Dear my friends F 10





母親の仕事場に行くのは人生初の経験だ。

何となく緊張する。

別に取って食われることはないし、クマとハグをしろと強要されることもないだろう。

...クマ、か。

ふと、永田の言った言葉を思い出した。

そして、学園で会ったあのクマの存在。悟郎は少し何か知っているようだった。いや、たぶんB6は何かを知っているのだろうな。

「はぁい、作家先生」

「帰る」

空港まで迎えに来てくれたことはありがたいが、何だその一言目は。

「ああん、ごめんごめん!待って、帰らないで〜」

腕を掴んでそう言われては溜息を吐いた。

「はいはい。で、どこに案内してくださるのかしら?アニマルドクターさん??」

の母は笑った。

「じゃ、取り敢えず私のオフィスかしらね」

『オフィス』ねぇ...

心の中でそう呟いては母の後を歩いた。


空港から出て車に乗る。

「で、どう?またしてもウハウハハーレム生活中でしょ?」

「ウハウハとかそういう状況じゃないんですけどねー」

の返事に母は笑った。

てっきり「ウハウハハーレム」という言葉で怒られると思ったのに...

「衣笠君の遺言、聞いてるから」

「死んでません!」

に叱られて肩を竦めた。いい表現だと思ったのに。

あの学校を去った衣笠から受けたメッセージ。聖帝学園の教師という衣笠の最後の言葉だから、遺言じゃないか。

「こっちはこっちで色々動いてみてますよ」

「...感謝します」

の言葉に驚いて眉を上げて助手席に顔を向ける。

「前を向いて運転していただけると助かるんですけどねー」

は窓のほうに少し顔を向けたままそう言った。

気のせいか、少し赤くなっているような...

自分も随分遠回りしているな...

母は娘の姿を見ながらそう思った。

何で『お母さん』が出来なかったのだろう。意外と可愛いじゃないか。

「はいはーい」

の要望に軽い口調で応え、鼻歌を歌いながらオフィスと称した大学の研究室へと車を走らせた。


研究室に戻り、取り敢えず一息つく。

「ああ、そうだ。獣医さん」

「何かしら?」

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

首を傾げてに話すように促す。

「あのさ、くまって飼いならすこと出来る?」

「クマ?bear?」

「Yes。ベアです」

暫く考えて「まあ、出来なくもないと思うけど...なに、どうしたの?」と詳しい情報を求めてきた。

は聖帝での話と、そして別れ際に永田が言った言葉を話す。

「くまとコミュニケーションを取ることって可能?」

「まあ...皆が皆出来るとは思えないけど。出来る人は出来るんじゃないのかな?ほら、一君とか、あとトゲーと瑞希君コンビとか見たらわかるだろうけど」

もそのことを思って出来なくもないのかな、と思ったがあれはあれで特殊な例だと思う。

そのことを話すと「まあ、否定できなくもないわね」と母が肯定した。

「でも、そうね。あのキレ者って感じの永田さんが言うなら警戒しておくに越したことはないでしょうねぇ」

のんびりそう言った母には肩を竦める。

「ね、おかわり」

そう言って母がマイカップを差し出してきた。

彼女がお茶を淹れる事すら危険なのでは自らお茶を淹れていた。

おかわりまで所望されるとは思わなかったが...

「ねえ、

今度は緑茶と思って急須を温めていると声を掛けられた。

「なーに?」と気のない返事をする。

「寂しかった?」

不意に何について問われたのか分からず、答えに詰まった。

「あたしが、研究にかまけてて寂しかった?」

「...わかんない。うちはそう言うものだって思ってたと思うし。もう覚えてないよ」

何を突然言い出すのだろう。

「あたしね、1回だけ草薙さんにアドバイス貰ったことがあるのよ」

何だろう、とは振り向いて聞く体制をとった。

「1回で良いから、を抱きしめてあげなさいって。そうしたら、きっと喜ぶからって。あたしさ、子供の相手の仕方わかんなくってさ。あ、これ思い切り今更な言い訳ね」

気恥ずかしそうに彼女が言う。

は溜息を吐いた。仕方のない人だ。

たぶん、彼女自身子供のころそういうことをしてもらった経験がなかったのだろう。祖母が一度寂しそうに懺悔をしていた。「だから、は自分の子供を沢山抱きしめてあげなさい」と。

自分は母が抱きしめてくれなかった分、一の母親に抱きしめてもらえていた。その温もりは覚えている。

だから、「ほら」とは少し面倒くさそうに両手を広げた。

母は目を丸くした。

「ほら」ともう一度が言うとゆっくりソファから立ち上がる。

恐る恐るの背中に腕を回してそっと抱きしめた。物凄く遠慮がちに、どうして良いのかわからないという雰囲気がありありと伝わってくる。

この人は、自分や弟を捨てたかもしれない。捨てた、と言うよりも選ばなかった。

でも、自分が体を悪くしたとき、日本中を駆け巡って高名なドクターに会いに行き、縁を切った両親に頭を下げるために海を渡ってくれた。果ては、聖帝への編入だ。

最初は余計なお世話だと思った。

自分のことなんて本当はどうでもいい癖にと思った。

でも、今は感謝している。

自分にとって唯一の『母校』をくれたのは母だ。そこで大切なことを学び、大切な人たちと出会った。あのときの1年は自分にとって一生ものの宝だ。

生きる道を選べる環境においてくれたのはこの人だった。

勿論、物凄く常識が欠けていて困った友人たちにもとても感謝しているが、彼らに会えたのはこの人のお陰だと思うと感謝せずには居られない。

「ありがとう」

が呟くとぎゅっと力強く抱きしめられた。

彼女は声を殺して泣いている。ずっと胸につかえていたのかもしれない。

「わたしに、母校をくれて、恩師をくれて、大切な人たちをくれて...未来をくれてありがとう」









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桜風
09.7.24


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