれを開けて立香に入るように促す。
「おや、これは……」
丁度玄関先に居たのはあの鳥居で、やはり鳥居公爵家というのは彼の家らしい。
「公爵様だったんですか?」
挨拶よりも前に問いが飛んできて彼は笑う。
「父がね。跡継ぎは兄で、私は気楽な次男ですよ。ベディヴィエール、お見合いはどうしたんですか? それとも、これは生霊かな?」
「徳三さんにお願いしてきました」
「徳三さんがお見合いするんですか?!」
立香の問いに鳥居は声をあげて笑う。
「いえ、立香さん。そうではなく……」
笑いを堪えて城ケ崎は訂正した。
「徳三さんは、ベディヴィエールの切り札中の切り札なんですよ」
ひとしきり大爆笑した鳥居が補足する。
「切り札?」
「あの方も爵位持ちです。といっても、あの方のはご自身のみ。あの方自身の功績に対する叙位なので、引き継がれないのです。そして、その功績は軍に関係している。将軍ならあの方の事を知らない筈はないし、ひとまず爵位のある方の登場ということで強くは出られない。何せ、あちらは奥方のご実家がということで直接的な位はお持ちではありませんからね。まあ、徳三さんの事は軍部でも本当に一握りの上層部しか知らないことですから、知らなければ唯の好々爺にしか見えないでしょう」
「城ケ崎様、ご存じだったのですか?」
「え、ええ……」
「とはいえ。いくら徳三さんが出てきたとしても今回の件は先送り程度でしょうけどね」と鳥居が付け加え、「それで、ご用件は?」と問う。
使用人のような人が少し離れたところに控えていたが、鳥居が軽く手を挙げたのを見て一礼して去って行った。
「今日は公爵様はいらっしゃいますか」
「ええ、執務室にいると思いますよ」
「わかりました」と頷いて城ケ崎が歩きはじめる。
立香は慌てて彼の背を追ったそしてその隣には鳥居が付いて来ている。
「自覚しましたか?」
不意の問いに立香は鳥居を見上げた。
「ここ数日特にお辛かったでしょう?」
「え、と……わたしは恋をしていました。鳥居様に教えていただけていなかったら、この苦みがなにかもわからなかったと思います」
「お力になれて光栄ですよ」
「何をこそこそお話されているのですか」
少し先を歩いていたはずの城ケ崎が戻ってきて立香の肩を抱き寄せる。
目をぱちくりする立香に視線を向け、鳥居は城ケ崎を見た。
「立香さんにはウチに来た理由をお話になっていますか?」
「……まだかもしれません」
「まだ聞いていません」
「相変わらずポンコツですね」
あ、なるほどと立香は納得した。確かに、彼以外城ケ崎をポンコツと評せないだろう。
「ちゃんと目的をお話しなさい。そういえば、思い出しましたがあなたは自分の名すら名乗っていなかったらしいではありませんか」
鳥居が歩きだし、城ケ崎と立香が続く。
「待ってください。名、と言いましたか?」
「言いましたよ、厳男。お父上があなたのことを想ってつけた名を蔑にするなど……」
「蔑などにしていません。ただ、名は体を表すの真逆だと笑われ続ければそれはもう、嫌な思い出しか残らないではありませんか」
「笑った人間を片っ端からボコボコにしていた人が何を言うのやら」
「ボコボコになどしていません。一発殴ったくらいです。立香さんの前で変な事を言わないでください」
「君は立香さんの前で変にカッコつけるのはやめた方が良い」
とある部屋の前で鳥居が足を止めてドアをノックした。
「父上、城ケ崎伯爵がいらっしゃいました」
「入りたまえ」
「どうぞ」
ドアを開けて中に入るように促されて城ケ崎と立香は入室した。
「お久しぶりです、公爵様」
「久しぶりだね。君の噂は耳にしているよ。今日はお見合いではなかったかな? それで、約束もなく、前触れもなく我が家にやって来た理由を聞いても?」
「御無礼をお詫びいたします。そして、図々しいお願いに上がりました」
「ほう? 図々しいお願いとやらを聴かせてもらおうか」
城ケ崎は立香の背を軽く押した。
「この方を公爵家の令嬢としてお迎えいただけませんか?」
「え?!」
「だから、何度も言うが立香さんにちゃんと説明をしてから話を進めろ」
驚きの声をあげる立香の様子を見て鳥居が呆れたように突っ込む。
「ふむ……理由は?」
応接テーブルがある一角に城ケ崎たちを案内し、自身も移動しながら公爵が問う。少し話が長くなるかもしれない。
「私がこの方と結婚したいからです」
「このお嬢さんを娘に迎えするとして、我が家は何の利益が?」
「父の仕事については、家令が細々とではありますが続けてくれていました。その事業の譲渡は如何でしょうか」
「うーん……」
顎に手を当てた公爵が立香を値踏みするように見た。
「父上、城ケ崎伯爵の提案は我が家には過ぎるものですよ」
一歩下がったところに立っていた鳥居の言葉に「どういうことだ?」と公爵が問う。
「数年前に義姉上が町医者にお世話になったのを覚えておいでですか?」
「もちろんだ。こちらの恩返しを全く受け入れてくれなかった」
「立香さん、お名前を」
鳥居に促されて立香はハッとした。話題に付いて行けずにぼうっとしていたのだ。
「藤丸立香と申します」
「藤丸?!」
公爵が立ち上がる。
「な、なにか……」
怒らせてしまったようだ。不安になって城ケ崎を見上げると彼は安心させるように立香に微笑みを向け、そして注意深く公爵の様子を窺っていた。
「藤丸と言ったか」
公爵がゆっくりと腰を下ろす。
「はい」
「お父上はお医者様か」
「昨年他界しましたが、町で小さな診療所を営んでいました」
「城ケ崎伯爵」
緊迫した公爵の様子に「はい」と緊張した面持ちで返事をする。
「先ほどの話、事業譲渡は必要ない。むしろ、このお嬢さんが君と結婚したいというのなら、私は全力でその希望を叶えたい」
「はい?」
城ケ崎が首を傾げる。
立香も同じように首を傾げた。
「数年前だが、息子の嫁がその町医者の藤丸先生に世話になったんだ。危うく流産という所を助けていただいた。こちらがどんなにお礼をしようとしても頑として受け取ってくれなかった。何度か診療所に足を運んでお礼をさせてくれと頼み込んだが、最後には「あなたは社会的に地位がある。困っている人を助けられるだけの力がある。あなたの元に困った人が訪れたら出来る範囲で力を貸してやればいい。私がしたのはそういうことだ」と言われて諦めざるを得なかった。だが、これは良い恩返しの機会じゃないか」
目を輝かせて公爵が言う。
「立香さん、といいましたね。あなたは城ケ崎伯爵と結婚したいということでよろしいですか?」
「はい」と立香が頷く。
「よろしい。私はあなたを娘としてお迎えしよう。そして、城ケ崎伯爵との婚約を認めよう」
立ち上がった公爵は鈴を鳴らして家令を呼ぶ。
展開が急すぎて立香はぽかんとした。城ケ崎も同様で、どういう駆け引きが必要かとこちらに着くまで色々とシミュレートしていたというのに、「藤丸立香」で解決してしまった。
「頭の体操になりましたか?」
声を掛けてきた鳥居に二人が振り返る。
「あなた、ご存じだったのですか?」
「我が家の事ですよ? 何故知らないと?」
「お父さん、なんだかいろんな知り合いがいるみたいです」
「そうですね。さて、此処は少し堅苦しいですから、客間に移動しましょう」
公爵に一言声を掛けて客間に移動した。
間を置くことなく紅茶が出され、茶請けとして洋菓子も出てくる。
城ケ崎家に初めて足を運んだ時の事を思い出した。あの時も非常に緊張したが、今回も緊張した。
「あら、この方が?」
ドアが開いて女性が入ってきた。この家の、鳥居家の人だとわかる品のある人だ。
「母です」
鳥居が端的に説明する。
「は、初めまして。藤丸立香と申します」
椅子から立ち上がって挨拶をすると「初めまして」と微笑まれた。
なんだかいい匂いがしそうな人だ。
「先ほど公爵から聞いたのですが、あなたがわたくしの娘になってくださる方なのね」
ニコニコと微笑んで立香の手を取る。
「そういう話になったみたいです」
「乗り気ではないの?」
首を傾げられ立香は慌てて首を振る。
「現実味がないだけです」
「そうかもしれないわねぇ。お部屋を用意するのに数日かかるけど、それが終わったらお迎えに行きますからね」
「え?!」
変な声を上げたのは城ケ崎だ。
「何を驚いているんだ、君は」
「だって、「迎えに」と……」
「それはそうでしょう? 立香さんは我が家の娘になるのよ?」
「今までは君が後見人ということだったから、一緒に住むことはかろうじて世間に対しても言い訳は立ったが、これからは鳥居家の令嬢というのが立香さんに対する世間の評価だ。婚約するとはいえ、さすがに婚前に同居は拙いだろう」
言っていることは正論で、だから反論できない城ケ崎は「ぐぅ」と唸る。
「立香さん」
どこか情けない声の城ケ崎に名を呼ばれて返事をすると「毎日お顔を見に来ますね」と宣言された。
「来るな」
「あなたの顔もついでに」
「……来るな」
「仲が良いですね」
立香が笑って言うと「不本意な評価です」と二人が声を揃えて返し、「あら、仲良し」と伯爵夫人がコロコロと笑った。
辻馬車を拾っての訪問だったため、鳥居家の使用人に送ってもらって帰宅した。
二人の帰りを待っていた千恵と徳三に先ほど鳥居家でまとまった話をする。
「立香さんのお父様は、何というか……凄いですね」
それ以外の感想が出てこなかった。
「では、立香さんのお引越しについてはまた鳥居様のご準備が整ったらご連絡いただけるということですね」
「あちらの皆さまは優秀ですから間もなくでしょうね」
千恵の言葉に徳三が頷く。
「それと、私は退役しようと思います」
「え?!」と声を上げたのは立香だけで、どうやら千恵や徳三は予想済みだったらしく「そうですか」と一言返しただけだった。
「で、でも。良いんですか?」
立香ひとりが慌てている。
「ええ。私が軍に籍を置いたのは伯爵家を継ぐための箔をつけるためだったのですよ。元々動機が不純だったんです。それに、長い間徳三さんにお願いしていた父の事業を本格的に手を付けたいと考えていましたので、今回がいい機会だと思って」
「もしかして、鳥居様はご存じだったのですか?」
先ほど、毎日顔を見に来ると鳥居家で話した際の様子を思い出した。
「いいえ、明言はしていませんが。おそらく察してはいたと思います。付き合いが古いですからね」
それを聞いた立香が少し拗ねた様子を見せたため、城ケ崎は慌てて千恵と徳三に助け舟を求める視線を向けたが、どちらも「ご自分で」とこれまた視線で返したのだった。
コンコンとドアがノックされた。
立香は緊張して一瞬息を詰める。
「立香さん、もうお休みですか?」
ドアの向こうから聞こえた声に「いえ」と返してドアを開けた。
「ああ、良かった」と城ケ崎は息を吐く。
「えっと……」
今日は怒涛のように色々とあったため情報の整理がきちんとできているのか心配だし、何より夢ではないかと思っているところだった。
「少し、お話をしませんか?」
台所に場所を移して、立香が白湯を入れた。寝る前なら茶ではない方が良いだろうと城ケ崎に言われたのだ。
「立香さん、おそらく今はまだ混乱されておいでだと思います。鳥居公爵は良いお人です。どうかご安心ください。ただ、まあ。アレが兄になるというのは心配でしょうが」
「アレ」とは彼の親友の事だ。
立香は笑った。
「鳥居様はわたしに色々と教えてくださった方です。心配ありません」
「色々って何ですか?!」
ずいと迫って城ケ崎が問う。
思わず仰け反った立香の様子に「失礼」と再び椅子に深く腰を下ろした。
「城ケ崎様「ベディです」
いつものやり取りだ。立香は笑う。ここ最近は彼の事を城ケ崎と呼んでも訂正されなかった。
「それで、何ですか?」
「恋というのは甘くて苦いものらしいのです」
「甘くて苦い?」
「はい。それを教えてくださったのは鳥居様で、だからわたしはベディさんに恋をしていることを自覚できたんです」
目の前の城ケ崎が苦い表情を浮かべている。おもしろくないのだろう。
「では、」と気を取り直したように城ケ崎がほほ笑んだ。
「恋の先は私がお教えしましょう。いえ、共に学んでいきましょう。恋が甘くて苦いのなら愛はどのようなものなのか。二人で見つけていきましょうね」
相変わらずなんだか凄いことを言う人だと面食らった立香はだんだん顔が熱くなってくる。
「ふ、不束者ですが、よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、未熟者ですが精一杯あなたを愛することは約束できます」
突然の爆弾投下に「きゅう」と立香は撃沈した。
「ああ、一年後が楽しみです。どうして一年後が明日ではないのでしょうか。……立香さん?」
撃沈した未来の妻に首を傾げる城ケ崎に「なんでもありません」と撃沈したまま立香は未来の夫に返した。
桜風
18.3.3初出
(19.9.15再掲)
本作品は書き下ろしSSを追加して自家通販しておりますので、ご入用でしたらご利用ください。 → こちら